ガム

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行為のほとんどは、自己のために行われる。行住坐臥だけではない。話すのも聴くのも、見るのも匂いを嗅ぐのも、手足を伸ばすのも身体を曲げるのも、意識すると否とを問わず、すべて目的があり、必要に応じて行うのである。

 ところが、人間は独りでいる時ばかりではない。一人きりのときは、起きようと寝ようと働こうと怠けようと、隣人が居ないのだから、他の人に迷惑をかけることは、まあ無い。(但し騒音や悪臭を放つと、時により苦情が寄せられるし、苦情は当然のことである。)
 中国の聖人、孔子(前551-前479)の教えは、義や礼など多方面にわたっているが、窮極のところ「仁」であろう。
 「仁」は「二人」と書く。私たちは常に他人(親子夫婦兄弟などを含めて、要する自分以外の人)を意識し、その人の迷惑にならぬよう、少しでも利楽を與えられるように心がけて行動する。要するにこれが「仁」なのである。
 これは社会的存在たる人間として配慮すべき最も基本的なことがらで、仏教でも常に「自利」すなわち自分が道を修めて佛になることと、「利他」すなわち、他の人にも幸せを与えること(その窮極は仏になってもらうこと)を目的としている。
 だから、特に大乗仏教の実践項目たる六波羅蜜(六つのことを徹底的に行うこと)の第一番目には「布施」ほどこし、つまり、他の人に親切にすることが挙げられている。第二項の「持戒」(ルールを守ること)第三の「忍辱」(耐え忍ぶこと)にしたところで、すべて「他」を前提としての行為と言うことが出来る。
 キリスト教だったかユダヤ教だったかにも「汝の敵を愛せよ」という教えがあると聞いているが、これも「敵」といえども、「他者」の不利益、不幸を願い行動してはならないという「人間社会の哲学」だと言えよう。
 人間社会の礼儀、作法、道徳すべては、「他者」との関係を基に考え出された、いわば皆なが幸せに、楽しく生きる為の智慧なのである。

 飛躍するようだが「飲食」も、それ自体はこれほど「自己的」な行為は無い。
 自分が飲み食いをした場合、隣の人も、前に居る人も、たとえ血肉を分けた親子兄弟であっても飢渇がいやされることはない。腹がふくれ、かわきがとまるのは、飲食をした、その当人だけである。
 だから、昔は人の中で独り飲食しない。勿論、歩きながらもいけない。車中など、もってのほかだった。しかし近頃は、比較的短距離運行の郊外電車でさえ、座席の下にパン屑らしいものが落ちていたり、窓際にコーヒーやジュースの空缶が放置されていたりする。飲食にはTPOが大切なのだ。
 但し、昔は汽車の前の席、隣の席に、見知らぬ人が坐っていても、網袋に5つ6つ入った蜜柑などを車窓から買って、「おひとつ如何ですか」と、賞味の楽しみを分かち合った。これが「自己的でないこと」即ち礼儀だったのである。会食はその大がかりなものにほかならない。
 但し、会食、宴会などには、もう少し深い意味が、もともとは、あったかも知れない。
 それは例えば、敵同士だった双方が、同じ樽の酒を飲み、同じ釜の飯を食う。これは極端に言えば、生死を共にする誓いの明かしだったとも言えるだろう。別々の樽や釜だったら、片方が相手を毒殺することだって可能だからである。

 ところで、今はそのような「自己的なこと」が満員の電車でも、それも大の男たちによって、堂々と、平気で、行われている場合がある。
 いつだったか、ある電車に乗った。可成り混んでいて、勿論、私も立っていたのだが、すぐ目の前の男が、なにかごそごそやっているなと思ったら、口を動かし始めた。「ガム」である。それも、グチャグチャと音をたてている。
 余りに不愉快だったので、露骨にならない程度に、車体の揺れを利用して、身体の向きを90度ほど変えた。ところがそこにも、背の高さも容貌も身なりも全く異るが、別の男性が、やはり「ガム」を噛んでいた。
 やれやれ、これでは身体の向きを変えたことが何にもならない。
 私はもう一度、トライすることにした。つまり、身体の向きを、更に90度、変えてみたのである。
 しかし、そこにも同じ「ガム」があった。
 ああ、万事休す。
 あまりの不愉快さ。そんな連中と同じ車内に居たくない。よし、次の停車駅で下車するか、他のドアーに移ろうと思っているうちに、電車が停り、ドッと乗客が降りて行った。
 私も出ようと思って、ふと気がつくと件の3人の姿が見えない。
 私は地獄で仏ではないにしても、何とか不快な無作法地獄を脱出することが出来た。
 政府も、この美しい日本が、これ以上、醜くならぬために、更に美しくなるために、いろいろ大切なことも多いだろうが、せめて、昔は必ず叫ばれた「公衆道徳」とか「公徳」とか言う言葉を流行らせることだけでも、やってもらったら、どうだろうか。

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