2008年10月アーカイブ

譲り合う(下)

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 ところが先日、こんなことがあった。

 折しも御本山での会議のため宿泊中のホテル
から外出しようとした時、玄関に大型バスが
到着した。
 透明ガラスのドアーの向こうから、白人の
団体宿泊客がドッと入ってくる。足を踏み出
そうとしたが、丁度大きなおばさんが荷物を
抱えて入ってきたので、ちょっと立ち止まって、
道を譲った。多分、夫婦だろう、続いて男性
がやって来たので、なおも立ち止まっていた
が、彼は、入って来ない。そしてドアーの外
から、こちらを見ているようなので、

「あ、これは、奥さんに道を譲ってくれた私に、
"どうぞ、お先に"ということなのだ」な、

と思って、片手を挙げて会釈しながら、そして
お互いに、目と目で微笑みながら、私が先に
通った。

 至極、後味の好い一瞬だった。

 電車内なので、隣の空席に坐ろうとして、
ちょっと小腰をかがめてくれる相客(ほとんど
が中年以上)に出くわすと。ほっとするが、
日本中、いや世界中、こんな社会になったら、
さぞ楽しいだろう。

譲り合う(上)

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 ホテルのエレベーターなどでは、若いカッ
プルと鉢合わせすることが少なくない。そんな
時は、向うは片方が女性なので、出入りの順番
を彼女に譲ると、会釈一つせずに、さっさと
さきにへ行くし、男性の方までが、当然のこと
のように、彼女にくっついて乗り降りしてしま
う。
 私は彼女に作法として順番を譲ったのであって、
彼にではなのだが、その無知、無作法あるいは
無神経さには、腹が立つどころか、あきれること
が多い。これが今の日本の多くの若者(もしか
したら大多数の)が礼節を忘れた姿である。

 なお、こちらが後期高齢者だということは、
一目瞭然なのだから、女性にしても"レディ・
ファースト"を押しとおすことはあるまい。

 平成14年頃から言われ出した、小学校などの
「ゆとりの教育」ほど馬鹿気た教育はありません。
"ゆとり"どころか、今、日本はそんな悠長な
ことを言っている"ゆとり"はないのです。
お金を持たないはずの若者が贅沢な車を乗りまわし、
高額の授業料を親に納めてもらっている大学生が、
遊びとアルバイトに夢中で、勉強をしない。
そして親たちは、その事実を知らないらしい。
外国人は日本人の自堕落ぶりに、あきれている
という話を、しばしば耳にします。

 今からでは遅いかもしれませんが、大人も若者
も子供も、人と出会えば、きちんと挨拶をする。
公衆の中では規律をまもる。少々の辛いことは
辛抱する・・・・。そして何よりも朝夕、お仏壇に
向かって掌を合す。このような、かつての日本人の
姿勢を復活させることによって、初めて明日の
日本があり得ると思うのですが、いかがでしょ
うか。


 しかし、このような緊張は、少なくとも、
毎日のほとんどのテレビの画面では、見か
けることが少なくなりました。

 テレビでは、ゲラゲラ笑う、品のない
タレントたちや番組のオンパレードですし、
視聴者は、それによって"悪い教育"を年柄
年中受け、国全体がどんどん駄目になって
いくように
思われてなりません。まさに、かつての著名
な評論家、大宅壮一氏が言った「一億総白痴化」
です。

 ニュースなどを見る限り、緊張感は、お隣の
中国や韓国の人びとの、特に若い人たちの顔に
あります。そしてこの緊張こそが、これらの
国ぐにをここ20~30年の間に急速に豊かにして
きた、最大の原動力ではないでしょうか。


 第二の理由は、国民全体の気風がしっかり
していた。我慢づよかったからだと考えられ
ます。

 明治時代や、大正時代の人びとの写真を
ご覧になったことが、おありでしょう。

 一人だけの肖像も、家族などのグループ
写真でも、そこに写っている人びとの顔は
緊張しています。笑っている写真などは皆無
と言ってよい。生活が現在のように容易では
なく、まず生きんがために、人びとは懸命
でした。この懸命さが写真の中にも表れて
います。そこには一種、言い知れぬ美しさが
あります。

 この緊張がなければ、勉強も仕事も、いや
野球、サッカー、体操、相撲、その他どんな
スポーツも、芸能でも、よい成果をあげる
ことができません。

 緊張ばかりが良いと言っているわけでは
ありません。必要なとき、必要なだけ緊張
することが大切だと言いたいのです。


 我が国は、徳川時代の二百数十年間、鎖国
といって、朝鮮半島の王国から時どき使節を
迎えたり、長崎の出島でオランダと通商をする
だけで、その他の国ぐにとはまったく没交渉
の状態でした。

 ところが、いつまでも、そうはしておられ
なくなり、今から百五十年ほど前に開国して
西洋の文化を取り入れ始めてから、わずか
50~60年の間に、世界でもっとも進歩した国
の一つになりました。こんなに急速に発展した
国は、人類の歴史の中でも、たいへん珍しかった
のです。

 では、その理由の第一は、と言えば、まず
学校教育のない時代に、子供たちは寺子屋など
という一種の塾に通い、そこで"読み、書き、
算盤"という基礎教育を、しっかり受けていた。
この基礎教育のおかげで、急速に流れ込んでくる
外国の文化を、比較的容易に理解し、消化する
ことが出来たからだと言われています。


 ただし昔は、幼いときから多かれ少なかれ苦しみを
辛抱するのがあたり前でした。草木や動物も、風雨や
寒暑や飢餓に耐えたもののみが生き残ります。"忍耐"
こそが生存に不可欠の要件なのです。"切れる"のは、
幼いころからの"忍耐"の訓練の欠如によるものといえる
でしょう。

 さて仏教は、六波羅蜜(多)の一つに、この"忍"を
掲げていますが、"忍"はじつは狭い意味での仏道の
ためだけの項目ではなく、生きるための教え、生活の
智慧でもあるのです。

 いや、"忍"だけではなく、布施も持戒も精進も、みな
ある意味での生活の知恵であります。"生活の知恵"と
しての仏教がもっともっと広まることこそが、混迷からの
脱出に何よりも必要なことなのであります。


 このように六波羅蜜の修行によって仏となる
ことは、ほとんど(すべて)の人間にとっては
なはだ難しい道だからこそ、これを難行道と
いうのですし、難行道で仏になることできない
からこそ易行道としての念仏が、私たちに
とって掛け替えのない道であるわけです。

 ところで、今日の社会は、まさに"混迷"を
きわめています。そしてその最たるものが
一部の学校教育の現場でしょう。校内暴力、
学級崩壊などの言葉を耳にしてすでに久しい
のですが、その都度取りざたされるのが、
子供たちの"切れる"という事態です。

 "切れる"とは、いわゆる"堪忍袋の緒が
切れた"に由来する語で、子供たちが突然
わめき出し、暴力を振るうときの心理状態
をいう表現のようです。

 しかし、今の世は、あげてぜいたくになり、
冬の寒さも夏の暑さも、空腹も貧困もほとんど
ない。苦しみは病弱者などの社会の一部に
依存するものの、ことに親や社会の手厚い
保護の中で就学している生徒たちにとって、
"堪忍袋に"など一般的はほとんど必要が
ないはずです。


 次に"六"とは次の六つを指します。

 1)布施(施しをすること、物惜しみせぬこと)
 2)持戒(戒律を守ること、行いを正しくすること)
 3)忍辱(忍耐、辛抱すること)
 4)精進(努力すること)
 5)禅定(心を仏の教えに集中すること)
 6)智慧(浄らかな叡智)

 そして、六波羅蜜(多)とは、これら六つの
項目を徹底的に実践することであります。

 しかし、これらのうち、ただ一つでさえ徹底的
に実行することははなはだ難しい。たとえば、
自分の生命を施す、犠牲にすることは、
はたしてだれにでもできるでしょうか。また、
"徹底的に努力精進せよ"といわれても、
私のような怠け者には到底できません。


 仏教で非常に大切な教えとされているもの
の一つに六波羅蜜(多)があります。

 波羅蜜(多)は、インドの聖典用語
サンスクリット(梵語)のパラミーターと
いう言葉をそのまま音写したものです。

 ではパラミーターとは、どんな意味か。

 パーラムとは"他""彼所"などを意味
するバラに由来し、イターとは、"行く"と
いう動作の完了形、つまり"到達した"
"完成した"というほどの意味だといわれ、
しばしば"到彼岸(とうひがん)"とも
訳されています。

 また、"彼岸(仏の世界)に到る"とは
渡(=度)ることですから、六波羅蜜(多)
を単に"六度"などという場合もあります。


 なお、円仁が彼の地で学び、我が国に伝えた
法照禅師(770年頃。後善導=善導大師の
生まれかわりと言われる)作の『浄土五会念仏
略法事儀讃』は比叡山の念仏修行を起し、
親鸞聖人(1173~1262)もこの書を『教行信証』
に引用され、本願寺派で今も依用されている
声明「五会念仏作法」のもとになっています。

 ところが問題は、この『巡礼行記』が本格的に
注目され始めたのは、やっと明治末期であった
ことです。日本文化のこの貴重な宝物の存在は
千年以上もの間、1~2の例外を除いては、ほと
んど気づかれなかったのです。

 しかし、さらに問題なのは、近ごろの日本人たち
が世界に誇るべき、日本のすぐれた宗教や
文化についての知識や関心をどんどん失いつつ
あることです。この悲しむべき傾向に歯止めを
かけ元にもどすには、一体どうすればよいので
しょうか。



 ところが上の三書に比べて、ある点では、さらに
すぐれた旅行記があります。それが我が国、
比叡山・天台宗の開祖・伝教大師最澄の弟子、
慈覚大師円仁(794~864)の『入唐求法巡礼行
記録』(4巻)です。

 円仁は45歳のとき、遣唐使の一行とともに唐に
わたり、折しも武宗治下(841~847)の廃仏毀釈
の嵐の中、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、
54歳で帰国します。『巡礼行記』はその十年間の
見聞録ですが、この書が『東方見聞録』など他の
三書と最も異なる点は、三書が旅の記憶をメモなど
をもとにしてまとめたものであるのに対し、まさしく、
円仁自身の旅行日記ともいうべきものだからです。

 だから、その体験の困難、見聞した風俗、文化・
政治経済情勢の描写をはじめ、中国の官憲と往復
した多数の文書もそのまま記録されるなど、
叙述は終始、まさに臨場感に溢れ、その内容は
他の三書のいずれと比べても精緻を極めています。


 マルコ・ポーロより少し遅れてアラブ人、
イブン・パットゥータ(1304~1377)は、
北アフリカのモロッコに生れ、22歳のとき、
メッカ巡礼の旅に出て以来30年間、
西アジア、中央アジア、インド、中国、
アフリカ、スペインなどを旅行。53歳のとき、
その体験の口述筆記が『三大陸周遊記』
として、まとめられました。

 東洋にも世界的に有名な旅行記があり
ます。それは『大唐西域記』(十二巻)です。
  すなわち上記の二人よりも600年以上も
前に中国の学僧・玄奘(602~664)は、
27歳のとき唐の都・長安を出発し、シルク
ロードの砂漠地帯を通ってインドに到り、
各地で仏教遺跡に参拝し、高僧に学び、
全部を漢訳すればおそらく数千巻分の
経典を携えて43歳で帰国します。『大唐
西域記』は、その旅行中の見聞を、帰国後
にまとめたものですが、この学術的価値は
極めて高く、『西域記』の研究によって、
長い間よくわからなかったインドの歴史や
地理、文化の多くが明らかになりました。

 19世紀の英国人考古学者アレキサンダー・
カニンガムは、この書をたよりにインド各地
を調査し、『インド古代地理』という名著を
刊行し、私たちが今に見る、インド各地の
仏蹟の所在を紹介してくれたのです。

 なお、猿の怪物・孫悟空らの活躍で有名な
『西遊記』は、中国・明の時代(1570年頃)、
『西域記』をもとにして作られた小説です。


 各地での見聞を記録した旅行記として世界
的に一番有名なのは、イタリア・ヴェニスの
商人、マルコ・ポーロ(1254~1324)の
『東方見聞録』でしょう。

  マルコは17歳のとき、父や叔父とともに陸路
によって中国に到り、元にクビライ帝(在位1260
~1294)に仕えて各地を旅行しました。
  41歳のとき、インドを経て回路帰国。その後、
ジェノバとの戦争で捕虜になり、その獄中で
旅行談を口述し、それを友人が筆録したのが
『見聞録』です。この中で日本が、「黄金の国
ジパング」として初めて西欧に紹介されたことは
有名です。

 なおクビライは、鎌倉幕府の北条時宗執権の
時代、二度にわたって来襲した元寇の時の帝王
です。

古本(5)

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 この版木は現在も保存されているそうです
から、その版本が巷間に出回っていることも
あり得ないことはないのですが、題紙に
「浄土真宗」とありますから、かねて一部の
学者が問題にしていたように、これはおそらく
我が国で作られた高麗本なのでしょう。

 一方、我が国でも、徳川時代に江戸の寛永寺
版と宇治の万福寺の黄檗版の二種の版本がある
中、高麗版の模倣本まで出回っていたことは、
昔の僧侶の、いかに多くが、学問に精励して
いたかを示すものと言えるのではないでしょうか。

 それにしても、このようなさまざまな歴史
的背景を有するこの『十住毘婆沙論』がそれ
こそ「生々流転」の末、私にまで届けられた
のです。

 不思議なご縁を感謝すると共に、親鸞聖人が

  たまたま行信を得ば、遠く宿縁を慶べ(『教行信証』総序)

と述べられたように、今、お念仏の教えに値
わせていただくことの幸せと共に、ここまで
お念仏を伝えてくださった方がたへの感謝を、
忘れてはならないと思います。


古本(4)

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 ところで、私が入手した『十住毘婆沙論』
の各冊の最後には、"癸卯歳、高麗国分司
大蔵都監奉勅彫造"と印刷されています。

 さて、経典のみならず、すべての書物は、
もとは手書き、つまり筆写でした。それが木版
によって一切経、大蔵経として、中国で印刷
されたのは、今から千年あまり前の宋の時代
の蜀版。

 ところがそれに依拠しながらその数十年後
に、朝鮮半島北部の高麗国で、外敵契丹兵を
やっつける祈願のために、新たに造られたの
が高麗再雕版で、"癸卯歳"は、たぶん1243年
のことと思われます。

 というのは、元が我が国へ来寇したのは
文永11年(1274)と弘安4年(1281)だから
です。


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