お釈迦さまは35才で悟りを開き、80才で亡くなられましたから、仏になられてから45回雨期を過されたことになります。
インドの大部分は夏の4、5、6月は日中40℃を超す暑さになりますが、冬期でも日本の秋ぐらいで、夜間の戸外も耐えられないほどの寒さではありませんか
ら、このような気候条件の下でお釈迦さまの時代、出家修行者は一所不住といって、雨期の3ヶ月以外は一定の所に住まず、旅から旅を重ねて、行く先ざきで教
えを説いてまわりました。夜は村はずれの巨樹の下などで、寝たのです。
しかし雨期には旅は困難です。
また、乾季の間、水分の不足で、かさかさに乾き、黄茶色になっていた土地から、草が芽を出し、やがて大地は緑色の生命をふき返します。それに伴って、それまで地面深くもぐっていた虫類なども、地上に姿を現します。
だから、雨期に旅をし、歩きまわると、それら生き物の生命を踏みつぶす恐れもあったのです。
こんなことから現在の暦でいうと7、8、9の雨期の3ヵ月間は、岩屋とか、樹下に造った簡単な小屋など一所に止住して、修行に専念する。これが出家修行者で行われ、これを「雨安居(うあんご)」と呼ぶようになりました。
ところで、お釈迦さまは、45回の雨季のうち、数ある精舎のなかで実に24回を祇樹給孤独園つまり祗園精舎でお過しになったそうです。祗園精舎は、それほどまでに、お釈迦さまに好まれた、いわば代表的なお寺だったと言えます。
また祗園精舎では、私たち浄土真宗や、法然聖人(1133~1212AD)によって最も大切な経典の一つとされる『仏説阿弥陀経』が説かれたと伝えら れ、経典の初頭には「如是我聞 一時仏在 舎衛国祇樹給孤独園」(是の如く我れ聞く、一時〈或る時〉佛〈お釈迦さま〉は舎衛国〈=城〉)祇樹給孤独園にま しまして......)とあります。
お釈迦さまが亡くなられて後も、祗園精舎は栄え、数百年にわたって沢山の僧院(僧侶が居住する建物)その他が建てられました。その後、城も精舎も次第に 衰微しましたが5世紀のはじめ頃、佛法を求めて、はるばる中国から法顕という僧侶がここを訪ねた時には、舎衛城には200戸ほどの民家があり、祇園精舎に 若干居住していた僧侶たちから、「中国からやって来た僧侶を見るのは初めてだ......」などと言って歓迎されたということが、法顕師自身のインド等の探訪旅行 記『仏国記』に記されています。しかし7世紀の前半(629~645AD、特に630年代中頃か?)に、中国の三蔵法師・玄奘がこの地を訪れた時には、舎 衛城にはまだ純朴な人びとが残り、農業を営んでいましたが、祗園精舎はすっかり廃れていたと、彼の旅行記『大唐西域記』に記されています。
<つづく>
しかし雨期には旅は困難です。
また、乾季の間、水分の不足で、かさかさに乾き、黄茶色になっていた土地から、草が芽を出し、やがて大地は緑色の生命をふき返します。それに伴って、それまで地面深くもぐっていた虫類なども、地上に姿を現します。
だから、雨期に旅をし、歩きまわると、それら生き物の生命を踏みつぶす恐れもあったのです。
こんなことから現在の暦でいうと7、8、9の雨期の3ヵ月間は、岩屋とか、樹下に造った簡単な小屋など一所に止住して、修行に専念する。これが出家修行者で行われ、これを「雨安居(うあんご)」と呼ぶようになりました。
ところで、お釈迦さまは、45回の雨季のうち、数ある精舎のなかで実に24回を祇樹給孤独園つまり祗園精舎でお過しになったそうです。祗園精舎は、それほどまでに、お釈迦さまに好まれた、いわば代表的なお寺だったと言えます。
また祗園精舎では、私たち浄土真宗や、法然聖人(1133~1212AD)によって最も大切な経典の一つとされる『仏説阿弥陀経』が説かれたと伝えら れ、経典の初頭には「如是我聞 一時仏在 舎衛国祇樹給孤独園」(是の如く我れ聞く、一時〈或る時〉佛〈お釈迦さま〉は舎衛国〈=城〉)祇樹給孤独園にま しまして......)とあります。
お釈迦さまが亡くなられて後も、祗園精舎は栄え、数百年にわたって沢山の僧院(僧侶が居住する建物)その他が建てられました。その後、城も精舎も次第に 衰微しましたが5世紀のはじめ頃、佛法を求めて、はるばる中国から法顕という僧侶がここを訪ねた時には、舎衛城には200戸ほどの民家があり、祇園精舎に 若干居住していた僧侶たちから、「中国からやって来た僧侶を見るのは初めてだ......」などと言って歓迎されたということが、法顕師自身のインド等の探訪旅行 記『仏国記』に記されています。しかし7世紀の前半(629~645AD、特に630年代中頃か?)に、中国の三蔵法師・玄奘がこの地を訪れた時には、舎 衛城にはまだ純朴な人びとが残り、農業を営んでいましたが、祗園精舎はすっかり廃れていたと、彼の旅行記『大唐西域記』に記されています。
<つづく>
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