2008年5月アーカイブ


中国産の餃子が問題になり、
日本の食糧自給率が30数パーセント、
食べ残して捨てる食べ物が3分の1の時代です。

ああ、勿体(もったい)ない。

面倒でも、材料を吟味し、
必要なだけ自分で作って
有難く頂きましょう。

(『慈眼』第38・39号合併号、平成20年5月,24ページ)

何をするか

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今日一日
自分は
自分の為に何をしたか
他の人の為に何をしたか
考えよう。

今日一日 自分は
他の人から
他の物から
どれだけの恩恵(めぐみ)を
受けたかを考えよう。

さて、明日はどうか。


(『慈眼』第38・39合併号,平成20年5月,13ページより)

 そもそも宗教とは、人間が善く生きるための道を教えるものなのです。目に見えない神仏(但し、仏画や彫像にはなっていますが)に向かってさえ、敬って合掌することを教えるのですから、目に見える相手を敬うことは当然なのです。相手を敬う心さえあれば、家庭でも、家庭外の場所でも、当然うまく行きます。

 ところが、その教えを聴かないから、人間の道が見えず、昔なら考えられもしなかった怖しい事件が頻発する社会になったのです。

 このような社会のなかで、お互いに相手を敬う心で生きる道を教えるのが宗教家なのです。

 他人の不幸につけこんで、自分でも訳の解らぬ「お経」を読誦し、人間としての道など一言半句も説かぬ(説けぬ)人、また仮りに説いたとしても、どこかで読んで丸暗記している有難たそうな寸話を話すより外に能力の無い人、それは、形は宗教家を装っていても、本当の宗教家ではありません。

人作り

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 つい先日、ある仏教系の大学の先生にこんな話を聞きました。「学生が、"慈悲"という字が読めないし、意味がわからない。まさか"愛"とも言えませんしね。」

 若い人が言葉を知らないこと、特に敬語が無茶苦茶なのは、どうしたらいいのでしょうね。

 丁寧に言っている心算でしょうが、自分の家族に敬語をつけているから、聞いている方は、それが誰のことか解らないことが往々にしてある。いや、そんな事ぐらい、まだまだ生やさしい。自分が飼っているペットにも敬語を用いている。親が死んでも泣かないのに、ペットが死んだら泣くという。その倒錯と、この敬語の誤用も連動しているのではないか。

 また、ちょっと以前ですが、手紙に「このような当方の御事情を拝察されたく・・・」といった珍妙な例もありました。

 こんな無茶苦茶な日本語が今や、あっちこっちでも跋扈しているというのに、一体全体、どうする気かと文部科学省に訊ねたい。

 いや、人を作るのが宗教の役割ではないかと言われるかも知れません。
確かに、歴史的にみると、仏教は、人を作り育てることに大きな役割を果たしてきたのですから。特に戦後、「人間」をつくる一番の元締めの役割を果たしてきたのは文部省(文部科学省)になってしまい、手綱をゆるめてしまったのかも知れません。

 宗教といってもいろいろありますので、少なくとも僧侶や仏教徒が"人を作り、自らも育っていく"という自覚をあらためてもつことが必要でしょう。このような時代だからこそ、仏教がもっと社会に関わり、人作りという役割に積極的になることが求められているのではないでしょうか。


異常気象

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 インドは、毎年、7月初ごろから9月終わりごろまでの3ヵ月が雨期で、それ以外は雨は「絶対に」とは言えないにしても、滅多に降らないはず。昼間の空はあくまで青く、夜空は星座がわからないほどたくさん星が明るく輝いて見えるものです。

 それがなんと、去る2月、ほんの数日でしたが、仏跡参拝旅行に同行したときには、終始曇天。霧のために航空便がキャンセルされたり、からからの筈の尼連禅河に水たまりがあったり。

 ヒマラヤの氷河が溶けているとか、そのために下流の湖があふれて洪水の怖れが有るとか。

 いや全く気象の異常さには驚きました。

 そして、カンカン照りの筈の5月初頭のインド洋に発生したサイクロン(中国では颱風、アメリカではハリケーン)のために、ビルマの低地帯が大災害を被り、それと連動するかのように、中国四川省の大地震。

 温暖化で氷が減った北極海では、白熊が住む所を失い、氷に覆われて太古以来、眠り続けていた天然ガスなどの資源が開発され、世界経済にも大影響はさけられないだろう、それが更に異常気象を増幅するだろう、とも言われていますね。

 一体、「地球の<異常事態>をどうするの」と叫びたいところですが、それと共に「人間も、どうなるの」と泣きたくなることの多い昨今です。


 行列は法衣姿の我われのほか、直垂衣姿の総代さん二人など。雅楽はテープで間に合わせ、歩行距離は600~700メートル。これに30分ほどかかりました。

 本堂に入ってからは、私が作詞作曲した"子供のおつとめ"(「おそなえ」=これだけは林良夫作曲、「ののさまに、ごあいさつ」「よい子の三帰依文」「はすのお花の」「おつとめはすみました」=本願寺合唱団編集発行『心の唱』Ⅲ所収)を、これまた隣寺の坊守さんのオルガンと拙寺若坊守の美声(?)のリードで、おつとめをしました。

 そして一般参拝者も含めて、久しぶりに満堂の全員が、カーネーション一本づつを供えて潅仏(かんぶつ)。参加賞を、これも全員に配布して、記念撮影から丁度2時間。もうすっかりくたびれましたが、お陰様で好天にも恵まれ、全員大ニコニコでした。

 ところで、さて、来年も?
 いやいや、その前に、境内の駐車場での"ソーメン流し"に"盆踊り"それに"焼いも大会"など、今年後半の行事が控えています。

 それにしても、こんなに可愛い子供たち、どうして、もっと、生まれてこないんでしょうね。


 さて、何人くらい参加してくれるだろう。20人? 30人? などと話していたら、結局、70人。近隣の数ヶ寺などからも坊やや嬢ちゃんが参加して下さり、予想外に賑かなものになりました。

 前日、時間を定めて、法衣店からの衣裳を受け取りに来てもらい、その際、着方を説明。何しろ若いお母さんたちとしては、稚児衣裳は殆どが初めて。
 この時も、隣寺の若い住職パパの獅子奮迅のアナウンス、解説などに助けられましたが、何と言っても「無統制の楽しさ」を存分に味わったのは、当日、行列出発直前の全員の記念撮影の時でした。

 よちよち歩きの坊ちゃん、嬢ちゃん。お母さんに抱かれたままの赤ちゃんたちの顔をカメラの方に向けるだけでも大変なのに、やっとシャッターと思った瞬間に、ひょろひょろとカメラの方に歩き出す坊やなど。結局のこの撮影に20分ほどかかりました。

 去る5月18日(日)、私の寺(兵庫県西宮市)では、久しぶりの初参式を、花祭りと合同で催しました。

 花祭りは阪神淡路大震災直後の数年を除いて毎年、5月中旬の日曜日を選んで行ってきましたが、初参式は震災前以来の十数年ぶり。
 そこで今年は稚児行列という趣好を加えることにしましたが、稚児も震災復興法要から数えると11年ぶりです。

 準備には若い副住職夫婦が中心になり、総代や仏教婦人会幹部の皆さんが大奮闘。

 まず、仏婦の月報に宣伝文を書くことから始めて、稚児行列なら白い象が要るだろうということになり、上記の皆さんが何日もかかり、木と竹と張りボテで、""背高1.2~1.3メートルの、なかなか可愛い象さんを作り、花御堂は、かつて何年間か仏具店のカタログのトップを飾った大きなものがあるのですが、それとは別に、白象の背中に載せる小形の可愛いものを、象さんに続いて手製しました。


 このように時代が下るにつれて、かつては社会の一部の上層階級でしか用いられなかったデザインや色彩、あるいは諸道具、衣類なども、次第に大衆化してくるのは、歴史の流れかもしれません。

 なお、皇室の菊紋は「十六菊」です。

 「菊」にもいろいろあり、十六菊を除いては民間も使用が可能なはずです。従って、「菊輪灯」が必ずしも皇室の御紋を僭用したものとは言えないかも知れません。

菊紋(1).jpg
菊紋(2).jpg


 「菊」については以下、推測ですが、申し上げます。

 「菊」は皇室の紋所。したがって紋としては最高位です。これ以上はない「菊」を御本尊阿弥陀如来の輪灯のデザインにも依用したのではないでしょうか。

 話しは外れますが、昔から灯台というものがあります。海辺のあれではなく、建物の中に用いるものです。
 早くも奈良時代には、棒か竹の類を三本、一個所を紐で結び、脚を展げて安立させ、上部の竹(棒)のあいだに皿を置き、そこに種油を入れ、灯芯で灯明をつくる道具が作られていました。これが結び灯台です。
結び灯台.jpg
    結び灯台(筆者画)

 その後、油皿を支える部分には小さな台を作り、下は一本のやや太い(直径4~5センチ?)長さ2~3尺のあるいは4~5尺の棒材(竿)で支え、その棒材の下端を安定のための半球型の重しの材に押し込む型式が出来上がりました。

 但し、下の重しの大の形が様々であったようですが、宮中で用いる灯台は、その「重し」も、油皿を受ける台も竿も、共に「菊」のデザインが用いられ、これを菊灯台あるいは菊灯と呼ぶようになりました。

 現在、真宗の寺院で使用されている灯台は、すべて「菊灯台」だと言えるのではないでしょうか。
菊灯台.jpg
  菊灯台(筆者画)

  「さるすべり」様から、本願寺(や一般寺院などの)本堂の、阿弥陀如来の尊前の輪灯のデザインは何故「菊」なのかとのお尋ねがありました。
 しかし「これこれの理由で菊にした」との文献を、私は未だ見ておりません。例によって管見に推測を混えてしかお答できないことをお許し下さい。

 さて、本願寺には、遅くとも天文年間(1532~1555。天文元年に、それまで続いた山科本願寺が、法華衆徒等によって焼打ちされ、翌年から大阪・石山に本願寺を移します)から、法式に関する可成り入念な記録が作成されました。『私心記』などがそれです。
 そしてやや後の時代から、毎日各種のおつとめ、法要その他に関し、その種類、出勤者、読誦した和讃さえも記録するようになり、それを一般に『御堂記録』と呼んでいます。今日まで400年以上の毎日の記録ですから、その分量は大層なものになります。

 それらが、昭和55年以降、京都の出版社「同朋舎」から『本願寺史料集成』のお名のもとに、順次出版されてきました。これは小生など素人にとって大変有難かったのですが、平成6年に第17冊目『豊後国諸記』(上)を最後に刊行がストップしています。従って、以降、少なくとも書籍の形でこれを勉強することは出来なくなったのです。

 それは兎に角、元和(1615~1624)3年の年末に本願寺が大火のために喪失し、翌年11月報恩講までに阿弥陀堂(直ちに御影堂に転用)が再建されます。この御堂は、現在の阿弥陀堂が宝暦10(1786)年に建立されるに先立って、京都西郊の西山別院に移築されて以降、該院の本堂として現在に至っているのですが、現在の阿弥陀堂の輪灯がこの何れの時に「菊」になったかが不明なのです。

 更に、元和につづく寛永(1624~1644)の13年に現在の御影堂が完成し、その時、御影堂に「牡丹」、阿弥陀堂もそれに合わせて「菊」輪灯にしたのかも知れません。

「院」とは

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 4月29日、「さりぼん」様から、「坊」につづいて「院」についてのお尋ねがありましたので、たいへん遅くなりましたが、管見の範囲でお答えします。

 「院」という字は「阝」と「完」とからできていますが、「完」についてはよくわかりません。

 「阝」には、「小ざと偏」「大ざと旁(つくり)」とあり、文字の左側につく「小ざと」は阜つまり丘のこと、右につく「大ざと」は邑つまり町のことです。

 大阪の阪は丘に到る途中、あるいは斜面を意味したのでしょうし、京都の都は、もとは城壁をめぐらせた大きな邑(町)を指したのでしょう。都市を城壁で囲むのは中国流、都市に壁が無いのが日本流です。

 さて、「院」とは、丘の上などに立つ宮殿、学校、佛寺などの立派な建物のことでした。

 それが我が国、平安時代に入って、天皇が退位して上皇、更には法皇になられると、そのお住居を○○院と呼ぶようになります。

 その住居の名を以ってそこに住む(高貴な)人のことを言うようになり、次第に「尊称」に変わっていったのです。


 そして私に、傍らの柱、壁、何でもよい、それに踵と後頭部をお尻を着けて立て、というのです。

 言われるままに、やってみました。

 ところが何と、頭は少し後に引かないと柱に着かない。引けば着くのですが、胸から肩にかけて少し引っ張られる感じなのです。

 これが「姿勢!」なんだろうと思った丁度その時、若院の嫁が三度目のお茶を運んできました。

 彼女にもやらせてみると、すっと着きます。

 それ以来、私は頭を一段、後に引くことで姿勢を正し、肩から胸を伸ばすように心がけています。

 なお、正座のこつは、"ボインとヒップを突き出すこと"なのですが、今は頭を後に引くことも心がけています。

 さて、そのYさんとも話し合っていない私のもう一つの健康法、それは身体を拭うことです。通常、日に三度。
 一度は朝の洗面の時。お湯または水でタオルを絞って。それから夜、就寝前の入浴。そしてもう一度は外出から帰宅したとき。手を洗うことが広く推奨されていますが、私は朝と同じように、全身を拭います。

 勿論、シャワーを浴びることもありますが、それで全身がリフレシュして、また仕事がしやすくなるのです。仕事がし易いということは健康だということでしょう。

 私が初めてY洋服店で背広を作ったのは昭和28年春、大学卒業を間近に控えた頃でした。以来2~3度、他店の仕立券付洋服地を贈与されたとき以外は、私の洋服は全部Y洋服店仕立です。

 戦前の神戸の代表的繁華街の一つ、元町のやや東、JR三宮駅西口前を通るフラワーロード(市役所前通り)と元町駅東口前とを東西の入口とする、戦後急速に発展した商店街をセンター街と言いますが、Y洋服店はその中程にありました。

 主人のYさんは昭和23年、30歳の手前で、そこに開店しました。裁断が上手(つまり仕上がりの恰好がスマート)で、しばらくはずいぶん繁盛したのですが、昭和60年ごろ、安価な既製服ブームに押されて、残年ながら店舗を女性服店に貸し、それ以降はマンション経営を本業としていますが、それでも好きな道はやめられず、古い顧客相手に、趣味で取引を続けてきました。

 しかし流石に近年は、その客も殆ど超高齢化して居なくなったようですが、それでも私の所へは、
  「久しぶりに声が聞きたい」
  「顔が見たい」
など、電話がかかってきて、昔ほどではないにしても、今だに取引が続いています。だから丸まる55年間の付き合いなのです。

 先日も電話があり、
  「要職に就かれたそうですから、お祝いに一着プレゼントしましょう」
ということで来訪。まあ10着分ほどの中から好みの生地を選ぶのに、ものの1分たらず。そしてYさんは結局2時間ほど、おしゃべりをして帰りました。

 一体、何のおしゃべり?
 それが殆ど健康法のことなのです。

 ところでYさんは大正10年生まれですから、当年86歳。一時期、目を悪くして足もとがおぼつかなかったこともありましたが、今はそれも恢復し、身体は往時に比べて一まわり小さくなり、好きなゴルフもやめたそうですが、今もマイカーでやってくる元気さです。

 そのかれが言います。
 「睡眠、食事、運動、・・・・それに姿勢が大切です」

 また「菊花紋」(十六菊)が用いられた時期があります。

 これは第21代・明如宗主の、明治維新に際しての功績によって、明治24年に皇室の定紋である「菊花紋」の五條袈裟が下賜されたことによるそうです。
 在家用の仏具にまで、「五七桐紋」などと共に用いられていましたが、現在では使用されていません。


(御礼)
 本稿執筆にあたり、本願寺名誉侍真、名誉知堂・山崎昭壽師(大阪府茨城市誓源寺住職)その他の方から御教示をいただきました。
 また日野家の鶴丸紋については、日野真正師(大阪府高槻市富田本照寺住職)、大谷派の牡丹紋は猪澤秀樹師(和歌山県橋本市蓮香寺住職)より御提示いただきました。
 記して感謝の意を表明いたします。

 では、「下り藤」は?

 伝聞するところ、第22代宗主・鏡如上人(シルクロード探検などで名高い大谷光瑞師)は明治31年、九條籌子(かずこ)さまと結婚されました。光瑞師23歳(数え年)、籌子さま17歳(同)だったそうです。

 そのとき籌子さまがご持参になった紋所が「下り藤」(通称「九條家下り藤」)です。

 籌子さまは明治36年、22歳の若さで亡くなられますが、光瑞師は明治36年、父君明如宗主の御逝去によって、宗主の地位に就かれ、伝灯報告法要を明治36年5月に勤修されます。
 そしてこの時、初めて記念五條袈裟(その後、さまざまな法要や大行事の記念に、新しい図案を用いた五條袈裟が制定された)を制定し、その紋所(縦に5紋、横に14紋、合計70紋を連ねる)として、「下り藤」を御依用になりました。

 但し、この紋所は「西六條下り藤」と通称され、「九條家下藤」が房の花が円く、花と花との間の開きが広く、「西六條下り藤」との相違は一見明瞭です。

 その他、「下り藤」の紋所も各家各種あり、逆の「上り藤」も各様あります。

080516本願寺下り藤.jpg  080516九條家下り藤.jpg  
 西六条下り藤(西本願寺)       九條家下り藤 


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     二條家下り藤            一條家下藤

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   佛光寺家下り藤           伊藤家上り藤

 本願寺第11代顕如上人(1543-1592)が、永禄2年(1559)12月、門跡に列せられたことにより、皇室の副紋である「五七桐」の紋所の使用を勅許されました。

 以降、これが第20代広如上人まで10代にわたって用いられるようになり、現在でも「記念五条袈裟」などの紋として依用されています。最近の例としては、平成4年に勤修された顕如宗主四百回忌の記念五条袈裟の紋があります。


090515.jpg 
本願寺派記念五条袈裟の紋より
 

大派と牡丹

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 東本願寺の寺紋が「牡丹」であるということについて、東本願寺第20世・光朗師(達如上人、1880~1865)が近衛経熈の娘・熈子姫を妃として迎え、その時に近衛家の家紋・「抱き牡丹」がもたらされたであろうとの説がありますが、これは遅すぎるように思います。
 東本願寺の各宗主も、次の表で明らかなように、藤原家の筆頭・近衛家や九條家との関係が深く、それ故に、近衛家の紋所「抱き牡丹」が寺紋として早くから用いられていたのでしょう。

080512大谷派紋.JPG
     大谷派の牡丹

 第11代 顕如 関白九條稙通(の猶子)
 第12代 教如 准三宮近衛前久(の猶子) (1558~1614)
 第13代 宣如 関白九條兼孝(の猶子)(1604~1658)
 第14代 琢如 摂政九條道房(の猶子)(1625~1971)
       (母は関白九條幸家の女)
 第15代 常如 関白九條幸家(の猶子)(1641~1694)
       (母は関白近衛信尋の女)
 第16代 一如  関白近衛基熈(の猶子)(1649~1700)
       (母は准大臣広橋兼賢の女)
 第17代 真如 関白近衛基熈(の猶子)(1682~1744)
 第18代 従如 内大臣近衛内前(の猶子)(1720~1760)
 第19代 乗如 内大臣近衛内前(の猶子)(1744~1792)
 第20代 達如 前摂政近衛内前(の猶子)(1780~1865)
 第21代 厳如  右大臣近衛忠熈(の猶子)(1817~1894)
 第22代 現如  右大臣近衛忠熈(の猶子)(1852~1923)
 (以下略)


牡丹

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 では、第2代如信上人より第8代蓮如上人まで6師の袈裟の紋所は何故「牡丹」なのでしょうか。

 それについて、次のような話を読んだことがあります。奈良の大仏建立で名高い聖武天皇の時代に、遣唐使がもたらした珍品の中に一握りの黒い種子があり、「何か」とお尋ねになった。答えは「世にも美しい花を咲かせるホータンの種」だということで、早速御苑に種を蒔くと、果して見たこともない美しい花が咲いた。これが我が国での牡丹のはじまりだというのです。

 従って牡丹は、中国、いや更に西のシルクロード沿線のコータンなどが原産地かも知れません。丁度葡萄が、やはりシルクロード原産であるように。そしてその牡丹が時の権力者、不比等を頂点とする藤原家の紋所となったといことは、十分に考えられます。

 また、「牡丹」は藤原家の定紋で、副紋が「藤」だった。室町時代以降になって「藤」が定紋になったようだとの説があります。

 更に、西本願寺の御影堂(親鸞聖人の御堂)の内陣の大前卓の左右に吊してある輪灯のデザインは「牡丹」をあしらったものですが、これも親鸞聖人と藤原家の関係によるものと言えるのではないでしょうか。

八藤

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 しかし本願寺では、「宝永」以前から「四つ藤」が用いられていた可能性があります。

 というのは、本願寺には第2代如信上人(1235-1300)から第23代前門主・勝如上人(1911-2002)に至るまで、代々の御影(肖像画)を、新年と盂蘭盆会に、御影堂(宗祖親鸞聖人の御木像を安置したお堂)の南北両余間(内陣の両側)の壇上の奉懸しますが、第十代・証如上人(1516-1554)の御影の着用する五条袈裟の紋が「八藤」だからです。

 第3代から第8代までが「牡丹唐草」、第9代が「鶴丸」、第11代から第20代までは「五七桐」なのに、なぜ証如上人だけが「八藤」なのでしょうか。

 これについては、次のような理由が考えられます。

 江戸時代の本願寺派の衆多の学僧の中に、玄智景耀(1734-1794)という人がいました。
 玄智師は、法式(おつとめの仕方、作法(動作)、お飾りの仕方など)に通じていただけではなく、教義や歴史にも通暁していました。著書としては、上記の諸般を解説した名著『考信録』その他があり、中でも親鸞聖人にはじまる本願寺(西)をはじめ、真宗他派や由緒寺院の歴史までを取扱った『大谷本願寺通紀』15巻は、本願寺派の通史を最初にまとめた極めて重要な史書です。

 それによると、宗祖と、東北地方で亡くなられた第2代如信上人を除き、第3代以下は次表の如く、それぞれ京都の公卿の猶子(名義上の子供)となっておられます。

 第3代覚如・・・広橋中納言兼中(藤原氏の一流)
 第4代善如・・・権大納言日野俊光(藤原氏の一流)
 第5代綽如・・・権大納言日野時光(藤原氏の一流)
 第6代巧如・・・権大納言日野資康(藤原氏の一流)
 第7代存如・・・広橋大納言兼宣(藤原氏の一流)
 第8代蓮如・・・広橋中納言兼郷(藤原氏の一流)
  第9代実如・・・左大臣日野勝光(藤原氏の一流)
 第10代証如・・ 九條前関白尚経(九條家)

 従って第10世証如上人になって初めて九條家の猶子となり、このことを示すために九條家の紋所たる「八藤」が(肖像画の)袈裟の紋として用いられたと思われます。

 そして最初は大谷宗家だけの家紋だったのが、後には由緒寺院の定紋としても用いられるようになりました。現在でも由緒寺院またはそれに準ずる役職者は、法要・儀式に当たって、八藤大紋の袴を着用しています。

四つ藤

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 「四つ藤」とは、現在は一般に「八つ藤(やつふじ)」あるいは「八藤(はっとう)」と呼ばれている紋所です。

 左右に開いた藤の花の房四本を、外側に並べたものです。

080510八藤紋.JPG
  本願寺派八藤紋(袈裟の紋)。但し、東六条(東本願寺)八ツ藤、
雲八藤、その他ヴァリエーションは沢山あります。
 ヴァリエーションは主として外側の四ツ藤と中央の文様の
間の部分の花。

080510東六条八藤.JPG
'京都紋章工芸協同組合 『平安紋鑑』より)

本願寺の紋所

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 先日、日野家の家紋が「鶴の丸」だと書いたところ、さっそく「下り藤」になったのは何時かとのお尋ねがありました。私の知っている、或いは調べた範囲でお答えします。

 昭和36年に西本願寺で勤められた「親鸞聖人七百回大遠忌」の記念事業のひとつとして『本願寺史』が出版されました。

 これは当時、「真宗史」の第一人者、龍谷大学教授・(故)宮崎円遵先生を中心に編纂された上中下3巻、合計約2000頁の大著です。またその付録として『真宗史年表』(約380頁)があります。これによると、本願寺第13代良如上人の時代、寛永5年(1628)の欄に、『法流秘録』なる文献に基づいて、(大谷家の)家紋を、「鶴の丸」から「四っ藤」に改めたとあります。

 「鶴の丸」は鶴が羽を拡げて円をつくる文様で、前期のように、藤原氏の一流・日野家の家紋です。本願寺でも、蓮如上人の次、第九代・実如上人は「鶴の丸」の大紋をあしらった袈裟と色衣を着用されている御影(肖像像)が残っています。(「本願寺史」第1巻 384 挿画参照)。

 なお、「鶴丸」にも様々なバリエーションがあります。

080510鶴丸紋.JPG
(大阪府高槻市富田町本照寺<由緒寺院> 日野家の紋)

080510その他鶴丸.JPG 京都紋章工芸協同組合著 『平安紋鑑』より)

バット

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 このブログの読者から、4月22日に、「毎日、バットを振ってますか」というお尋ねがありました。
 残念ながら、東京では振っていません。

 自坊の私の住んでいる建物から、中庭に架っている渡り廊下を渡ると本堂の横の縁に出ます。
 本堂の正面からは見えない所です。その広縁で、(誰も居ない時を見はからって)バット・スイングをします。

 バットは硬式用(900グラム程度)よりもやや軽い、軟式用です。ソフトボール用でも、極端に言えば、棒切れでも、良いと思います。

 現役の学生時代には毎晩300回ぐらい、平気で振っていたのですが、今は右で20回、左打者のスイングで10回振ると、息が切れそうになります。

 右は兎に角、この不得手な左利きのスイングが大切なのです。これによって右利きのスイングもフォームが良くなるのです。

 しかし、実を言うと、自坊でも毎日振っていたわけではありません。3日目だったり、5日目だったりです。

 なお、スイングに際しては、両足の膝をやわらかく使うこと、バットは右利きならば左手、左利きならば右手で引っ張るように振ることを心懸けたらよいのではないでしょうか。男性も女性も。

喫煙停止

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 あれは平成17年10月16日のことです。丁度、親鸞聖人の月命日のお日中(午前中)のおつとめを大阪・津村別院輪番としてお勤めし、午後から自坊に帰りました。自坊までは約30分の距離です。そのころ私は、別院から発行する『建法幢』という書籍(約450頁)の校正に連日追われていたのです。11月15日、報恩講のために御来院いただく御門主に第一冊を献上しようと、みんなで計画していたからです。

  さて午後1時ごろから校正をやり出したのですが、何しろ懸命です。そして一息つこうと頭を上げて時計を見たら、午後5時。その時、「さっきから4時間ばかり煙草を喫っていない」ことに気がつきました。更に、「これだけ喫わないでいけるのなら、これでやめよう。間もなくやってくる海外旅行の機内で、愛酒家は楽しんでいるのに、こちらは我慢のしどおしという不公平に、腹を立てなくて済む!」

 そして、まるで末期の水のように、もう一本だけ火をつけて、それで完全にやめました。

 但し今でも煙草の匂いは嫌ではなく、そばで喫ってもらっても「良い匂いだな」と思うこともあるのです。


 喫煙をはじめて何十年。たしか阪神淡路大震災のころでしょうか。強力な喫煙後援者が出現しました。Aさんという御住職で、法要の席などでお会いした時、私の愛煙銘柄を御覧になったのでしょう。「ミスター・スリム」を10カートンずつ、年に何回か送ってきてくださるようになったのです。
 私は3日で2箱(20本入り)程度でしたから、それで充分。お陰さまで、恐らく10年ぐらいの間、全く煙草を買わないで済みました。

 しかし4年前だったと思います。年末を最後に「ミスター・スリム」は製造・販売停止になりました。ニコチンなどが、ずば抜けて強かったからではないでしょうか。

 A師は残念がって、「何か代りの煙草を届けましょう」と言ってくださったのですが、もうこれ以上、新たな御好意におすがりするのはいけないと思って辞退しました。それから間もなくA師は逝去されました。

 4月22日に煙草をピタリとやめたことを書きましたが、今日から三回にわたり、煙草にまつわる経緯について書かせていただきます。

 私は一応成人するまで、主として祖母に育てられました。大学院に進んで二年目の秋、祖母は私に言いました。

  「あなたも、そろそろ社会人の仲間入り。これからはいろんな人とお話をする
   機会が増えるでしょう。そんな時に、両手を膝の上に置くのは堅苦しい。腕
        組みするのは不作法だ。手を自然に動かすために煙草を喫いなさい。他人
        さんの前で考え事をするときにも、それで何とか恰好がつく。但し、お酒は飲
        まぬこと。おじいさんのように若死(数え57歳)してはいけないから」

 それまで全く喫煙に縁の無かった私ですが、丁度区切りの良いようにと、彼岸会の中日から喫い始めました。当時、橙色の箱の「光」と青い箱に鳩のマークの「ピース」、どちらも両切り。「光」は強く、「ピース」は匂いが良かったと記憶します。昭和29年のことです。

  そしてそれから3ヶ月たらずの12月17日早朝、祖母は脳溢血で倒れ、2日後の夕刻、逝去しました。丁度、修士論文執筆の時期でしたが静かに机に向かう気にならず、とうとう論文提出は一年先のことになりました。

 さて、いわば祖母の、取り消しの不可能な遺言のような喫煙です。私はその後、数十年、何のためらいもなく継続しました。インドに留学中も、あちらの煙草や英国製などを買っていました。しかし、勿論、先生のお宅などでは喫いませんでした。不敬に当るとされていたからです。

マラソン

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 私と一緒に甲子園に出場した仲間にI君がいます。私が築地勤務になったということで、もう一人のI君と二人して、歓迎の御馳走をしてくれました。

 一緒に食卓を囲むのは60年ぶり、話に花が咲きましたが、彼は一流商社につとめている間に、5年間の英国駐在も含めて、何と55ヶ国を訪ねたとのことです。しかしインドは行ったことがないとのこと。

 彼はいわゆる豪球投手でした。慶応に進んで間もなく肩をこわし、不本意な大学時代だったようですが、その彼は70歳を過ぎてから、「今、マラソンにはまりこんでいる」と言うのです。ハワイへも行ったそうですし、ベストタイムは5時間いくらかとか、言っていました。

 その彼と、ランニングの効用についても話しました。実は私も大学時代、肩をこわしたことがあるのですが、最高の治療法はランニングでした。

 しかし、ただ走っているのではなく、走りながら、出来るだけさまざまに肩を動かし、筋肉をほぐすのです。

 日課としての散歩の経験は私にはありませんが、散歩をされる方、どうぞ動きながら、肩や首を動かし、掌も開け閉めすることで、散歩の効果を高めてください。

 勿論、あの大哲学者イマニュエル・カント(ドイツ、1724-1804)や、京都の"哲学の道"の名の起源となった西田幾太郎先生(1870-1945)のように、歩きながら"哲学する"、いや"佛教する"のは、もっと良いことかも知れませんね。


散歩

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 Sさんは、たしか私と同年です。40年ほど前、佛教青年会の中の一番のお姉さんとして、頑張ってくれました。

 その彼女と、久しぶりに、道でバッタリ出会ったのです。頭髪は真白。
 「お元気?」
と訊ねますと、70何歳まで、結局、結婚はせず、
 「兄が寝たきりなので...」
とのこと。しかし毎朝、運動のために、散歩しています、と言います。

 彼女の家は、私の家から1キロ足らず、近所のNさんは毎朝、お寺に参ってきますから、余程「女同士誘い合って、お参りすれば...、運動にもなるし...」と言おうかと思ったのですが、お兄さんの看病もあることだし、うっかりしたことは言わぬ方がと思って、ことばを飲み込んだのです。

 ところがそれから半年たらず、ふとしたことから彼女が認知症で、施設に入っている、身内の者が行っても、わからない状態だと聞いて驚くとともに、非常に後悔しました。

 あの時、朝のお参りをすすめ、それを彼女が実行していたら、聞法にもなり、またお友だちも出来て、一日中、黙りこくっての看病生活から、少しの間だけでも解放されただろう。特に女性は、おしゃべりする相手がいなくなると、老化が進みやすいのですから。

 私は、まるで私のせいで、彼女が認知症になったかのような気がして、それを思うと憂鬱なのです。

 だから、ただ散歩ではなく、お寺参りの散歩を、時間に余裕のある方々に、おすすめします。

ぶら下がり機

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 自坊の私の部屋のすぐ外の板の間に、ぶら下がり機が置いてあります。これは、父が二度目の本願寺派総長に選出された昭和52年5月に、お祝いのしるしにプレゼントした物です。総長室の一隅か、それともどこか近くに置いて、時間があるとき、たとえ数秒間でもぶら下がって、筋肉をほぐし、血行をよくして、健康を保ってほしいとの私の願いをこめたものでした。

 父が私の願いを実行してくれたかどうかは、結局たずねる機会を逸してしまいましたが、以後、昭和60年12月の引退まで8年半、持病の痔疾手術のための入院以外には大した病気もせずに、無事お勤めをしてくれました。

 やがて任務を終えて、ぶら下がり機も自坊に帰り、去る大震災にも形をとどめ、それを私が、毎日一回程度、それも10秒間ほど使用していました。

 それが先日、約10日ぶりで、勤務地の東京から帰って、久しぶりにぶら下がってみて、何と体が固く曲っていたのだなと気がつきました。バリバリと音がするのではないかと思ったほどで、以前なら難無く床に着いた足先が、なかなか着かなかったのです。

 築地の役宅にぶら下がり機も如何かと思いますので、それに代わる方法でストレッチ、健康を保ちたいと思っています。

 みなさんも、どうか、この曲げ、伸しなど基本的な運動で、お元気にお過ごしください。

運動

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 先日、健康法に関して「散歩はしない」と書きましたが、出来ればするに越したことは無いと思います。

 というのは、何かの拍子に体が少し傾いたときは、以前なら、自然に脚のどこかに力が入って、姿勢が正常に戻ったのに、近頃、たとえば、突っ立ったままで靴を履こうとして体が傾き、側らの壁などに手をついて体を支えることが時々あります。

 これは脚力、殊に脚の筋力の脆弱化、老化現象の証拠かと思っています。

 脚が弱ると、つまずいたり、ころんだりし易くなり、それが骨折の原因にもなり、更には寝込んでしまって余病を併発したり、全く起き上がれなくなることもあるそうですね。

 だから、脚が弱らぬよう、運動しましょう。

 そのために、室内でも出来る手軽な運動を一つ。それは、お相撲さんが四股を踏んだとき、両足間を広げ、足の裏を全部、地(床)に着け、お尻の位置を出来るだけ下げて、しゃがむことです。そして片ひざを曲げたまま、もう一方の脚を真っ直ぐに横に伸ばす。これを左右交互に何度かずつ、やってみることです。

 特に女性にとっては慣れない姿勢でしょうが、男性でも慣れないと、なかなかつらい運動です。ひっくり返らないように、机か何かの端につかまりながら、鍛練してみましょう。

 親鸞聖人の「綽空」というお名前ですが、京都・嵐山に、弥陀・釈迦二尊を並べて御本尊とする、有名な「二尊院」というお寺があります。

 法然聖人とたいへん縁故の深いお寺ですが、そこに法然聖人72歳、親鸞聖人32歳のときに作製された「七ヶ條制誡」(または「七ヶ條起請文」)という一巻があり、そこに法然聖人以下、吉水教団の面々190人が署名しています。親鸞聖人はその中87番目に「僧綽空」と署名されています。

 この起請文は(複製本だと思いますが)二尊院本堂の一隅に、丁度「僧綽空」がみえるように展示されているのです。

 ついでに申せば、東西両本願寺や高田・専修寺など、浄土真宗系の寺院に伝わる聖人の御真筆以外としては、この「僧綽空」が唯一のもので、知恩院をはじめ、法然聖人のお流れを汲む浄土宗系のお寺に伝わる法然聖人の伝記や文献の中には、親鸞、善信、綽空などの名前は、全く見られないようです。たいへん興味深い事実というべきですね。

 なお、親鸞聖人は、お若い頃は全く著述などされていません。御著述の中で、年代に関説する最初は、聖人52歳の元仁元年(1224)です(『教行信証』(化身土文類六)による)。そして、『教行信証』が一応完成されて以降、の各種の御著述や、関東のお弟子たちへのお手紙には、「善信」とあったり「親鸞」とあったりするわけです。