2008年8月アーカイブ


 同じことは私たちの人生、いや毎日の生活に
ついても言えます。

 せっかく、恵まれた生命です。幼いときから
正しくスタート出来るよう、親だけでなく、
周囲の人びとが充分配慮すること、そしてひと
たびスタートした生命は、み仏によって示され
た輝かしい道を、さまざまな困難を乗り越え、
目標に向かってまっすぐに歩つづけるよう、
努力せねばなりません。

(豊原大成 『心の風景 Ⅲ』 自照社出版 2006年)


 さて、基本という点では、音楽も同様なこと
が言えるのではないでしょうか。

 音楽は、これも声やさまざまな種類の楽器の、
いろんな高さ、長さ、強さの音の組合せによっ
て成り立ちます。これらがどう組み合わされ、
表現されるかによって、その音楽の優劣、巧稚
が決まるのですが、その複雑な表現の前に、
より大切なことは、定められた一つの音の高さ
を、それだけ正しく、まっすぐに続けて出せる
かということでしょう。

 たとえば"ド"の音を出すべきところ"レ"
が出たり、"ラ"を出しているつもりがいつの
間にか"ソ"に下ったりしては、決して立派な
音楽にならない。最初に決められた音を正しく
続けることは、音楽の生命の問題なのです。

 そして書でも音楽でも、文章でも絵でも、
つまりあらゆる芸術に忘れてはならないのは
"気品"でしょう。

(豊原大成 『心の風景 Ⅲ』 自照社出版 2006年)


 ところで、書の上手下手、美醜は、何によっ
て決まるのでしょうか。これは実にさまざまな
要因が複雑に作用しているようです。

 まず、書は点と線との組合せです。しかも点
にも線にも、縦、横、斜めなど、いろんな種類
があります。それらがうまく組み合されて、
一つの字、一行の書になるわけです。

 書の根本は、天と地とを貫く直線だという人
がいます。五字、十字であろうが、二十字、
三十字であろうが、それぞれ形の異なる文字が、
縦一直線に、ピント張りつめたように並んで
いないといけない。これこそが書の生命である
との説には、なるほどと肯かされるものがあり
ます。

 書の一字一字についても同じことが言えるで
しょう。そしてそのために何よりも大切なこと
は、縦の線、横の線が、たとえ一本だろうと
三本、五本だろうと、ちょうどよい角度・間隔
で、力強く美しく引かれていることが、欠くこ
との出来ない条件でしょう。また、点一つでも、
それを打つ場所によって、文字全体の感じが
違ってきます。

 だからまず最初に、筆を正しい位置に打ちこ
むことが大切ですが、ひとたび紙上に下された
筆は、目指す方向に向けて、目指す位置まで、
まっすぐに引かれなかったら、決して美しい
文字にはなりません。

 ただし、一口にまっすぐと言っても、縦線の
場合は中程が左に張ったり右に張ったり、
下端で筆を抜いたり、止めたり、左へ刎ねたり、
横線でも上に反ったり、下に反ったりするの
ですが、そのためにも、何よりも必要なのは、
まず線をまっすぐに力強く引く筆法の習熟で
ある。だからこそ楷書がすべての書体の基本
だといわれるのです。

(豊原大成 『心の風景 Ⅲ』 自照社出版 2006年)


 書道の展覧会に行きますと、大きな画仙紙に
墨痕鮮やかな作品が、広い会場に、所狭しと
展示されています。どれもこれも立派ですが、
多くの場合、その書体は行書、草書、篆書、
隷書で、楷書の作品は少ないようです。作者
たちが、楷書という書道の基本を超えて、自分
自身の技術や芸術感覚を表現しようとすると、
どうしても、行、草などの書体になってしまう
のかも知れません。

 また私たちが通常、手紙やメモなどを認める
場合、楷書で書くことは少なく、より軟らかい
感じで、しかも早く書ける行書、草書になって
しまうことがほとんどです。

(豊原大成 『心の風景 Ⅲ』 自照社出版 2006年)

盆踊り(5)

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 なお、こんな楽しい、素晴らしい風物を
間近に見ながら、どうせ下手くそに決って
いるが、踊りの輪の中に入って行く勇気
が私に無いのは何故だろうかと、私は、
踊りの間ぢゅう、しきりに考えていた。

 つまり私には頭をはじめ、それぞれ異
なった方向に、両手両足を、曲げたり伸し
たり、うまくあやつることは不可能のように
思えたからである。

 そして私が何故そう思うかという理由に、
ふと思い当った。
 つまり、私が、遙か昔の学生時代、ただ
一つのボールを打ち、投げ、捕ることに
全身、全神経を集中するスポーツに親しん
でいたからではないか、と思うに至った。

 しかし、これもおかしい。野球選手だって
盆踊りの上手い人は沢山居るに違いない。
だから要するに、不参加は臆病のせいかと
いうのが、只今のところの私の結論である。

盆踊り(4)

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 しかし楽しい。他のどれよりも楽しい。
もしかしたら、この圧倒的な数による
いい加減さ。
 しかも、何時間も汗をかき、拭き、砂埃
にもまみれながらの踊り手と見物人たち。
これこそが日本の庶民の力であり、文化
ではないか。

 そういえば、ハワイや北米西海岸のロス
などで、佛教寺院の夏の行事として、
盆踊りが毎年盛大に催され、そのために
坊さん兼・歌手兼・踊りの先生が招かれて、
わざわざ日本から出張するのも、彼地の
日系人のバイタリティーを示すものだし、
盆踊りがある限り、日本の庶民文化は
滅びることは無いだろう。

盆踊り(3)

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 それに、その踊り方。上手もあり、下手も
あり。腰をやや落して、両手を挙げ降ししな
がらステップを踏む。だから腕も脚も、ピンと
伸びることが無い。曲げても伸ばしても、
中加減なのである。

 それから、踊りは必ずしも音楽が始まった
時から踊っていなくても、かまわない。曲の
中途から何重にも櫓を取り巻く踊りの輪に
入って行ける。輪の何処に入ってもかまわ
ない。後の人は適当に間合いをあけてくれる。

 また逆に、途中で何かを思いつき、踊りを
やめて、輪から出て行ってもよい。

 踊りは、輪の中だけではない。輪の外から
見物していた人が、雰囲気に浮かれて、
いつの間にか、その場で手足を動かしている。

 さらに、踊りの輪は、一重の場合もあるが、
人数によって、二重、三重、五重でもかまわ
ない。踊り手の前後の距離も、いわば"適当に"
である。一つとして定まったことはない。
会場によっても、それぞれ異る。

 まさに百人百様、千場千様である。日本
なら例えば京都・祗園の芸妓さんの踊りの
ように、「一糸乱れず」とは全くの正反対。
折しも行われていた北京オリンピック入場式
の、そのために訓練された姑娘部隊の整然
さとも全く異なる。

 ある意味で、こんないい加減な踊りは無い。

盆踊り(2)

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 ところで、盆踊りとは、奇妙な踊りである。
何百人かが中央の櫓の周囲を踊りながら周る。

 しかしそれが、歌と太鼓のリズムと合って
いることを除くと、他は全部バラバラ、まち
まちなのである。

 第一に、参加者が、小学生ぐらいの子供
(周辺には3~4歳の子も沢山見かけるが)から、
男もいれば女もいる。流石に、女性対男性の
人数の比は、30あるいは50対1ぐらいかも知れ
ないが。

 次に服装。揃いの浴衣姿の女性群も幾グルー
プか見かけるが、浴衣あり、ワンピースあり、
シャツとズボン姿あり。それに近年は、リュッ
クサック姿、肩から脇にショルダーバッグ姿
の若い女性。先日は、身長175センチはあるか
と思われる、ピンク色染の浴衣を着た、若い
黒人女性も見かけた。

盆踊り(1)

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 今や大袈裟に言えば、日本国中が盆踊りの
季節である。

 我が東京・築地本願寺でも、地域の方々の
御協力のお蔭で、盆踊りは年年盛大になり、
今年も8月5日から8日まで、4日間の毎夕、
それぞれ数千人の人びとが、前庭に組み
上げられた櫓を中心に、踊る人、立見の人、
ビールや蛸焼き・・・・を楽しむ人びとなど、
首都の夏の名物の名に恥じない賑いぶり
だった。

保育園(4)

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 しかし私のこのような思いは、いわゆる
理屈のための理屈にすぎないであろう。

 上の書類を見ても、誰も太郎氏が出産
するとは考えない。

 世の中は、それで通るのだし、通して可い
と思う。
 しかし、これで通らない場合もある。否、
通らない場合が多い。そこに法律とか契約
など、難しい問題が必要となり、発生する。

 但し、親子とか夫婦、兄弟、朋友などの
間には、昔は、契約とか法律などというもの
は無かった。特に、親子、夫婦において、
そうだった。

 いや、佛さまと私たちとの間にも、格別に
契約などというものは無い。無くても親は子
を、夫は妻を愛し、佛は私たちを慈しみ、
子や妻や私たちは、親や夫や仏さまを敬う
というのが当り前だった。
 今、それが当り前でなくなりかけている。
そして恐ろしい事件が次つぎと起るのだが、
この、昔は当り前だった世の中にもどすため
に、私たち一人ひとりが、いや、国全体が
もっと真剣に考え、努力しなくてはならない。


保育園(3)

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 ところで、先日、思わず、くすりと笑って
しまった立案があった。それは要するに、
こんな内容のものである。

   園児 ○○××、当分の間、休園願い
   理由、第二子出産のため
   保護者 ○○太郎

 上の立案には、当然、同じ趣旨を記して
捺印した、保護者○○太郎氏の願書(のコピー)
が添付されていた。

 そして上の出願の理由は、○○××さんは
目下一人子で、そのお母さん、つまり太郎氏
の奥さんが、自宅と勤務先との途中で、
その子を園へ(から)送り迎えしていた。
 しかし第二子出産のため、勤務もそして
送迎も不可能になったから、然るべき時期
まで、子供は自宅で養育したいということ
なのだろう。

 しかし、上の出願書および立案書を見る
限り、この件について最重要な鍵を握る、
つまりキーマンとしてのお母さんの名前が
何処にも出ておらず、書面に依る限り、
第二子を出産するのは保護者(父親)の
○○太郎さんだということになるからである。

保育園(2)

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 さて、理事長になると、毎日のように、
何枚か「立案」に目を通して、OKの印を
押すことが重要な仕事だ。

 「立案」というのは、どんな組織でも行わ
れていることだが、例えば、「今月の電気
代○○円を、××会社に支払ってもよろしい
か」とか、「何月何日に、これこれの行事を
行ってよろしいか」とか、また、それに関し
ての細部の計画だったり、予算だったり、
要するに事業の先端で遭遇したり計画し
たりすることを、上部に報告したり、その
事に関しての必要な他の書類などを添付
して、許可を求めたりすること。
 その書類は原則として、担当者(立案者)
から係長 → 課長 → 部長という具合に、
いわば下から上へ、次第に証認印が積み
上げられて、最後に最高責任者がこれを
決裁するという仕組みになっている。

保育園(1)

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 保育園の理事長役などを勤めていると、
楽しいことがいろいろある。

 その最たるものは、園を訪ねた時で、
特に4歳児ぐらいの部屋が一番おもしろい。

 まだ余り回らない舌で話しかけてくる子、
抱っこしてほしいと言って、とびついてくる子・・・。
 一人抱き上げて、"高いぞ、高いぞ"など
すると、ボクも、ワタシもと、次つぎ、限りが
無い。中には可成り重量級もあって、7~8人
も抱き上げると、もうこちらの腕が上がらなく
なる。

 いつだったか、ちょうど入浴前だったらしいが、
20人ぐらいいた男の子の、ほとんど全員が、
下半身はだか。可愛い坊やの坊やにあんなに
沢山一度にお目にかかったのは、私にとって
その時が初めてだった。

 女の子が一人、何か私に話しかけてきた
ので、「パンツ、はいてる?」ときくと、いかにも
悲しそうな顔で、「はいてる」と答えていたが、
なかなか可愛い子だった。
 それにしても彼女は、私に何を話したかった
のかだろうか。何が悲しかったのだろうか、
今も気になる。


 ところが、そんな中、大すきな流行歌、佐藤
惣之助作詞、山田栄一作曲の『すみだ川』
(昭和12年発表)から、転じて、私の尊敬する
作詩家・藤田まさと氏と作曲家・大村能章氏に
よる『明治一代女』(昭和10年発表)を、ふと
想い出してしまった。

 ――特にその二番の歌詩の前半。

 "怨みますまい この世の事は
  仕掛け花火に 似た命"

 そしてその「仕掛け花火に似た命」は、私に
とっては、銀杏返しや島田(髷)に結った仇な
芸者衆ではなく、30歳の誕生日を待たずに、
阪神淡路大震災で亡くなった、まだまだ幼顔の
残っていた独り娘のことだったのである。

 親とは馬鹿なもの、哀れなものである。

 そして心の中で、こんな独言を繰り返していた。

 「たとえ90年、100年生きても、この世の命は、
仕掛け花火のようなもの。いずれ、仏さまの国で
ゆっくり会おうね。」

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