つい先日、ある仏教系の大学の先生にこんな話を聞きました。「学生が、"慈悲"という字が読めないし、意味がわからない。まさか"愛"とも言えませんしね。」
若い人が言葉を知らないこと、特に敬語が無茶苦茶なのは、どうしたらいいのでしょうね。
丁寧に言っている心算でしょうが、自分の家族に敬語をつけているから、聞いている方は、それが誰のことか解らないことが往々にしてある。いや、そんな事ぐらい、まだまだ生やさしい。自分が飼っているペットにも敬語を用いている。親が死んでも泣かないのに、ペットが死んだら泣くという。その倒錯と、この敬語の誤用も連動しているのではないか。
また、ちょっと以前ですが、手紙に「このような当方の御事情を拝察されたく・・・」といった珍妙な例もありました。
こんな無茶苦茶な日本語が今や、あっちこっちでも跋扈しているというのに、一体全体、どうする気かと文部科学省に訊ねたい。
いや、人を作るのが宗教の役割ではないかと言われるかも知れません。確かに、歴史的にみると、仏教は、人を作り育てることに大きな役割を果たしてきたのですから。特に戦後、「人間」をつくる一番の元締めの役割を果たしてきたのは文部省(文部科学省)になってしまい、手綱をゆるめてしまったのかも知れません。
宗教といってもいろいろありますので、少なくとも僧侶や仏教徒が"人を作り、自らも育っていく"という自覚をあらためてもつことが必要でしょう。このような時代だからこそ、仏教がもっと社会に関わり、人作りという役割に積極的になることが求められているのではないでしょうか。
「からだ」「こころ」「ことば」って、三位一体って気がしています。三位一体のバランスがくずれているときって、人間関係がまずくなったり、社会生活がおかしくなったりすることを感じています。
この一つ一つに気を配って、正常な状態を保つことはもちろん大切ですが、この三舎の関係に気を配るような、大きな視点が、決定的に欠けているような気がしてなりません。仏教も、教典の一字一句に心を配ることも大切ですが、全体像を把握することが、とくにこの時代に求められれいるのではないか・・・。そんなことを強く感じるのです。