勤務の都合で自宅を離れ、一人宿舎に居る。夜中に激しい痛みに襲われる。じっと我慢している時、柄にも無くふと思い出したのが俳人・芭蕉の句でした。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
私は芭蕉のことは何一つ勉強したことはありません。だから、ただその句の感じから、多分これは芭蕉が、東北かどこかの秋の野辺に病んで詠んだのだろう。それにしても、私は建物の中に居る。柔かい寝具もある。何ほどか薬もある。彼の場合、唯一人、万目蕭寥たる荒野に伏しての感懐だろう。淋しさもさぞかしだっただろうと、漠然と考えていました。
ところが、つい先日乗った新幹線の中で手にとった車内雑誌『ひととき』11月号に、何とこの句の解説が出ていたのです。
それによると芭蕉が1694年、数え年51歳で死んだのは今の大阪市の南北を貫く最大のメインストリート御堂筋に面した東本願寺難波別院の前の辺りにあった花屋の貸座敷に泊っている間のことだというのです。緑地帯の植込みの中に、その碑まであるそうです。彼は2人の弟子が仲の悪いのを気にして、故郷の伊賀から来阪し、仲直りのために苦慮し、その心労が芭蕉をして死に至らしめたというのですが、何と芭蕉は上の句を、死の3日前に詠んでいるのです。
なお御堂筋の名は、数百メートル北に並び立つ西本願寺津村別院【通称北御堂】と共に、両院が面していることから、大幹線開通に当って名づけられたものだそうです。
でも当時、その辺り、今の難波別院など無かったんじゃないか。大阪も未だ「枯れ野」だったのではないかと一瞬思ったのですが、難波別院(敷地約5000坪)は1598年つまり芭蕉の死に先立つ約100年前に建立されている。従って芭蕉終焉の地は、当時、恐らくは賑かな門前町の一角だったのでしょう。

「東北の山野・・・」など、いい加減なことを考えていると、大恥をかくところでした。だから昔から
「生兵法(いい加減な武術)は怪我のもと」
などという諺もあるわけですね。
以上、腰痛軽微化の喜びと共に。
合掌


「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
私は芭蕉のことは何一つ勉強したことはありません。だから、ただその句の感じから、多分これは芭蕉が、東北かどこかの秋の野辺に病んで詠んだのだろう。それにしても、私は建物の中に居る。柔かい寝具もある。何ほどか薬もある。彼の場合、唯一人、万目蕭寥たる荒野に伏しての感懐だろう。淋しさもさぞかしだっただろうと、漠然と考えていました。
ところが、つい先日乗った新幹線の中で手にとった車内雑誌『ひととき』11月号に、何とこの句の解説が出ていたのです。
それによると芭蕉が1694年、数え年51歳で死んだのは今の大阪市の南北を貫く最大のメインストリート御堂筋に面した東本願寺難波別院の前の辺りにあった花屋の貸座敷に泊っている間のことだというのです。緑地帯の植込みの中に、その碑まであるそうです。彼は2人の弟子が仲の悪いのを気にして、故郷の伊賀から来阪し、仲直りのために苦慮し、その心労が芭蕉をして死に至らしめたというのですが、何と芭蕉は上の句を、死の3日前に詠んでいるのです。
なお御堂筋の名は、数百メートル北に並び立つ西本願寺津村別院【通称北御堂】と共に、両院が面していることから、大幹線開通に当って名づけられたものだそうです。
でも当時、その辺り、今の難波別院など無かったんじゃないか。大阪も未だ「枯れ野」だったのではないかと一瞬思ったのですが、難波別院(敷地約5000坪)は1598年つまり芭蕉の死に先立つ約100年前に建立されている。従って芭蕉終焉の地は、当時、恐らくは賑かな門前町の一角だったのでしょう。
「東北の山野・・・」など、いい加減なことを考えていると、大恥をかくところでした。だから昔から
「生兵法(いい加減な武術)は怪我のもと」
などという諺もあるわけですね。
以上、腰痛軽微化の喜びと共に。
合掌



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