2008年4月アーカイブ

  『御伝抄』では上巻第五段に、若き日の親鸞聖人が、法然聖人御撰述の『選択本願念仏集』の書写を完了して、法然師のもとに持参した時、師は自ら筆を執って「南無阿弥陀仏 往生の業 念仏為本」および「釈綽空」とお書き下さったことが記されています(親鸞聖人33歳、元久2(1205)年4月14日のことであります)。

  つまり、この当時、親鸞聖人は「綽空」と名乗っておられた頃です。

  ところが、その日、法然聖人の肖像画をおあずかりして図画することを許されるという、たいへんな名誉を重ねて頂戴し、7月29日に模写を終えて師聖人のもとへ持参されたところ、法然聖人は「南無阿弥陀仏」と経文の一部をお書き下さり、「また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、おなじき日、御筆をもって名の字を書かしめたまひをはりぬ」とあります。

 だから、この時点までは綽空だったが、ここで名を改めた。何と改めたかが問題なのですが、古来「善信」と改めたのだとの説もありました。

  しかし、前回で述べたように、"善信"が房号で、改めてその前年、聖人31歳のとき、救世観音から「善信よ」と呼びかけられておられますから、33歳で「善信」に改められたとは考えにくい。

 では何と改められたのかというと、この時から「親鸞」と改められ、以降、「善信房親鸞」だったと考えられるべきではないでしょうか。

 以降、「綽空」のお名前は全く残っていません。
  昨日、「坊」と「房」についてお話ししました。房は今日では"ふさ"の意味で用いくるとが多いと思います。しかし、房の字は「戸」プラス「方」ですから、やはり「部屋」が本来の意味だったのでしょう。しかし、同じ部屋でも「独房」「雑居房」などは嫌ですね。

 さて、前回の「房」と一緒に申しました「坊」について、若干コメントします。

 「坊」とはもともと中国の古都長安(現在の西安)などで、約十キロ四方の大都を大街路で縦横に仕切り、その仕切られた1キロ四方あるいは、500メートル四方ぐらいの区画を坊と言いました。おそらくは乗り越えることの出来ない高い土(塀)で防護された区画という意味だったのでしょう。

  坊には、その大きさによって三方、四方などに坊門があり、その門は太鼓の合図で早朝に開き、夕刻には閉ざされる。だから夜間、外から侵入は出来ない。逆に夜間は坊内以外では歩行も出来ず、大都治安のためにはたいへん上手な施策だったと思われます。

  そのうちに、高い塀に囲まれた寺院のことを坊というようになり、やがてその中に点在する住居を指すようになり、はてはその坊に住む人を意味するようになった。そして、勿論、坊主とは「坊の主人」ということだったのでしょうが、更にそれも変じて「いたずら坊主」「落第坊主」などの語も出てきました。

 親鸞聖人の伝記『御伝抄』の中に出てくる僧侶としての聖人の二番目の名前は「善信」ですが、これはどうも聖人の房号のようです。

 昔から僧侶は原則として寺院内に住みます。この場所を私たちの場合は「庫裏(くり)」と申しますが、昔はこれを坊とか房(部屋)と言い、僧侶はお互いに本名(註.法名)で呼ばず、房の名前(房号)で呼びあったようです。

  似たような事は現在でもおこなわれており、寺院間のおつき合いの場合、その人を名前ではなく「○○寺さん!」と呼ぶのが普通です。

 源平合戦で名高い熊谷直実が、西神戸の一の谷の合戦で、自分の子供ほどの年齢の若武者・平敦盛の首を切ったことへの深い罪悪感の中から法然聖人に帰依して出家したお話はご存知でしょう。『御伝抄』上巻第六段で、その直実すなわち法力房が若き日の親鸞聖人のことを「善信の御房」と呼びかけていますから、「善信」が房号であることは間違いないと思われます。

 親鸞聖人のお名前として『御伝抄』に出てくる第二番目は"善信"です。

 これは聖人が29歳で法然聖人の門下にお入りになり、念仏者としての道を歩みはじめられて3年目、31歳の時(建仁3年・1203年)にあった夢のお告げに関する「記」の中に出てきます。

 この夢というのは、六角堂(京都市の中央、烏丸通六角東入る。華道の池坊家元のお寺)の救世観音菩薩が現れて、おそらくは異性の問題で悩んでおられた聖人に「女犯もかまわぬぞ」と語りかけて下さり、「この事を一切の群生(人びと)に聞かせよ」と告げられた。その時、救世菩薩が聖人に呼びかけられたお名前が"善信"なのです。

   そしてこの"善信"は、聖人の極く御晩年まで用いておられたようです。というのは、文応元年(1260)11月付のお手紙でも、「善信八十八歳」と書いておられます。

 
 親鸞聖人については、特に明治以降、非常にたくさんの伝記が書かれていますが、それらの一番基礎になるのは、聖人の33回忌の翌年に、曾孫に当たる本願寺第三世覚如師(実質的には本願寺を名乗った最初の宗主)が、数え年26歳で書かれた『善信聖人絵』(後に改題して『本願寺聖人親鸞伝絵』、略して『御伝抄』です。

 その中で、聖人のお名前として最初に出てくるのは、聖人が9歳で剃髪されて名乗られた"範宴少納言"つまり範宴でしょう。聖人は以後29歳で下山されるまで、20年間の比叡山の修行中、その名で通されたのではないでしょうか。

 比叡山時代の聖人については、"堂僧"(比較的身分の低い僧)をつとめておられたということ以外、ほとんど何もわかっていません。堂僧の件も、大正5年に本願寺のお蔵で発見された聖人の御内室・恵信尼公のお手紙によって、はじめてわかったのです。


 

ダルマ(3)

| | コメント(1) | トラックバック(0)
 30分ばかりの面談の後、私たちは本堂にお参りしました。数百人は入れるお堂のご本尊は、金色に輝く大きなお釈迦樣でした。無数の花や灯明が美しく供えられてあります。

 ちょうど勤行の時間だったようです。法衣の上にえび茶色のマントをかぶった坊さん達が、続々と入ってきて、畳ぐらいの大きな臙脂色(えんじいろ)のマットを敷き並べ、一枚に2~3人ずつ坐って読経です。その数、約200人。しかし、よく見ると、そのほとんどが10歳前後から14~5歳の少年です。無邪気な顔をして大きな声で読経している者もいれば、あまり口が動いていない新米(?)の小僧もいます。

 やがて私たちは本堂を出て、広大な境内の一角に建つ道場の方に歩いていきました。約100人を収容できる宿舎のそばに、登山用の幾張りかの小さなテントも並んでいます。宿舎に入りきれない西洋からの人たちが、秋のヒマラヤの夜をテントで寝泊まりしながら勉強に励んでいるのです。私は甥に申しました。

 「結構なダルマ(仏法)が手近にありすぎて、私たちは、それを真剣に求めることを忘れて居るんだ」。

(豊原大成『心の風景 Ⅲ』自照社出版2006年 より)

ダルマ(2)

| | コメント(0) | トラックバック(0)
 翌日は、遙か北方の丘の上に聳えるコバン寺に向かいました。この寺院は30年あまり前に建てられたのですが、今や僧侶の数は約300。そのうち200ほどは、近隣の貧しい農村の子弟で、お経を読むために文字を学ぶことから始める、いわば学校を兼ねている寺院と言ったらよいでしょう。
 私たちはあらかじめ約束してあった僧院長さんにまず面会しました。60歳台かと思われるこのラマ(僧侶)は、ゲーシェー(博士)という肩書きをもつ高僧です。英語もしゃべりますし、気さくな人柄で、いきなり単刀直入に話し始めました。

 「東京へ行ったことがあります。一口に言って、日本の人は、時間とお金のことは気にしますが、ダルマがありませんね」。

 ダルマとは法、つまり仏法のことです。

 「この寺には、僧侶以外に大ぜいの人びとが、仏教の勉強にやって来ています。西洋人もたくさんいますよ。しかし、日本人は一人もいません。講義は英語で行いますから、英語のわかる人びとを、本願寺からも派遣してください」。

(豊原大成『心の風景 Ⅲ』自照社出版2006年 より)

ダルマ(1)

| | コメント(0) | トラックバック(0)
 旧年(平成14年)11月中旬、甥と二人きりで、足かけ6日、正味4日間の旅をしました。二人ともかつて何度も訪問したことのある、インドの北、ヒマラヤ山麓の国ネパールの首都カトマンズを訪ねたのです。

 ご存じのように、40年あまり前の昭和34年(1959)、中国軍の侵入によって、チベットの法王ダライ・ラマ以下が、ヒマラヤを越えてインドに亡命しました。これを契機に、たくさんのチベット人が隣国のネパール、特にカトマンズ周辺にも来住し、従って現在は、チベット仏教に関するさまざまな情報その他が私たちにも入手しやすいと考えたからです。

 飛行機の都合で、往路はタイの首都バンコクの空港付近のホテルに一泊、翌朝は近くのお寺にお参りしましたが、ちょうど満月の日とあって、境内は屋台店が立ち並び、参詣者で満員。数百畳敷の本堂では、スピーカーから流れるお説教に耳を傾ける人びと、別のお堂では数十人のお坊さんが、緊張した面持ちで、何か修行か儀式の一齣を進めている厳粛な雰囲気をかいま見ることができました。

  昼間の便でカトマンズに飛び、ホテ に荷物 を置くとさっそく 市の東郊にある、この国最大の目玉寺ボード・ナート寺(境内の中央に築かれている世界 最大の仏塔の平頭の四面に、大きな目玉が描かれてある。通称、目玉寺の一つ)にお参りしました。私には15年ぶりの訪問でしたが、境内はもちろん、いわゆる門前町があまりに賑やかになっているのにびっくりしました。

(豊原大成『心の風景 Ⅲ』自照社出版2006年 より)

 さて、現在の健康法ですが、まず腹六~七分目。会席膳など箸をつけるのは半分以下。そして本当に食べたいもの、材質のよいものしか食べません。だから寿司などは板前で"お好み"にしています。贅沢の謗(そし)りは免れないと思います。

 アルコール類は体質的に合わず、煙草も50年近く喫いましたが、2年あまり前に、決めた瞬間から、ピッタリとやめました。

 その他、健康法というほどでもありませんが、一人で居る時、指先や掌などを含めて、身体のあちこちをマッサージし、出来るだけアクビをして、血液中の酸素をふやすようにすること。また、毎朝、なるべく大きな声で30~40分間、読経するのが、全身に微妙な振動を惹き起し、身体の各部を活性化していると思います。それから膝の屈伸など、ラジオ体操のイロハ。特に散歩などしません。これで睡眠を十分にとると、一層よいのでしょうが、毎晩せいぜい5~6時間です。それでも内科医の弟から、50歳代の身体だと言われています。

 なお、時どき感じる頭痛が血小板凝固によるものと判断し、その鎮静のために、ピリン系錠剤と、むかしからの高価漢方薬「六神丸」を小銭入れに入れて常に携帯しています。ピリンは癌の恐れがあるとか聞きますが、頻用するわけではないから、悪影響も少ないのではないでしょうか。六神丸は、心臓や胃腸にもよいようです。

 4月16日のブログに対して、さっそくご意見をいただき、ありがとうございました。それにしても、どなたでしょうか。私が学生時代(旧制中学時代)昭和22年の夏の甲子園(第29回全国中等野球大会)に出場したことをご存じなのですね。

 さて、お訊ねの、私の健康管理ですが、私は寺院後継者(関西では"お寺のボン"などといいます)として生まれましたから、幼い時、5人いる弟妹とはまったく別格の扱いで、たいへん大事に育てられました。弟妹たちには、今でも申し訳け無いと思っています。

 身体は大きかったがあまり丈夫ではなく、よく風邪を引き、小学校2年生~3年生の時、昭和14年3月から5月にかけ、腎臓炎で75日間、入院生活を送っています。

 退院後もしばらく、当時、大好物の肉、魚、卵、塩分など(従って食パン、漬物、醤油も)一切禁じられていましたので、食事の際は、沢庵漬の切れはしの臭いをかいで、お漬物を食べたことにしていました。

 しかし中学校(神戸一中)に進学後は学校の方針により、冬もオーバーコートや毛糸のシャツ類着用禁止の薄着などで、ある程度鍛えられました。

 5年生(今の高2)の初夏のころ(5月下旬?)、野球部に引っ張り込まれ、2ヶ月ほど後に、僚友たちのお蔭で、県大会優勝の感激を味わうという、極めつきのラッキー・ボーイでした。
 旧制高校では、中学生時代に野球部に入っていたもの(経験者)は少ないので、当然のように入部し、大学でも続け、大学院生のころ、インド留学の時期をまたいで前後約2年ずつ監督をも勤めました。特に意識していませんが、ご指摘のように、若いころの野球が身体によかったことは十分に考えられます。

 親鸞聖人は、90年の生涯を通して、み仏を尊ぶ心もお篤かったのですが、師(先生)を崇める思いも非常に強かったお方です。

 たとえば、有名な『歎異抄』の中で、"たとえ法然聖人(師)にすかされまいらせて(たぶらかされて)念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候"などといっておられることによって、師に対する絶対的な深い思いがおし測られます。

 さて、親鸞聖人は、直接の師である法然聖人も含めて、7人の高僧を尊崇されました。ほかに極めて尊崇された方として聖徳太子がありますが、7人のうち

 龍樹、世親(または天親)以上の二師はインド、
 曇鸞、道綽、善導、以上三師は中国、
 源信(=恵心僧都)、源空(法然聖人)、以上二師は日本の高僧です。

 そして、親鸞聖人は、尊崇の余り、上記七師のうち六師のお名前から、一字ずついただいて、ご自身の名前を名乗られたのです。綽空、善信、親鸞。どの師からどの字をもらわれたか、すでにおわかりですね。

 親鸞聖人の御幼名の一つ、「松若丸」は、松という字が木扁であることと関係がある。
 木という字は、分解すると十八という字になります。

『無量寿経』というお経には、阿弥陀如来という仏様が、一切の衆生(生きとし生きるもの)を苦しみから救い、限り無く大きな喜びを与えようと、四十八通の誓い(願い)をお建てになった。そしてその四十八の誓いの中で最も大切なのが第十八番目の誓いである。

このような考え方は、親鸞聖人の先生である法然聖人(1733~1212年、浄土宗の開祖)が打ち建てられたのですが、松若丸という名前には、どうもこのような教義を仰ぐ後世の人びとが親鸞聖人の御幼名からして、十八の公(きみ)と言い、み仏の誓いを表しておられる。だから、親鸞聖人こそは阿弥陀如来の生まれ代りなのだ、という意味で創作したお名前ではないでしょうか。

 なお、松こそは、お正月などにも特に用いられる最もおめでたい木だということで、特に御幼名に「松」が用いられたとも考えられます。

 「親鸞」聖人のご幼名のうち、鶴充麿というのは、御生家の日野家の家紋が、丁度「日本航空のマーク」と同じような鶴が円く羽を展げた形をしていることと関係があるのかもしれません。

 なお、日野家というのは、お公卿さんの頭領ともいうべき藤原氏の分家が、京都の東南、宇治に近いところに日野という里があり、その辺りを領していた家柄です。

hokkaiamida.JPG 日野には、御本尊の「丈六」の阿弥陀如来像で有名な法界寺がありますが、これが日野家の氏寺であり、この地で生まれた「親鸞」聖人も、朝夕にここにお参りになっただろうと言われています。

 「丈六」というのは、身長が丈六、つまり一丈六尺(一尺は約30センチですから、4.8メートル)。その座像ですから半分の八尺。高さ2.4メートルの仏像です。阿弥陀佛は、丈六・八尺の姿で現れるという『観無量寿経』というお経の中のことばに基づいて、特に平安(藤原)時代に作られた佛像で、"法界寺の御本尊のほかに、宇治平等院鳳凰堂の定朝作の阿弥陀佛像や、京都法金剛院の御本尊などが有名です。(写真は法界寺の御本尊「丈六」の阿弥陀如来像)



「親鸞」(1173~1263年)という名前をご存じでしょう。
 浄土真宗を開かれた方ですが、平清盛が死んだ年に数え年9歳で、90歳で亡くなられましたから、その生涯の大部分を鎌倉時代(注)にすごされたことになります。

 ところで、偉大な人物の常として、後世になって、さまざまな伝説がつくられます。名前もしかりです。

 「親鸞」の場合、幼いころの名として、松若丸(まつわかまる)、鶴充麿(つるみつまろ)、忠安(ただやす)、忠宴(ただやす)などが伝えられています。この中、いちばん妥当かと思われるのは忠宴です。なぜなら、9歳で出家したときに名乗られたのが「範宴(はんねん)」で、これは、父君の名前・有範(ありのり)から一字、幼名忠宴から一字を採ったと考えられるからです。

 なぜ他の名前が伝えられたか、それは他日考えることにして、その後、綽空(しゃっくう)、善信(ぜんしん)、親鸞などと名乗られることになります。「親鸞」は最後のお名前です。

 (注) 鎌倉時代は、西暦でいうと1185年頃~1333年と
          するのが現在では比較的有力な説である。

ご挨拶のこと

| | コメント(1) | トラックバック(0)
 まず自己紹介をいたします。

 松原功人氏の後を継いで、築地本願寺に輪番として3月末に着任いたしました。豊原大成(だいじょう。戸籍名はひろしげ。)昭和5(1930)年9月生まれの77歳ですから、松原さんより20歳上。ただし精神的にも肉体的にも、差はせいぜい2~3歳と思っています。

 大阪と神戸、どちらへも10分ほど、ちょうど中間の西宮市(人口47万人)に自分の寺があります。JR西ノ宮駅から徒歩4~5分。阪神、阪急、名神インターへはいずれも1kmほど、伊丹、神戸両空港へは共に30分の至便の位置です。

 僧侶になったのは昭和15年ですから今年で69年目。昭和60年から宗会議員(国での国会議員に相当)、平成9年7月から2年7ヶ月余り浄土真宗本願寺派の総長(首相)をつとめました。

 旧制中学校は神戸、高校と大学は京都で、まったくの関西育ち。東京生活は初めてです。

 みなさまから、いろいろ教えていただきながら、頑張ります。どうぞよろしく。