本願寺はその第12代准如上人時代の元和3年(1617)、さきに発足した江戸幕府に対蹠して、浅草に別院を設置しました。
然るに40年後、江戸の街を焼き尽くしたと言われる明歴3年(1657)の大火によって焼失。復興の認可を求めた別院に対し、幕府は江戸城の東南約10キロの、隅田川の河口付近の地点に再建を認めました。
しかしその場所は陸地ではなく、海上の浅瀬だったのです。
然るに40年後、江戸の街を焼き尽くしたと言われる明歴3年(1657)の大火によって焼失。復興の認可を求めた別院に対し、幕府は江戸城の東南約10キロの、隅田川の河口付近の地点に再建を認めました。
しかしその場所は陸地ではなく、海上の浅瀬だったのです。
折しも漁業のために大阪からやって来て、そこから6~7キロ東の佃島に居住していた人びとは、もともと本願寺派の門徒でした。彼等は鍬や鋤を執り、持籠
(もつこ)をかついで実に1万数千坪(46,000平方メートル)を埋め立てて土地を築き、本願寺の新たな別院=築地別院が、そこに建てられました。築か
れた土地なので、ここを築地と言い、以来、昨平成20年(2008)で350年になるというので、秋にはその記念の法要が盛大にお勤めされました。
但しこの350年の間、築地本願寺は決して無事な年月を過したわけではありません。
火災を被ること数度、ほかに台風とそれに伴う高潮による倒壊などを経験し、遂には大正12年(1923)の関東大震災による火災によって別院は灰烬に帰 します。 大震災で火災の恐怖を痛感した行政当局はこれを機に抜本的な都市計画を行い、別院西側に新大橋通、境内を中央部で南北に分断する形で晴海通を建 設し、晴海通によって切離された南側の旧境内地に、これも日本橋付近で焼失していた市場を移設しました。これが現在、場外市場と通称されている、寿司屋な ども建ち並ぶ小売市場の地域で、その南に隣接して、場外に数倍する面積の、場内と呼ばれている卸市場があります。
さて、境内の面積が半減以下になるというので、他のもっと広い場所に移転という意見も出たようですが、佃島の御門徒の方々の御苦労を永く記念したいとの思いからでしょう、別院は元の境域の北半分、つまり現在の位置に復興されることになりました。
そして、シルクロード探険などで名高い大谷光瑞前門主(当時)の意向によって、世界各地の建築に詳しく、日本建築史の創始者とも言うべき東大教授伊東忠 太博士設計による、インド様式、鉄筋コンクリート造、正面総間口約86メートル、奥行き約56メートル、高さ33メートル、上層部の中央に483坪の本堂 を置く、建坪930坪、延坪1,961坪の大建築が、昭和6年(1931)に起工され、同9年夏に一応の完成を見たのです。
大屋根の中央に取り付けられている前後に長い上屋根や正面階段の真上の破風の菩提樹の葉を基本にしたデザインは、2000年前のインド石窟寺院に屡々見 られるものですし、境域を囲む3本の貫石等によってデザインされた玉垣は、これも2000年前の中インドの佛跡サーンチー第1塔の玉垣の形式に基いていま す。
なお去る大戦では幸いに米空軍の空襲を免れ、戦後になって本館の右と左、つまり南北に、それぞれ三層と重層の第一伝道会館、第二伝道会館が増築され、広く各種の目的に使用されています。
ところで、旧境内の南半分に在った58ヶ寺のうち数カ所は元の位置に再建されて現在も活動を続けておられますが、大多数の寺院は都内その他の各所に分散 し、墓地は府下和田堀町の、丁度払下げになった大蔵省所管、陸軍弾薬庫跡地の11,000余坪に移りました。これが現在の本願寺和田堀廟所で、ここに築地 本願寺の分院も建設され、只今のところ、数々の有名人のお墓も含めて約4,000基の墓碑があります。
先般、春の日もうららかな一日、この和田堀分院で「花祭り」(お釈迦さまの誕生日のお祝い)が行われ、満開の桜並木の下、数十人の稚児行列が出るなどで、私も出席しました。
さて、築地から車で2~30分。和田堀分院に到着し、本堂裏の控室に通って程無く、女子職員がお茶を運んできてくれました。
その時、ふと思ったのは、このお茶そのものの重さは、分量が100CCとして約100グラム、茶碗が約100グラム、塗りの茶卓が50グラムとすると、 合計約250グラム。それを重さ約250グラムのお盆にのせて事務所から運んでくれた彼女は、念のために訊ねてみたら、体重40キロ。お盆もふくめて 500グラム前後を運ぶのに40キロの体重が動いた。いや、本当に運びたかった、運ぶべきだったのは100グラムのお茶だったのです。この重さの対比は、 どうなのでしょう。
彼女はスリムですが、仮りに体重50キロの人が運んでくれるとしたら、正味100グラムのお茶のために、その500倍のエネルギーを使用することになります。
しかし、これを勿体無い、ロスだ、などとは言えない。私たちは、小さなことを成就するために、屡々その何十倍、何百倍のエネルギーを使う。これが世の中の仕組みの一つなのでしょう。
しかし若しも500倍のエネルギーを惜しんだら、それこそお茶の一杯も出さないという無作法になります。
同様な例は無数にあります。
例えば、愛する人に一目逢うために外国に赴き、異国からやって来る。
有名な『歎異抄』にもありますが、760~770年の昔、関東から、京都の親鸞聖人のもとへ、
「はるばる十余ヶ国のさかいを越えて(おそらく片道20日間ほどかけて)身命をかへりみずして訪ね来らしめたまふ」たのは、人々の聖人にお逢いして教えを請いたいという弟子達の一途な気持ちが、そうさせたのでしょう。
関東のお弟子たちは、多分、往復4~50日もかけて、生命がけでお目にかかりたいという気持ちと身体を運び、み教えを持ち帰ったのです。
あるいは、小さな骨壺に入った故人の遺骨を京都本願寺の大谷の祖廟に納めるために、北海道や九州の果から、家族そろって上洛する。
だが、これらの行為は、強さ重さや距離や時間、経費の問題ではありません。「心」の問題なのです。
このように、たった一つの目的を達成するために沢山の手段が費やされるのですが、その手段の中の一つが欠けても目標は達成できないかも知れませんし、一言の挨拶、数行の手紙が有るか無いかで、大きく異った結果が出て来ることも屡々です。
私は更に、こんなことも考えました。
①桜の盛りは多分、10日間前後だろう。その10日間の盛りが無かったら、一体だれが、桜、桜と、もてはやすだろうか。
だから、桜の365日は、僅か10日間のためにある。
②桜は1本の樹に、一体、どれほどの数の花を咲かせるのだろうか。
その無数の一輪一輪に雌蕊が1本と雄蕊が30本ほどあり、その一つ一つの雄蕊に沢山の花粉が詰まっている。
花粉は一粉ずつが生命の源泉だし、少くとも雌蕊一本は、次の一樹のもとになる。
1本の桜の樹は、毎年々々、一体どれほどの子孫に生命を分け、伝えようとしているのだろうか。
ただ、実際には、その何億分の一も目的を達していないだろうから、それこそ「棒ほど願って針ほど叶う」どころではない。
しかし、その次の世代の生命に関する努力を、今の日本人は、もっと学ぶ必要がある...。
③さて、その分院の境内の桜吹雪の中での花祭の稚児行列に参加した子供さんたち。 年齢は3歳、4歳、5歳ぐらいだろうか。
来年もまた、といかぬ場合は、これが一生にただ一度の稚児行列になる。
ところで、この子たちは、あと何年生きるのだろうか。もしも90年の寿命だとあと86~7年、100歳の生命だと、あと96~7年、生きつづけることになるが、
今日のこの稚児姿が、今後の彼等、彼女等に、どんな意味をもち、どんな影響をもたらすのだろうか。もしかしたら、限り無く楽しい、高価な一日になるかも知れない。何にしても「佛の子」たちの仕合わせを願わずに居れない一刻でした。
但しこの350年の間、築地本願寺は決して無事な年月を過したわけではありません。
火災を被ること数度、ほかに台風とそれに伴う高潮による倒壊などを経験し、遂には大正12年(1923)の関東大震災による火災によって別院は灰烬に帰 します。 大震災で火災の恐怖を痛感した行政当局はこれを機に抜本的な都市計画を行い、別院西側に新大橋通、境内を中央部で南北に分断する形で晴海通を建 設し、晴海通によって切離された南側の旧境内地に、これも日本橋付近で焼失していた市場を移設しました。これが現在、場外市場と通称されている、寿司屋な ども建ち並ぶ小売市場の地域で、その南に隣接して、場外に数倍する面積の、場内と呼ばれている卸市場があります。
さて、境内の面積が半減以下になるというので、他のもっと広い場所に移転という意見も出たようですが、佃島の御門徒の方々の御苦労を永く記念したいとの思いからでしょう、別院は元の境域の北半分、つまり現在の位置に復興されることになりました。
そして、シルクロード探険などで名高い大谷光瑞前門主(当時)の意向によって、世界各地の建築に詳しく、日本建築史の創始者とも言うべき東大教授伊東忠 太博士設計による、インド様式、鉄筋コンクリート造、正面総間口約86メートル、奥行き約56メートル、高さ33メートル、上層部の中央に483坪の本堂 を置く、建坪930坪、延坪1,961坪の大建築が、昭和6年(1931)に起工され、同9年夏に一応の完成を見たのです。
大屋根の中央に取り付けられている前後に長い上屋根や正面階段の真上の破風の菩提樹の葉を基本にしたデザインは、2000年前のインド石窟寺院に屡々見 られるものですし、境域を囲む3本の貫石等によってデザインされた玉垣は、これも2000年前の中インドの佛跡サーンチー第1塔の玉垣の形式に基いていま す。
なお去る大戦では幸いに米空軍の空襲を免れ、戦後になって本館の右と左、つまり南北に、それぞれ三層と重層の第一伝道会館、第二伝道会館が増築され、広く各種の目的に使用されています。
ところで、旧境内の南半分に在った58ヶ寺のうち数カ所は元の位置に再建されて現在も活動を続けておられますが、大多数の寺院は都内その他の各所に分散 し、墓地は府下和田堀町の、丁度払下げになった大蔵省所管、陸軍弾薬庫跡地の11,000余坪に移りました。これが現在の本願寺和田堀廟所で、ここに築地 本願寺の分院も建設され、只今のところ、数々の有名人のお墓も含めて約4,000基の墓碑があります。
先般、春の日もうららかな一日、この和田堀分院で「花祭り」(お釈迦さまの誕生日のお祝い)が行われ、満開の桜並木の下、数十人の稚児行列が出るなどで、私も出席しました。
さて、築地から車で2~30分。和田堀分院に到着し、本堂裏の控室に通って程無く、女子職員がお茶を運んできてくれました。
その時、ふと思ったのは、このお茶そのものの重さは、分量が100CCとして約100グラム、茶碗が約100グラム、塗りの茶卓が50グラムとすると、 合計約250グラム。それを重さ約250グラムのお盆にのせて事務所から運んでくれた彼女は、念のために訊ねてみたら、体重40キロ。お盆もふくめて 500グラム前後を運ぶのに40キロの体重が動いた。いや、本当に運びたかった、運ぶべきだったのは100グラムのお茶だったのです。この重さの対比は、 どうなのでしょう。
彼女はスリムですが、仮りに体重50キロの人が運んでくれるとしたら、正味100グラムのお茶のために、その500倍のエネルギーを使用することになります。
しかし、これを勿体無い、ロスだ、などとは言えない。私たちは、小さなことを成就するために、屡々その何十倍、何百倍のエネルギーを使う。これが世の中の仕組みの一つなのでしょう。
しかし若しも500倍のエネルギーを惜しんだら、それこそお茶の一杯も出さないという無作法になります。
同様な例は無数にあります。
例えば、愛する人に一目逢うために外国に赴き、異国からやって来る。
有名な『歎異抄』にもありますが、760~770年の昔、関東から、京都の親鸞聖人のもとへ、
「はるばる十余ヶ国のさかいを越えて(おそらく片道20日間ほどかけて)身命をかへりみずして訪ね来らしめたまふ」たのは、人々の聖人にお逢いして教えを請いたいという弟子達の一途な気持ちが、そうさせたのでしょう。
関東のお弟子たちは、多分、往復4~50日もかけて、生命がけでお目にかかりたいという気持ちと身体を運び、み教えを持ち帰ったのです。
あるいは、小さな骨壺に入った故人の遺骨を京都本願寺の大谷の祖廟に納めるために、北海道や九州の果から、家族そろって上洛する。
だが、これらの行為は、強さ重さや距離や時間、経費の問題ではありません。「心」の問題なのです。
このように、たった一つの目的を達成するために沢山の手段が費やされるのですが、その手段の中の一つが欠けても目標は達成できないかも知れませんし、一言の挨拶、数行の手紙が有るか無いかで、大きく異った結果が出て来ることも屡々です。
私は更に、こんなことも考えました。
①桜の盛りは多分、10日間前後だろう。その10日間の盛りが無かったら、一体だれが、桜、桜と、もてはやすだろうか。
だから、桜の365日は、僅か10日間のためにある。
②桜は1本の樹に、一体、どれほどの数の花を咲かせるのだろうか。
その無数の一輪一輪に雌蕊が1本と雄蕊が30本ほどあり、その一つ一つの雄蕊に沢山の花粉が詰まっている。
花粉は一粉ずつが生命の源泉だし、少くとも雌蕊一本は、次の一樹のもとになる。
1本の桜の樹は、毎年々々、一体どれほどの子孫に生命を分け、伝えようとしているのだろうか。
ただ、実際には、その何億分の一も目的を達していないだろうから、それこそ「棒ほど願って針ほど叶う」どころではない。
しかし、その次の世代の生命に関する努力を、今の日本人は、もっと学ぶ必要がある...。
③さて、その分院の境内の桜吹雪の中での花祭の稚児行列に参加した子供さんたち。 年齢は3歳、4歳、5歳ぐらいだろうか。
来年もまた、といかぬ場合は、これが一生にただ一度の稚児行列になる。
ところで、この子たちは、あと何年生きるのだろうか。もしも90年の寿命だとあと86~7年、100歳の生命だと、あと96~7年、生きつづけることになるが、
今日のこの稚児姿が、今後の彼等、彼女等に、どんな意味をもち、どんな影響をもたらすのだろうか。もしかしたら、限り無く楽しい、高価な一日になるかも知れない。何にしても「佛の子」たちの仕合わせを願わずに居れない一刻でした。
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