「輪番独語」御愛顧の皆様、小生、去る4月19日付をもって、本願寺築地別院(通称・築地本願寺)輪番の職を退任いたしました。
 思えば丁度2年前、「説法獅子吼」の標題で、生れて初めてブログを公開して以来、沢山の方々から種々御指導御助言を賜りながら楽しく今日に至りました。
 その間、昨年6月、まる1年を経た所で、それ迄の繰言をまとめた小著『輪番独語』-築地本願寺輪番ブログより-を出版して、思わぬ御好評を頂戴するなど、彼此、本当に有難うございました。
 扨、今後ですが、袈裟の話やインド旅行の御報告など未完の部分も残っていることですし、多分5月初旬ごろから、「老僧独語」http://dhtoyohara.blog.ocn.ne.jp/blog/の名で再度お目にかかりたいと存じます。なお、御質問大歓迎です。
 読者皆様の益々の御健勝を念じつつ。
                                                     合 掌
                                                豊 原 大 成

インド(貧)

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 世界の60数億の人口のうち、腹一杯食べているのは十億そこそこだと聞いたことがあります。僅か10年ほど前のことです。
 しかし、中国とインドなど、合せて20数億もの人口を抱える発展途上国の急速な経済発展で、今や貧困国は、アジアとアフリカ、および中南米のそれぞれ一部ぐらいだと言われるようになりました。
 インドは、今年など、自動車製産台数が1千万台超。南インド、ベンガル湾沿いの昔からの港都チェンナイ(旧名マドラス)は今やインドのデトロイトとまで言われているそうです。
 しかし格差はどこの国にもあります。
 人口が日本の十倍あるインドでは、IT産業や自動車産業で、仮にその2割が、日本などで言う中産階級以上に入ったとしても、それ以下が八億人以上居ることになります。日本の衣食住の平均レベルとは比べ物にならない。
 日本では普通の住宅には有って当り前のTVや冷蔵庫やエアコンは、無くて当り前ですし、衣服にしても、日替りのおしゃれは、余程のお金持ちだけ。食事のメニューにしても、とにかく食べられるならよい。朝、昼、晩、あるいは季節による変化など、あまり考えないはずです。
 物乞いも、人の集るところ、特に寺院では、依然として多い。これは、寺院などに参拝する人は、心の優しい人が多い。いや少くとも、その時だけは心が優しくなっている、またなろうとしている。だから貧困者を見ると自然、財布の紐がゆるみ易いこととも関係があるのでしょう。
 更に言えば、「施し」は一種の善根です。施しをすることは善根功徳を積むことになる。否、功徳を積ませてもらっているのです。
 だからこの"布施=善根積集→未来の幸福の約束"の思想の徹底している国や地域では、仏教、ヒンズー教など宗教の如何を問わず、出家修行者は在家の人びとから平然と布施=供養を受けるわけです。そもそも出家修行者は修行に専念するあまり、衣食住のための職業を持たない。だから、このような人に対する布施=供養こそは、通常の布施以上に価値がある、善根功徳の度合いが高いと考えられているのです。
 タイやビルマの坊さんは、托鉢に行って食物を供養(布施)してもらっても、"有難う"などと言いません。布施する側の主婦など家人は膝まづき合掌しているのに、黙って平然と立ち去ります。意味を知らないと、坊さんって何と横柄で憎らしい奴だと思うほどです。
 また、"サドゥー"(インドの場合、ヒンズー教の修行者を一般にこう呼んでいます)だけでなく、貧困家庭の子供も、金品をねだりに来ます。
 全然洗濯の気配の無いシャツやズボン姿で足もとも裸足。そして右手を、ちょっとお腹を押えてから前へ差し出し、口もとへ食べ物を運ぶ仕草をして、再び右手を差出します。空腹だが食べ物を買うお金が無い。金をくれという仕草なのです。
 そして、もらうと、さっと身をひるがえして走り去ろうとする。背後から「ナマス・テー・カロ」(有難うと言えよ)と声をかけると、ちょっとふり返って「ああ、そうだった」とでも言うかのように「ナマス・テー」(貴方を礼拝します=有難う)と言います。
 それにしても、お釈迦さまとの因縁の深い王舎城(今のラジギル)で、お釈迦さまが住んでおられ、そこで「大無量寿経」や「法華経」を説かれたとされる霊鷲山=耆闍崛山(地表約200メートル高)の坂道の途中にしゃがんでいた40才台かと思われる夫婦らしい二人は憐れでした。子供の頃からの慢性栄養不足で充分成長しなかったのでしょう。痩せて、身体も小さい。その上、二人とも眼球が無いのです。物乞いのためとは言え、どうやって此処までやって来たのか。
 なお、二人とも眼球が無いのは、もしかすると、幼少の頃、乞食にするために、いや、親の乞食の道具にするために、親がわざわざ我が子の眼球を潰したのかも知れません。
 眼球だけではない。子供の腕や脚の骨を折って、生涯物乞いの生活を送るように仕向ける親もあるとのことです。憐れとも悲しむべきとも言うべき無知さ加減です。
 しかも全体としては、インドよりも西隣りのパキスタン、北隣りのネパール、東隣りのバングラデーシュなどは更に貧しいようです。
 そのパキスタン、山野の美しいパキスタンで、銃声や自爆テロが絶えません。「だから日本に生れて、よかった」ではなく、せめてこの貧困を何とかしたい。しかし貧困者の数は余りに多い。結局、その国の政治に期待するほか無いのです。

あるTV対談

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 喜劇役者の藤田まことさんが亡くなった。同世代の一人として謹んで哀悼の意を表します。
 TVブラウン管で初めて彼を見たのは、昭和30年代前半だったか。森光子さんの兄さん役として、漫才コンビの故ダイマル・ラケットさん兄弟らと共演した、昼食時の連続番組だったと思います。
 その彼が、かれこれ30年も前のこと、ふと見たTVの対談番組に出演していました。相手は作詩家の藤田まさと氏。まさと氏は明治末期の生れ。昭和初年から同57年に亡くなるまでの間に70曲近い歌謡曲の作詩を手がけ、中でも昭和10年の「旅笠道中」以後、「大江戸出世小唄」「明治一代女」、12年の「妻恋道中」「流転」、 13年の「麦と兵隊」、14年の「大利根月夜」、28年の「岸壁の母」などは(他にもあるかも知れませんが)一世を風靡し、私なども識らぬ間に憶えてしまったほどです。優れた詩には、優れた作曲がつき、優れた歌手が歌うからでもあるでしょう。 さてその対談相手の「まさと氏」に「まこと氏」は尋ねました。
 「先生と私とは、名前が一字しか違わないのに、どうして先生は、そんなに沢山大ヒット曲の詩を、お書きになられたんですか。その秘訣を教えてください」
 「まさと氏」は答えました。
 「万人に共通する抽象的な言葉は一人の心をも打ちません。逆に一人の具体的な体験や思いは、万人の心を打ちます。」(大意)
 まさと氏は、たとえば旅から旅を続ける所謂「旅人」の、夜の冷たさ、心の寒さを、自分のものとして詠い、昨日も今日も、日本海に面した港の岸壁に来て、未だシベリヤ抑留から帰らぬ我が子を待つ一人の母になりきって、その心を詠いこむ。しかもその言葉は無駄を省き、練りに練ったものです。正に深網笠にマントをひらつかせ、肩をすぼめて真暗な夜道をただ一人行く若い衆や、もしやもしや、我が子が乗ってはいないかと引き揚げ船から降りてくる兵隊さん一人一人の顔をのぞきこんでは肩を落とす、その母の姿が目に浮かぶようです。この母の姿を通して、作者は母の限り無い慈愛を、聴く人一人一人に鮮かに想起させている、いや、極端な場合、その母の気持になりきらせるのです。
 以来私は、その情景が目に見えるような表現を心がけて文章を書き、あるいは話すべきだと自らにも言い聞かせ、親しい人たちにも話してきました。
 「目に見えることが大切」「百聞は一見に如かず」です。この事実を、インドの幾つかの仏教遺蹟巡拝でも教えられました。また、たとえばカルカッタのインド博物館に一部修復保存されている中印度のバールフト仏塔玉垣(BC2世紀)には、その表裏にわたって、数多くの仏伝(お釈迦さまの伝記)やジャータカ(お釈迦さまの前生の物語)が彫刻されていますし、あるいはサーンチーの丘に残る仏塔門の彫刻などにしても、参拝者は難しい仏教哲学は理解できなくても、それらについて僧侶から解説を受けながら、次第に深い信仰の境地に導かれて行ったのではないでしょうか。そんな事を思いつつ、しかし如何せん、近頃いよいよ己が筆や言葉の稚拙さをかこつこと頻りです。

函館旅行

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  3月13日(土)から14日(日)にかけて、函館に行ってまいりました。
 用件は、阿弥陀如来尊像のお迎えです。
 築地本願寺には本堂などを含む本館の他、その左右に第一、第二と二つの伝道会館があります。ともに昭和60年の竣工ですが、本館は、シルクロード・大谷探検隊で名高い大谷光瑞師(西本願寺第22代宗主)と東大の先生・伊東忠太工学博士の合作というべきもので、昭和6年起工、9年夏竣工。以来丁度4分の3世紀を閲(けみ)しています。従って一度、特に本堂内陣を中心に、大修復の必要がある。それを京都の御本山西本願寺で宗祖・親鸞聖人の750回大遠忌法要が勤まる年、平成23年度を中心に、18ヶ月間かけて行う。そしてその後、築地での大遠忌法要を勤修する。
 しかし、本堂大修復の間には、仮本堂が必要で、その仮本堂を第二伝道会館内のホール、蓮華殿に設置する。そこでの御本尊をお迎えに、本願寺函館別院をお訪ねしたのです。
  函館別院は、それ自体、なかなか立派な、全国で70ほどある西本願寺直属寺院の中でも屈指の規模をもっていますが、広汎な地域に在住する御門徒たちのために、かつて4つの出張所が設けられていました。
 ところが十数年前、一つを残してそれらが次々と閉鎖されました。バブルの崩壊に伴う(?)人口減少のためです。
 その閉鎖した出張所の一つに御安置してあった御本尊、その後、函館別院でお預りしており、それをこの度、お譲りいただいたのです。
 本堂での譲渡式の前に、雅楽を依用した厳かな御法要。その間に、余間(内陣の次の間)に安置されたその御本尊の前で焼香させていただいたのですが、驚きました。
 閉鎖された出張所の御本尊なのだから、京都や奈良の古寺の尊像などと同じように、御身体を覆う金箔なども剥落しているだろう、御台座も光背も、同様ではないかとの漠然とした想像は全く間違っていたことが判ったからです。
 御本体だけでなく、光背も台座も含めて、総高四尺一寸(124センチ)ほどが、まるでまっさらのように美しく輝いていたのです。
 譲渡式も終り、夕刻の懇親会の席上、そのことを話しましたところ、函館別院は、御本尊をお預りするに当って、綺麗に御修復申し上げたのだとのことでした。
 お預りしているのだから、古損したままでよい、というのでなはく、お預りしているのだからこそ損欠の無いようにしておきたいとの、函館別院の皆さんの篤い心に、私どもの心も熱くなりました。


 ところで、折角のチャンスだから函館湾の先端に聳える函館山や、有名な五稜郭を始め、美しい街の各所を見物したいと思いましたが、月曜日(15日)以後の日程が詰っていて断念、翌14日、羽田へのフライトが午後の便だったので、午前中、ほんの10分間かそこら、市街の東はずれの海鮮市場を見物し、足を延ばして東本願寺別院にお参りしました。
 それにしても、100メートル四方ほどの海鮮市場は、蟹、蟹、蟹、蟹。無論、紅鮭、帆立貝、いか、うに、その他、様々な魚介類も並んでいますが、内部も外側の通りに面した一帯でも、まず眼に飛びこんでくるのが毛蟹その他の蟹類です。呼込みの声も殆んど"蟹"。
 折からの急襲来の寒気のせいか、客足もまばらですし、一体、これだけの蟹を誰が食べるのかなと不思議でした。
 不思議といえば、東本願寺別院でもありました。
 一万坪はあるかと思われる広大な境域の奥正面は、名古屋地方では、その筋で知らぬ人の無い代々の名工、伊藤平左衛門(9代目)の設計により、明治44年から大正4年までかかって建立された、本堂としては日本最初の鉄筋建築(鐘楼、正門と共に国の重要文化財)とか。但し、ここも寒さのせいか、参詣の人影も無く、外陣周縁の扉も閉っています。
 寺務所の許可を得て、廊下づたいに外陣に入り、お参りさせていただきましたが、不思議だったのは、間口17間(33メートル。奥行も?)の大本堂の内陣と外陣を仕切る線の中央に柱が立っていたことです。そしてその奥の内陣の向って右寄りに本尊・阿弥陀如来を御安置する須弥壇、その左側には親鸞聖人像を安置する須弥壇と、内陣中央に両壇が並んでいる。
通常は内陣、外陣を仕切る線の中央には柱は無く、内陣の中央には阿弥陀如来(御本山御影堂の場合は親鸞聖人)の尊像のための須弥壇が安置されているのですが、両壇設置が先か、中央の柱が先なのか、失礼ながら、寺務所の若い女子職員は御存知無いだろうと考えて、お訊ねもしませんでした。お訊ねすれば、よかったのかな?
 それにしても、このような大建築を実現した信仰の力、御門徒の御熱意に対しては、あらためて敬意を表した次第です。
                   ○
 次に、往路もそうでしたが帰路の機内でも感じたこと、それは女子客室乗務員たちの精励です。
 何れも美人揃い。そして乗客一人一人に対して、にこやかにサービスする。
 一体、私たちは毎日、いろんな方々と接しながら暮しています。しかし、その接する相手は、ほぼ同じ顔見知りの人たちである場合が多い。
 家族、同僚、上司、先生、級友......。商売でも顧客はいわゆる「おなじみさん」が多い場合もあるでしょう。だから自然、相手との接し方も、ある程度わかっている。
 しかし、フライトの場合、「おなじみさん」は極めて稀ではないでしょうか。
 中には難しい客......も居るかも知れない。先に座席に着いて、あとから乗り込んで来る人たちの風体を見ていても、大男あり、小婦あり、老あり若あり、三つ揃を着ている人あり、ジャンパー姿あり、"世界は二人のために"と言わんばかりのカップルあり。それらの人に対して、機内持込みの手荷物の世話、おしぼり、飲み物、読み物、機内食その他、一々丁重に、にこやかにサービスする。相手は殆んど一見さんなのです。若い女性の身で、さぞ大変だろうなと思うと同時に、全国から京都の御本山に参拝される方々のための受付、案内係のこと、いや、彼等だけではない、全ての接客業は大変だ。いやいやどんな部署でも仕事でも、プロは大変だな、などと思っているうちに1時間20分、機は羽田に着きました。

挨拶

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  「今日は」「初めまして」「おはようございます」など、挨拶は口でします。尤も、頭を下げたり、手を畳についたり握手などもしますが、一般に口でするものなのに、手偏(扌)を書きます。
 手許の辞書を見ますと、「挨」は"押し開く" "強く進む" "互いに近づく"
"ひっつく"などの意味があり、「拶」も"せまる"など、挨とよく似た意味の字です。そして「挨拶」となると、やはり"押し進む" "前にあるものを押しのけて進み出る"などというのが本来の意味だそうです。(角川書店、昭和34年4月1日、初版発行、漢和中辞典、貝塚茂樹ほか編。因みに編者の一人、貝塚茂樹とは、理論物理学の分野で戦後、日本人初のノーベル賞を得られた湯川秀樹博士の実兄で、秀樹博士の弟、小川環樹博士も中国文学の権威、お三方とも京都大学の先生でした。)

 ところで、"押し進む"などの意味のある"挨拶"が、何故、口で言う挨拶になったのかの理由ですが、これは、もともと禅僧たちが出会ったとき、お互いに肩を叩き合ったりして歓びを表現したことに由来すると、どこかで読んだことがあります。(多分、間違っていないと思いますが、詳しくは禅宗のお坊さんにでも...。)
 禅宗は修行が厳しい。その厳しさが、武士の間で尊重されたのでしょうが、それだけに一般庶民からすると、びっくりするようなことがあります。例えば「玄関」という言葉、これも禅宗に由来する筈です。
 但し、「玄」はもともと"くろ"(例:玄人=くろうと)、進んで"天""奥深い道理""清く静かなこと"などを意味し、「玄関」は禅寺の客殿などの入口に立った人に対して、"ここは玄妙の旨に入る関門、仏門に帰依する入口なんだぞ"と示した言葉でした。
 尤も「玄」は、中国の老子や荘子(西紀前3-4世紀)の哲学用語で、人間の造作など表面的な事象を離れた、より根源的な"無為自然"などを説く道家の哲学で大切にされる言葉の一つであります。(註、道家と、後世に発達した"道教"とは似て非なるもの。道教は自分たちの教祖として老子などをかつぎ出していますが、実は西紀3~4世紀頃に発生した俗信で、不老長生や日時・方角の吉凶、更には六輝=六曜によって、大安、友引、仏滅などをも説く。)
 親鸞聖人も非常に尊崇された曇鸞大師(5世紀後半-6世紀中葉、浄土真宗の方がたは「正信偈」の"本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩禮"で、よく御存知ですね)が住まわれた華北の玄中寺も、もともとは道家思想と関係があったと想像する学者も居られます(白馬社刊、村上鉄瑞著『道綽余聞』序、元京都大学人文科学研究所所長 福永光司先生)。曇鸞大師は元来、四論(=中観哲学、空の思想)を学ばれたと言われています。そう言えば空の思想は道家の"無為自然"とちょっと似ていますね。脱線はこの辺でやめておきましょう。

 さて本題に戻って「挨拶」ですが、私は立場上、「今日は!」だけではなく、いわゆる御挨拶をすることが可成り多い。来客は勿論、築地本願寺への参拝団、何かの会合、入学式や卒業式、会議、結婚披露宴、その他の祝宴。一日に三度ぐらい、大勢の皆さんの前で、その場その場でのご挨拶をすることもあります。
 しかし、本当にいい挨拶は、なかなか難しい。挨拶が無ければ、どんなに楽かと思います。上手なら挨拶をする方も聴く方も楽しいかも知れませんが、下手なだけに、本当に辛い。これは私の持論なのですが、TVやラジオのアナウンサーがニュースを読むスピードは、1分間に300字ぐらいだそうです。これに対して、私たちが原稿を書くスピードは、1分間で20字前後。つまり、しゃべる時の頭の回転の速さは書く時の15倍。だから書く方が遙かに楽、しゃべる方がずっと難しいという訳です。
 おまけに原稿なら何度か読み返して添削する事も可能だが、しゃべる方はそうは行かぬ。一旦口外したら、その発言は、もう一度飲み込むことは出来ません。一応しゃべり終って下壇したら、再び登壇して補足することは不可能です。
 さて、去る3月18日、飛鳥寛栗師といわれる方が、仏教伝道協会(=会長、沼田智秀師、伝道協会は世界の主要大学15校に仏教講座を開設したり、仏教経典の要所を世界の46ヶ国語に翻訳した「仏教聖典」をこれまでに780万冊、各国のホテルに配布するなどして仏教文化の弘流に努力されている。協会の母体というべき株式会社ミツトヨは、その製品マイクロメータなど、世界的な精密機械売上げの利益を仏教伝道に使うために、先代沼田恵範師によって設立された会社です。)の平成21年度の文化賞を受賞されました。東京・芝にある協会の仏教伝道センタービルでのその授賞式、懇親会に出席して祝辞を申し上げたのですが、祝辞を終って下段した途端に、ああ、あれもこれも言い忘れたと思って忸怩(じくじ)たる思いでした。
 飛鳥師は富山県高岡市にある浄土真宗の大きなお寺の前住職さんです。大正4年生まれ、94歳。しかし矍鑠(かくしやく)たるもので、上記の祝辞の中で、昭和4年の間違いではないかと申し上げたほどなのですが、本願寺立の龍谷大学の学生時代からコーラス部などで活躍され、御卒業後も様々な音楽活動を行い、著作も多い。本願寺の仏教音楽研究所でもいろいろ御指導を下さっている。そして、何と言っても70年以上に亘る音楽活動ですから、まるで生き字引。そしてとうとう一昨平成20年に『日本仏教洋楽資料年表』という書籍を刊行された。安政6年(1859)から平成12年(2000)に及ぶ百数十年間の歴史年表(詳細な事項と固有名詞の索引つきB5またはA4変形版、207頁)です。
 スピーチの時間を5分以内とお聞きしていたので、多分3~4分で様々なことを申し上げ、さてステージから降りて自席に戻るか否かに、200人前後の参会者に是非とも聴いていただきたいことを言わなかったことに気がつきました。
 それは師が、単に住職や音楽関係のお仕事をされているだけではない。数多くの御門徒たちの懇念を集めて、これまで何度も、ベトナムやカンボジアなどの難民援助のカンパを送ってこられた、いわば国際親善人であること、宗門の長老として、時には宗会議員全員70数名に対して、宗門の歩み方に誤りがあってはならぬと、封書の宛名書きも一々自筆で警告・指導の書状を折々に送られていることなどです。
 そしてつい先日も驚くようなことがありました。それは最近、御令息(住職)が御門徒のインド仏蹟巡拝旅行を引率し、その際に見聞されたこととも関係があるのですが、彼地での葬儀の一場面に関してのことです。
 それは、私も50年余り前ですが、2年近く在住していた、ヒンズー教の大聖地ベナレス。人が死ぬと、ガンジス川に沿って展開するその町の河岸へ、近郷近在からも遺体を運んで来て荼毘に付するのですが、その遺体の運び方。長い2本の竹の棒の間に板を張り、そこに男性の遺体は白布、女性の遺体は赤布で包んで載せて縄で縛り、通常4人の男がかついでくる。その際、声高らかに「ラーム・ナーム・サッチャ・ハイ」と、むしろ叫び続けながら街中を通り、河岸にやってくるのです。 その言葉の意味、ラーム(=ラーマという、ヒンズー教の神様)の名(ナーム)はサッチャ(真理)でハイ(ある)ということなのですが、それを「神の名のみが真実」と訳した書物があり、「名のみ」という言い方の、いわば宗教哲学的な意味と、それが何時頃からのことなのかという御訊ねの御手紙を老師から頂戴したのです。
 これは例えば、阿弥陀如来という仏は、智慧そのもの、慈悲そのもののこと、逆に、限り無い智慧と慈悲との仏を阿弥陀如来とお呼びする、と言ったらよいでしょうか。また、阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)という名前は、限り無い智慧と慈悲そのものである阿弥陀仏と別個にはあり得ないと言うべきでしょうか。要するに真宗学でいう、「名体不二」という考え方と似ています。
 私はお手紙で、遺体運搬に際してのこのような趣旨を簡略にお答えしたのですが、インドの民俗信仰で唱えられている言葉に対する飛鳥師の、この敏感な反応ぶり。これは師の頭脳がまだまだ若い人顔負けの新鮮さをもっている何よりの証拠です。
 しかしこれらのことは、約200人の参会者の中で、多分、私しか知らないことです。これをこそ私は皆様に御披露すべきだった。私はそれが出来なかった。飛鳥師に対してはもとより、御参会の皆様にも大変申し訳無いことをしたと思っています。
 だから挨拶が苦手だと言うのです。
 なお、上記のラーマですが、インドが世界に誇る古典的二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ(ラーマの行状記)」のうちの一つ。ラーマは後者の主人公として大活躍する英雄の名前です。他方、ヒンズー教の最大神格、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神のうちのヴィシュヌ神の第七番目の化身といわれ、御参考までに申しますと、釈尊は第九番目の化身だと考えられています。
 ヒンズー教は、何でも彼でも、自分のテリトリーにかかえ込んで、その命脈を広げてきたのです。「寛容の宗教」とも言われる所以です。

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