《 鐘 》
さて「鐘」ですが、中国では既に早く殷の時代の末期(紀元前11世紀)には、その原型というものがあった。
それは青銅製で総高20センチ、上半分が執手のようになっていて、下のふくらんだ部分を木槌で叩いたと考えられます。これを執鐘とも呼びます。
さて「鐘」ですが、中国では既に早く殷の時代の末期(紀元前11世紀)には、その原型というものがあった。
それは青銅製で総高20センチ、上半分が執手のようになっていて、下のふくらんだ部分を木槌で叩いたと考えられます。これを執鐘とも呼びます。
下って周の時代(10~8世紀BC)には総高が50センチほどになり、上部にはやはり執手が付き、本体には後世(現代まで)乳と呼ばれる小突起の列が見られるようになります。
ただしこれら比較的小型の鐘は編鐘といい、幅2~3メートルもある衣桁のような吊台に音階の順番に吊して楽を演奏したようです。これを編鐘といいます。
このような比較的小型の鐘が、何時頃から大きな鐘になったかは詳らかではありませんが、中国では遅くとも北魏時代(385~534AD)にはあったようですし、日本でも文武天皇時代(697~707AD)の鐘が現存最古で、天智天皇(662~671AD)時代に漏刻(水時計)がつくられて、広く時を告げるために「鐘鼓」が使用されたとの記録も『日本書記』に見えます。日本の文化の多くは朝鮮半島経由で大陸から伝っていますから高麗、新羅、百済などでは、それより早くから造られていたことでしょう。
なお、鐘は原則として青銅で造られますが、形の点でも中国式と朝鮮式と和様の三様式があり、それぞれ特徴があります。
ところでお寺の釣鐘ですが、淨らかな鐘、あるいは梵刹(寺院)の鐘という意味で梵鐘と呼ばれることが多く、その大きさから大鐘、鯨鐘、洪鐘などとも呼ばれます。
通常は口径が50~60センチ、高さが1メートル前後のものが多く、頂上に龍のデザインの吊手(龍頭)がついていて、それを鐘楼堂の天井の吊金具にかけ、口のすぐ上につくられている開敷蓮華にデザインされた撞座を、直径20~30センチ、長さ2メートル前後の桧材や棕梠の木(橦木)で撞きます。
撞く数は浄土真宗本願寺派では通常は10声で、前の音の響が小さくなってから次を撞き、最後の2声は続けて撞きます。
但し、宗派を問わず、大晦日の夜、「除夜の鐘」と称して108つ、撞くことが多いのですが、108は人間の心の中にある、欲とか瞋とか傲慢さとか、ねたみなど、108種類の煩悩を撞き浄め、すがすがしい心で新年を迎えたいとの願いの表現です。しかし、梵鐘を撞いたからといって、簡単に煩悩が清まるものではありませんね。
時刻としては、新年1月1日の午前零時から撞き始めるお寺もあれば、それまでに撞き終わるお寺もあります。
また、一般の方々にも開放すると我も我もと撞きに来られるので、この夜だけは希望者の数だけ撞いていただく、従って何百回と撞かれる場合もあります。
我が国での大鐘といえば、次の三寺の梵鐘が代表的でしょう。
①奈良 東大寺 口径271.0センチ 奈良時代製
②京都 方広寺 口径276.0センチ 慶長19年1614年製
③京都 知恩院 口径約280センチ
(高さ3.3メートル、おもさ70トン 寛永13年【1636年】製)
現在の技術をもってすれば、更に大きな梵鐘も製造可能のようです。
なお、本願寺が東西両派に分派せず、京都東郊の山科に所在していた頃、特に第8代蓮如上人の御晩年(1480~1499AD)に関する記録の中に"鐘のりゅうりゅうとひびく"という叙述があります。この時代にはまだ、後に述べる喚鐘は本願寺では用いられておりませんから、これは釣鐘のことで、この時代には既に大鐘が撞かれていたのでしょう。
本願寺はその後、第10代証如宗主の時代、天文2年(1533)に大阪・石山に移りますが、天文16年(1547)に京都・太秦の広隆寺から大鐘【永万元年(1165)鋳造】を代銀230貫文で購入。
本願寺は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで10年間に及ぶ織田信長との合戦の後、紀州・鷺の森(今の和歌山市)、和泉の貝塚、大阪の天満などを経て、天正19年(1591)京都の現在地に移ります。
慶長7年(1602)第12代准如宗主の時代、東本願寺が徳川家康の援助を得て分派し、西本願寺は元和3年(1617)の大火の後、境内地の整備等を一応終えた元和6年(1620)に、大阪・石山の大鐘も京都に移しました。
以降、大鐘(口径106.4センチ、龍頭を除く高さ158センチ、重さ1.8トン、重要文化財)は、境内の東南隅、国宝・飛雲閣のすぐ東側の塀際に建てられた鐘楼に吊されていましたが、平成8年(1996)、同型の大鐘が新鋳されて、これに代わりました。
もとの大鐘は現在、境内の一隅「参拝会館」の入口脇に展示されています。
鐘といえば、時鐘という言葉があります。
"時"の数え方は、古代インドは1日を6時に別けたようで、それは4時間おきに日没(午後4時)、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中となっていたようです。
中国や、それを受けた徳川時代までの日本では12時。真夜中の午前零時が子(ネ)、午前2時が丑、4時=寅、6時=卯、8時=辰、10時=未(ミ)、12時=午(ゴ)・・・・。午より前は午前、後だから午後です。
ところが遅くとも、唐の時代になって、この"時"を、首都長安の市民に知らせることが行われました。そのために街路の交点に高い土台の建物を造り、その上に楼閣を建て、そこに巨大な太鼓をつるして、人々に時を知らせたようです。今も市の南部に鼓楼が建っています。西安(昔の長安)の遙か西方、シルクロードの入口、敦煌に近く「酒泉」という町があり、そこにも鼓楼があったと記憶します。
太鼓をもって「時」を告げることは、我が国でも行われたようで、本願寺が京都の東郊・山科に在った頃には、鼓楼が2つあって、時を告げていたと記録されています。
そして、釣鐘はこれも「暁の鐘」とか「入り合いの鐘」などの言葉があるように、朝夕、撞かれていた、というよりも、午前・午後とも零時に9つ、2時に8つ、4時に7つ、6時に6つ、8時に5つ、10時に4つ撞いて、人々に時を知らせたようです。だから、「明けの6つ」(午前6時)とか、「暮れの6つ」(午後6時)などという言葉もありました。
なお、浄土真宗の寺々では、今でも正式には法要の1時間前に、但し、早朝の場合は30分前に鼓楼に吊った大太鼓で時を知らせ(打方は1打、打上・打下、打上・打下、2打の順)、それに続いて梵鐘を10打して、門信徒の参拝や僧侶の集合を促します。これを特に"集会鐘(しゅうえしょう)"と称します。
太鼓にしても梵鐘にしても、音響が出来るだけ遠くまで届くことが望ましいので、多くは境内の前面の両端(隅、角)に鐘楼と鼓楼を構えています。
また昔は、たとえば津波の襲来、火災の発生など緊急事態に当って、梵鐘をつづけさまに撞くことが行われました。この撞き方そのものが異常なので、これを聞いた人びとは緊急・異常事態の発生を知ったのです。この撞き方を"はや鐘"などとも言いました。
ただしこれら比較的小型の鐘は編鐘といい、幅2~3メートルもある衣桁のような吊台に音階の順番に吊して楽を演奏したようです。これを編鐘といいます。
このような比較的小型の鐘が、何時頃から大きな鐘になったかは詳らかではありませんが、中国では遅くとも北魏時代(385~534AD)にはあったようですし、日本でも文武天皇時代(697~707AD)の鐘が現存最古で、天智天皇(662~671AD)時代に漏刻(水時計)がつくられて、広く時を告げるために「鐘鼓」が使用されたとの記録も『日本書記』に見えます。日本の文化の多くは朝鮮半島経由で大陸から伝っていますから高麗、新羅、百済などでは、それより早くから造られていたことでしょう。
なお、鐘は原則として青銅で造られますが、形の点でも中国式と朝鮮式と和様の三様式があり、それぞれ特徴があります。
ところでお寺の釣鐘ですが、淨らかな鐘、あるいは梵刹(寺院)の鐘という意味で梵鐘と呼ばれることが多く、その大きさから大鐘、鯨鐘、洪鐘などとも呼ばれます。
通常は口径が50~60センチ、高さが1メートル前後のものが多く、頂上に龍のデザインの吊手(龍頭)がついていて、それを鐘楼堂の天井の吊金具にかけ、口のすぐ上につくられている開敷蓮華にデザインされた撞座を、直径20~30センチ、長さ2メートル前後の桧材や棕梠の木(橦木)で撞きます。
撞く数は浄土真宗本願寺派では通常は10声で、前の音の響が小さくなってから次を撞き、最後の2声は続けて撞きます。
但し、宗派を問わず、大晦日の夜、「除夜の鐘」と称して108つ、撞くことが多いのですが、108は人間の心の中にある、欲とか瞋とか傲慢さとか、ねたみなど、108種類の煩悩を撞き浄め、すがすがしい心で新年を迎えたいとの願いの表現です。しかし、梵鐘を撞いたからといって、簡単に煩悩が清まるものではありませんね。
時刻としては、新年1月1日の午前零時から撞き始めるお寺もあれば、それまでに撞き終わるお寺もあります。
また、一般の方々にも開放すると我も我もと撞きに来られるので、この夜だけは希望者の数だけ撞いていただく、従って何百回と撞かれる場合もあります。
我が国での大鐘といえば、次の三寺の梵鐘が代表的でしょう。
①奈良 東大寺 口径271.0センチ 奈良時代製
②京都 方広寺 口径276.0センチ 慶長19年1614年製
③京都 知恩院 口径約280センチ
(高さ3.3メートル、おもさ70トン 寛永13年【1636年】製)
現在の技術をもってすれば、更に大きな梵鐘も製造可能のようです。
なお、本願寺が東西両派に分派せず、京都東郊の山科に所在していた頃、特に第8代蓮如上人の御晩年(1480~1499AD)に関する記録の中に"鐘のりゅうりゅうとひびく"という叙述があります。この時代にはまだ、後に述べる喚鐘は本願寺では用いられておりませんから、これは釣鐘のことで、この時代には既に大鐘が撞かれていたのでしょう。
本願寺はその後、第10代証如宗主の時代、天文2年(1533)に大阪・石山に移りますが、天文16年(1547)に京都・太秦の広隆寺から大鐘【永万元年(1165)鋳造】を代銀230貫文で購入。
本願寺は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで10年間に及ぶ織田信長との合戦の後、紀州・鷺の森(今の和歌山市)、和泉の貝塚、大阪の天満などを経て、天正19年(1591)京都の現在地に移ります。
慶長7年(1602)第12代准如宗主の時代、東本願寺が徳川家康の援助を得て分派し、西本願寺は元和3年(1617)の大火の後、境内地の整備等を一応終えた元和6年(1620)に、大阪・石山の大鐘も京都に移しました。
以降、大鐘(口径106.4センチ、龍頭を除く高さ158センチ、重さ1.8トン、重要文化財)は、境内の東南隅、国宝・飛雲閣のすぐ東側の塀際に建てられた鐘楼に吊されていましたが、平成8年(1996)、同型の大鐘が新鋳されて、これに代わりました。
もとの大鐘は現在、境内の一隅「参拝会館」の入口脇に展示されています。
鐘といえば、時鐘という言葉があります。
"時"の数え方は、古代インドは1日を6時に別けたようで、それは4時間おきに日没(午後4時)、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中となっていたようです。
中国や、それを受けた徳川時代までの日本では12時。真夜中の午前零時が子(ネ)、午前2時が丑、4時=寅、6時=卯、8時=辰、10時=未(ミ)、12時=午(ゴ)・・・・。午より前は午前、後だから午後です。
ところが遅くとも、唐の時代になって、この"時"を、首都長安の市民に知らせることが行われました。そのために街路の交点に高い土台の建物を造り、その上に楼閣を建て、そこに巨大な太鼓をつるして、人々に時を知らせたようです。今も市の南部に鼓楼が建っています。西安(昔の長安)の遙か西方、シルクロードの入口、敦煌に近く「酒泉」という町があり、そこにも鼓楼があったと記憶します。
太鼓をもって「時」を告げることは、我が国でも行われたようで、本願寺が京都の東郊・山科に在った頃には、鼓楼が2つあって、時を告げていたと記録されています。
そして、釣鐘はこれも「暁の鐘」とか「入り合いの鐘」などの言葉があるように、朝夕、撞かれていた、というよりも、午前・午後とも零時に9つ、2時に8つ、4時に7つ、6時に6つ、8時に5つ、10時に4つ撞いて、人々に時を知らせたようです。だから、「明けの6つ」(午前6時)とか、「暮れの6つ」(午後6時)などという言葉もありました。
なお、浄土真宗の寺々では、今でも正式には法要の1時間前に、但し、早朝の場合は30分前に鼓楼に吊った大太鼓で時を知らせ(打方は1打、打上・打下、打上・打下、2打の順)、それに続いて梵鐘を10打して、門信徒の参拝や僧侶の集合を促します。これを特に"集会鐘(しゅうえしょう)"と称します。
太鼓にしても梵鐘にしても、音響が出来るだけ遠くまで届くことが望ましいので、多くは境内の前面の両端(隅、角)に鐘楼と鼓楼を構えています。
また昔は、たとえば津波の襲来、火災の発生など緊急事態に当って、梵鐘をつづけさまに撞くことが行われました。この撞き方そのものが異常なので、これを聞いた人びとは緊急・異常事態の発生を知ったのです。この撞き方を"はや鐘"などとも言いました。
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