しかし本願寺では、「宝永」以前から「四つ藤」が用いられていた可能性があります。
というのは、本願寺には第2代如信上人(1235-1300)から第23代前門主・勝如上人(1911-2002)に至るまで、代々の御影(肖像画)を、新年と盂蘭盆会に、御影堂(宗祖親鸞聖人の御木像を安置したお堂)の南北両余間(内陣の両側)の壇上の奉懸しますが、第十代・証如上人(1516-1554)の御影の着用する五条袈裟の紋が「八藤」だからです。
第3代から第8代までが「牡丹唐草」、第9代が「鶴丸」、第11代から第20代までは「五七桐」なのに、なぜ証如上人だけが「八藤」なのでしょうか。
これについては、次のような理由が考えられます。
江戸時代の本願寺派の衆多の学僧の中に、玄智景耀(1734-1794)という人がいました。
玄智師は、法式(おつとめの仕方、作法(動作)、お飾りの仕方など)に通じていただけではなく、教義や歴史にも通暁していました。著書としては、上記の諸般を解説した名著『考信録』その他があり、中でも親鸞聖人にはじまる本願寺(西)をはじめ、真宗他派や由緒寺院の歴史までを取扱った『大谷本願寺通紀』15巻は、本願寺派の通史を最初にまとめた極めて重要な史書です。
それによると、宗祖と、東北地方で亡くなられた第2代如信上人を除き、第3代以下は次表の如く、それぞれ京都の公卿の猶子(名義上の子供)となっておられます。
第3代覚如・・・広橋中納言兼中(藤原氏の一流)
第4代善如・・・権大納言日野俊光(藤原氏の一流)
第5代綽如・・・権大納言日野時光(藤原氏の一流)
第6代巧如・・・権大納言日野資康(藤原氏の一流)
第7代存如・・・広橋大納言兼宣(藤原氏の一流)
第8代蓮如・・・広橋中納言兼郷(藤原氏の一流)
第9代実如・・・左大臣日野勝光(藤原氏の一流)
第10代証如・・ 九條前関白尚経(九條家)
従って第10世証如上人になって初めて九條家の猶子となり、このことを示すために九條家の紋所たる「八藤」が(肖像画の)袈裟の紋として用いられたと思われます。
そして最初は大谷宗家だけの家紋だったのが、後には由緒寺院の定紋としても用いられるようになりました。現在でも由緒寺院またはそれに準ずる役職者は、法要・儀式に当たって、八藤大紋の袴を着用しています。
というのは、本願寺には第2代如信上人(1235-1300)から第23代前門主・勝如上人(1911-2002)に至るまで、代々の御影(肖像画)を、新年と盂蘭盆会に、御影堂(宗祖親鸞聖人の御木像を安置したお堂)の南北両余間(内陣の両側)の壇上の奉懸しますが、第十代・証如上人(1516-1554)の御影の着用する五条袈裟の紋が「八藤」だからです。
第3代から第8代までが「牡丹唐草」、第9代が「鶴丸」、第11代から第20代までは「五七桐」なのに、なぜ証如上人だけが「八藤」なのでしょうか。
これについては、次のような理由が考えられます。
江戸時代の本願寺派の衆多の学僧の中に、玄智景耀(1734-1794)という人がいました。
玄智師は、法式(おつとめの仕方、作法(動作)、お飾りの仕方など)に通じていただけではなく、教義や歴史にも通暁していました。著書としては、上記の諸般を解説した名著『考信録』その他があり、中でも親鸞聖人にはじまる本願寺(西)をはじめ、真宗他派や由緒寺院の歴史までを取扱った『大谷本願寺通紀』15巻は、本願寺派の通史を最初にまとめた極めて重要な史書です。
それによると、宗祖と、東北地方で亡くなられた第2代如信上人を除き、第3代以下は次表の如く、それぞれ京都の公卿の猶子(名義上の子供)となっておられます。
第3代覚如・・・広橋中納言兼中(藤原氏の一流)
第4代善如・・・権大納言日野俊光(藤原氏の一流)
第5代綽如・・・権大納言日野時光(藤原氏の一流)
第6代巧如・・・権大納言日野資康(藤原氏の一流)
第7代存如・・・広橋大納言兼宣(藤原氏の一流)
第8代蓮如・・・広橋中納言兼郷(藤原氏の一流)
第9代実如・・・左大臣日野勝光(藤原氏の一流)
第10代証如・・ 九條前関白尚経(九條家)
従って第10世証如上人になって初めて九條家の猶子となり、このことを示すために九條家の紋所たる「八藤」が(肖像画の)袈裟の紋として用いられたと思われます。
そして最初は大谷宗家だけの家紋だったのが、後には由緒寺院の定紋としても用いられるようになりました。現在でも由緒寺院またはそれに準ずる役職者は、法要・儀式に当たって、八藤大紋の袴を着用しています。
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