《祇園精舎》
ところで今から2500年前、お釈迦さまの頃、インドには、現在のパキスタン北部のガンダーラ地方から、南東はベンガル湾沿いにかけての広大な地域に、十六の国があったと伝えられています。
それらの中で、殊に繁栄していたのが、北部、ヒマラヤ山脈の南麓に近いコーサラ国と、インド最大の"母なるガンジス"と愛称されるガンジス川の下流域でベンガル湾に近いマガダ国でした。このころすでに、各国の首都の間を結ぶ交易路つまりキャラヴァン・ルートが開かれていて、中でもコーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)からは南東のヴァイシャーリーを経由し、このあたり東行するガンジス川を南に渡った先に位置するマガダ国都ラージャグリハ(王舎城)との間の交通は頻繁で、多数の牛馬や羊を伴った大旅団が往来していたと思われます。
そのような隊商で最も有名なのが、舎衛城のスダッタ(須達多・須達)長者でした。長者は非常な大金持でしたが、また大変憐れみの心の深い人で、貧しい人、困っている人びとに惜み無く施しをするので、アナータ・ピンダ・ダ(孤独な者に食を施す人、つまり給孤独)長者と呼ばれていました。
ある時、彼は例によって王舎城を訪れていたのですが、そこで人びとが篤く尊敬するお釈迦さまのことを聞き、自らもその御説法を聴聞し、感激して佛弟子の中に加りましたが、それだけは満足せず、自分の故郷の舎衛城にも、是非お釈迦さまにお越しいただきたいとお願いして、お許しを得ました。
さて須達長者は故郷に帰るや、早速お釈迦さまに寄進してお住いいただくためのお寺の用地を探しはじめました。
あちこち土地を探索した中で、最も理想的だと思われたのが、舎衛城のプラセーナジット(波斯匿:はしのく)王の子、ジェータ(祇多)太子が所有する林でした。
舎衛城は北側に、アチラヴァティーという大きな川を控え、それに添うような形で、半径1キロほどの半月形の土地に土塁を環らせた城塞で、その土塁は、2500年後の現在も残っています。この土塁つまり城壁には幾つかの門(出入口)があった訳ですが、その中の南西の門から500~600メートル南にあったのがジェータ王子の林です。それは南北500メートル、東西200メートルほどの長円形の地で、広さも充分ですし、何よりもいいのは大都から少し離れていて静かで木陰も多く、樹下の冥想など修行に適していること、それに毎朝の托鉢のため市街まで行くのに、余り遠すぎないこと、それから全体がなだらかな丘なので、7,8,9の3ヶ月間続く雨期にも、平地と違って水没する恐れの無い土地だったのです。須達長者は太子に、この林の譲渡を申し入れました。
しかし太子は、なかなか首を縦にふりません。それでも、"何とかして"との長者の熱意にほだされて"それでは、この土地に、黄金を敷き詰めてごらん。そうすれば、売ってあげましょう"と言いました。
須達長者は早速、金貨を牛車に積んで、それを林に敷き詰めはじめました。
これを見て誰よりも驚いたのは太子だったでしょう。そして思ったのは、長者がそんなにまでして土地、そしてそこに建設するお寺(精舎)を寄進しようとしているお釈迦さまというお方の偉大さでした。
ところで太子は、そのようなお釈迦さまにお寺を寄進する名誉を、長者の一人占めにさせたくない、自分もその光栄の一端にあずかりたいと思い、ちょっと変な理屈を考えて、長者に向って言いました。「黄金を敷き詰めた土地は、あなたのものです。しかしそこに生えている樹は私のものです。だから土地と樹とを、あなたと私と二人で、お釈迦さまに差し上げましょう」
給孤独長者は、別に精舎寄進の名誉を一人占めにしようなどとは考えてもいません。とも角も、お釈迦さまに精舎(お寺)に来ていただき、そこでみ教えを説いていただければよいのです。だから、すぐに太子に向って「オーケー」を出しました。
やがて、林が立派に整地され、建物も建って、お釈迦さまに来ていただきました。
そして、この林、精舎に関する話をお聞きになり、「それではここを、祇樹給孤独園(祇多太子の樹、給孤独長者の園=土地)と名づけよう」と言われ、この名が決定したそうです。この祇樹給孤独園を略し、これに「お寺」を意味する精舎の文字をつけ加えたのが「祗園精舎」という名称であります。
続く...→→
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