《諸行無常》
ところで一体「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と『平家物語』で述べられた根拠は何なのでしょうか。
勿論、"諸行無常"ということは、源義朝が殺され、平清盛が抬頭、権力の座につく平治の乱(1159AD)から、「平家にあらずんば人にあらず」とまで権 勢を誇った平家一族が壇ノ浦で亡びる(1185AD)まで、僅か20数年にすぎず、「奢る平家は久しからず」の諺まであるほどですが、それはそれとして、 何故「祗園精舎の鐘」なのかということです。
ところで一体「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と『平家物語』で述べられた根拠は何なのでしょうか。
勿論、"諸行無常"ということは、源義朝が殺され、平清盛が抬頭、権力の座につく平治の乱(1159AD)から、「平家にあらずんば人にあらず」とまで権 勢を誇った平家一族が壇ノ浦で亡びる(1185AD)まで、僅か20数年にすぎず、「奢る平家は久しからず」の諺まであるほどですが、それはそれとして、 何故「祗園精舎の鐘」なのかということです。
そもそも『平家物語』が書かれたのは、13世紀前半、源実朝も暗殺されて、鎌倉幕府は執権の北條氏によって動かされていた時代。丁度親鸞聖人の関東時代とほぼ重なる頃と考えられていますが、それ以前から京の都の人々の心を奪っていたのは、貴族の棟梁として名高い藤原道長(966~1027AD)や『源氏物語』の作者、紫式部などと同時代の比叡山、横川の大学僧、源信和尚(恵心僧都)(942~1017AD)が43~44歳の頃に書いた『往生要集』3巻でした。
特にその第一章厭離穢土(けがれた世界を厭う)に於ける地獄の描写は人びとの心胆を寒からしめ、欣求浄土(第2章、佛の世界を欣【ねが】い求める)の思いを強くさせ、約200年後、特に法然、親鸞両聖人による念仏の盛況の遠因となった書物です。
さてその「厭離穢土」の章に、次のようなくだりがあります。
「あるいはまた『大経(大般涅槃経)』の偈にのたまはく、
"諸行は無常なり。これ生滅の法なり。生滅滅しをはりて、寂滅なるを楽とす"と。
("色は匂へど散りぬるを 我が世たれぞ常ならむ。有為【まよい】の奥山今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず"の「いろは歌」の原形)
祗園寺の無常堂の四隅に、頗黎(水晶)の鐘あり。鐘の音のなかに、またこの偈を説く。病僧は音を聞きて、苦悩すなはち除こりて、清浄の楽を得ること、三禅(仏のさとりに可成り近よった境地)に入り、浄土(仏の世界)に生れなんとするがごとし」
或いはまた、同書第3章「極楽証拠」には「祗園精舎の無常院には、病者をして西に面して仏(阿弥陀仏)の浄刹(浄らかな世界)に往く想ひをなさしめんや......」
などとあり、同書には他にも無常院のことを引用している部分があります。
『平家物語』の作者は、当時人口に脍炙したこの伝承を"盛者必衰のことわり"を説くに当って、まず取り上げたのでしょう。
ところで、このような「祗園精舎・無常院......諸行無常の鐘」という一連の描写ですが、源信和尚は、おそらくは次の書物に依られただろうと想像されます。
それは、中国、唐の時代の初期にきら星の如く出現した高僧・名僧・学僧の一人で南朝・梁の時代の高僧慧皎編の『高僧伝』につづき 、梁初より唐の貞観19年に至る約140年間に現れた高僧500人の伝記を集めた『続・高僧伝』の著者としても名高い道宣(596~667AD)が、その最晩年に関与したと伝えられる『祇園図経』(中天竺舎衛国祇洹寺図経)です。
この「経」は、我が徳川時代の中期、天和元年(1681AD)に京都府下の八幡宮として名高い「石清水神宮寺大乗律院」でその写経が発見され、大正から昭和の初期にかけて東京大学の髙楠順次郎博士らを中心に編纂された世紀の大事業『大正大蔵経』100巻(合計約10万頁)の第45巻P.882以下に収録されています。
それによると、「広大な精舎(境域)の西部に"無常院"と名づけられる一院があり、銀鐘が4、頗黎鐘(水晶の鐘)が4ある。病篤き僧侶は銀鐘を聞き、心静かに佛の国に生まれることが出来る。また頗黎鐘は、一々撞かなくても自ら鳴り"諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽"(色は匂へど散りぬるを、......)の佛語を説く。病の僧は音を聞き、苦しみを除かれて、清らかな楽(よろこび)を得て、浄土に生まれる......」と述べられています。
但し、道宣は祗園精舎の現状は良く知っていた筈なのです。
というのは、彼と同時代人の一人として、猿の怪物・孫悟空の師僧として有名な三蔵法師玄奘(602~664AD)が居ます。孫悟空の物語は後世、明の時代の1570年頃に成立した小説『西遊記』の出てくるのですが、その『西遊記』のもととなったのが玄奘三蔵のインド旅行記『大唐西域記』12巻で、これは玄奘の足かけ17年に及ぶ天竺求法大旅行(629~645AD)から帰って来た翌年、彼の語った見聞を弟子の弁機が編集したものです。
道宣はそれをよく知っており、『続・高僧伝』第4巻に収録している玄奘の伝記には『大唐西域記』の中の祗園精舎の荒廃した情景が、簡明に記述されています。
従って『祗園図経』が何によって書かれたのかは不明です。或いは道宣が眼蓋に画いた幻の祗園精舎の理想像だったのかも知れません。
特にその第一章厭離穢土(けがれた世界を厭う)に於ける地獄の描写は人びとの心胆を寒からしめ、欣求浄土(第2章、佛の世界を欣【ねが】い求める)の思いを強くさせ、約200年後、特に法然、親鸞両聖人による念仏の盛況の遠因となった書物です。
さてその「厭離穢土」の章に、次のようなくだりがあります。
「あるいはまた『大経(大般涅槃経)』の偈にのたまはく、
"諸行は無常なり。これ生滅の法なり。生滅滅しをはりて、寂滅なるを楽とす"と。
("色は匂へど散りぬるを 我が世たれぞ常ならむ。有為【まよい】の奥山今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず"の「いろは歌」の原形)
祗園寺の無常堂の四隅に、頗黎(水晶)の鐘あり。鐘の音のなかに、またこの偈を説く。病僧は音を聞きて、苦悩すなはち除こりて、清浄の楽を得ること、三禅(仏のさとりに可成り近よった境地)に入り、浄土(仏の世界)に生れなんとするがごとし」
或いはまた、同書第3章「極楽証拠」には「祗園精舎の無常院には、病者をして西に面して仏(阿弥陀仏)の浄刹(浄らかな世界)に往く想ひをなさしめんや......」
などとあり、同書には他にも無常院のことを引用している部分があります。
『平家物語』の作者は、当時人口に脍炙したこの伝承を"盛者必衰のことわり"を説くに当って、まず取り上げたのでしょう。
ところで、このような「祗園精舎・無常院......諸行無常の鐘」という一連の描写ですが、源信和尚は、おそらくは次の書物に依られただろうと想像されます。
それは、中国、唐の時代の初期にきら星の如く出現した高僧・名僧・学僧の一人で南朝・梁の時代の高僧慧皎編の『高僧伝』につづき 、梁初より唐の貞観19年に至る約140年間に現れた高僧500人の伝記を集めた『続・高僧伝』の著者としても名高い道宣(596~667AD)が、その最晩年に関与したと伝えられる『祇園図経』(中天竺舎衛国祇洹寺図経)です。
この「経」は、我が徳川時代の中期、天和元年(1681AD)に京都府下の八幡宮として名高い「石清水神宮寺大乗律院」でその写経が発見され、大正から昭和の初期にかけて東京大学の髙楠順次郎博士らを中心に編纂された世紀の大事業『大正大蔵経』100巻(合計約10万頁)の第45巻P.882以下に収録されています。
それによると、「広大な精舎(境域)の西部に"無常院"と名づけられる一院があり、銀鐘が4、頗黎鐘(水晶の鐘)が4ある。病篤き僧侶は銀鐘を聞き、心静かに佛の国に生まれることが出来る。また頗黎鐘は、一々撞かなくても自ら鳴り"諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽"(色は匂へど散りぬるを、......)の佛語を説く。病の僧は音を聞き、苦しみを除かれて、清らかな楽(よろこび)を得て、浄土に生まれる......」と述べられています。
但し、道宣は祗園精舎の現状は良く知っていた筈なのです。
というのは、彼と同時代人の一人として、猿の怪物・孫悟空の師僧として有名な三蔵法師玄奘(602~664AD)が居ます。孫悟空の物語は後世、明の時代の1570年頃に成立した小説『西遊記』の出てくるのですが、その『西遊記』のもととなったのが玄奘三蔵のインド旅行記『大唐西域記』12巻で、これは玄奘の足かけ17年に及ぶ天竺求法大旅行(629~645AD)から帰って来た翌年、彼の語った見聞を弟子の弁機が編集したものです。
道宣はそれをよく知っており、『続・高僧伝』第4巻に収録している玄奘の伝記には『大唐西域記』の中の祗園精舎の荒廃した情景が、簡明に記述されています。
従って『祗園図経』が何によって書かれたのかは不明です。或いは道宣が眼蓋に画いた幻の祗園精舎の理想像だったのかも知れません。
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