それと、もう一つ、こんな思い出があります。
もう30~40年も前のことでしょうか。
拙寺の門徒で頑固なまでの念仏者。柔輭講という念仏者の集いの講長でもあった亀田さんという畳店さんの御主人から「若さん、私とこも一幅、床間の懸軸を書いてもらえませんか」との御依頼がありました。一応承諾して、さて一生懸命書いたが、どうしても、うまく書けない。
あまり日数が経ってもと思い、詫びを言いながら、恐る恐る不満足な書を一枚わたしました。
おじいさんは言いました。
「若さん、あんたの言うことが気に入った。私は若い時からこれまで、何千枚畳を仕立てたか知れません。しかし正直言って、これは完璧と満足した畳は一枚もありません。
心を込めて仕事をすればする程、欠点が見えてくるものです。有難う、いただきます」といって持って帰り、立派な表具をして下さいました。
王羲之の"諦らめ"とはまた違って、件の畳屋のおじさんの言葉も、私の"諦らめ"に役立っています。
話は最後に大きく脱線しますが、"蘭亭序"が書かれた会稽山陰の蘭亭という所は、東シナ海に大きく口を開く杭州湾の奥の大都市(人口200万?)杭州市の南東約50キロ、チャンチュー(中国酒)の中でも殊に有名な紹興酒の産地として名高い紹興市の南西に位置します。そして紹興市は、灘五郷の一角を占め、日本盛、白鹿、大関、その他・数々の日本酒の名産地たる我が西宮市の姉妹都市になっているのです。
しかし娑婆の世は皮肉なもので、私は、書以上にアルコール類は全く駄目なのです。
【諦め】
中学校では、普通の学科ではなく、その他と言っては失礼ですが、1~2年生の間だけ学習の、図画、書道、音楽などを担当の先生方も居られました。
体操は1年生の時は、丸顔で、ロイド眼鏡をかけ、血色の良い、逞しい身体つきの、いかにも体操の先生といった岩田先生でした。しかし、私たちが2年生になった4月初めに応召され、その月のうちに戦死されたそうです。
1年生の途中に着任された山西先生は、どちらかと言えば浅黒い、精悍な、ちょっと白人のような顔だちで、昭和11年のベルリン・オリンピックに出場されたとか。ヒットラー・ユーゲント(青年団)の制服を着用して(それが先生の顔だちに、とても似合った)、講堂のステージから颯爽と着任の挨拶をされた時は、生徒一同、その格好良さに、うなったものです。
音楽の金建二先生は銀髪で金縁の眼鏡をかけ、どこかとぼけたところのある、ユーモラスな方でした。
しばらくご無沙汰したかも知れません。
実は昨年からのブログを1冊にまとめて出版したらということで、そちらに幾分、手をとられていたのです。書名は「説法師子吼」では余りにおこがましいので『(築地本願寺)輪番独語~築地本願寺輪番ブログより』といたしました。御覧いただければ幸甚です。
さて、世界全体が不景気だとか、不況は底をついたとか、いろいろ取り沙汰されていますが、先日もこんなニュースに接しました。
今や珍らしくなくなっていますが、熟年男性の孤独死です。ところが死後1~2ヶ月たって発見された時の所持金は、何と9円だったそうです。煙草1本さえ買えない。
いくら不景気でも、ここまで追いつめられ、また追いつめなくても、よかったのではないかと、何とも言いようのない気持になりました。
一方、印鑑1つに何十万円も支払える方もおられるのですね。一体どうなっているのでしょう。
それにしても、何時までたっても無くならないのが、人の悩みにつけこむ、インチキ宗教です。
ところで、インチキにひっかからないためには、せめて「宗教」についての基礎知識が必要ですね。
その基礎中の基礎は、何か1つの物を身につけたり、多少のお賽銭を供えたり、呪文をとなえたからといって、不幸が去ったり幸せがやってくるものではないということです。 宗教は「祈祷」や「まじない」ではなく、自分の心をどう保つかの問題なのです。
「理性の宗教」とも言われる佛教の、その根源である、お釈迦さまの教えに、まず耳をかたむけてください。書店には入門書もたくさん並んでいます。
さて、私をこの上なく可愛がってくれた祖父(昭和14年6月、脳溢血で急死)は、つねづね私に「お前はA中学かB中学、C高校(旧制)かD高校、E大学かF大学へ行くんだぞ」と言っていました。そしてA中学かB中学に入るためには、安井小学校が一番良かったのです。
しかし私の寺は校区外でした。ただ私の寺の門徒総代の1人が校区内の幼稚園のオーナー兼園長さんで、私は園長宅に"寄留"させてもらうことにして、いわゆる越境入学が出来ました。そしてそのおかげで私は、A中学、C高校、E大学に進むことが出来たのです。
作家の小松君も1年生の2学期中途に、すぐ隣の学区から越境入学、以後ずっと同じ学級、学校でした。
さて先生ですが、1~4年生間の校長は森本俊次先生、5~6年生の時は酒井藤一郎先生でした。校歌が作られたのは森本校長の時代だった筈です。入学式のあと、後に述べるような理由もあって、私が通っていた幼稚園の園長先生につれられて校長室に御挨拶に伺ったこと、それと、5~6年生のころ一度放課後、田んぼに向かって石の投げっこをしていて、たまたま側を通りかかったこの元校長先生に大声で叱られたことなどを思い出します。真面目一方らしかった酒井先生については、ガダルカナルの戦況を非常に心配されていたお顔が今も眼底に残っています。
5~6年生の時、それまでのクレパスから変って水彩画を教えてもらった図画の白川先生は大へん厳しい先生でした。後には可愛がってもらったが、最初の時間、私は、確か絵筆の忘れ物をし、片道1.5キロの道のりを家までとりに帰らされ、急いで教室に戻ってきたら授業時間はほとんど終わっていました。
雅楽は仏教音楽の一部門として、奈良時代に中国から伝えられ、宮中や神事にも用いられました。通常、笙、篳篥、龍笛(横笛)の三管と、楽太鼓、羯鼓、鉦鼓、の三鼓が用いられますが、琴などが加わることもあります。
以下、簡単にこれらの楽器を説明しましょう。
笙(しょう)は頭(口径11~12センチ、深さが6センチほどの、金具で包んだ木製椀型の壷)の周縁に、太さ1センチ弱で最長約40センチ、最短13センチほどの竹管17本を立て、頭の横についている吹口から吹いたり吸ったりして鳴らす楽器です。優雅な音がし、単独でも演奏されますが、横笛や篳篥の伴奏的な役割を果たすことが多いようです。
篳篥(ひちりき)は直径が約1.5センチ、長さが18センチほどの竹管の表に7つの穴を開け、竹管の一方の端に蘆の葉を折り畳んで作った長さ4センチほどの舌を着けて吹きます。
音は強く、雅楽演奏の主旋律の役目を果たしているようです。
なお、この盧舌には、大阪府と京都府のの境目に近い、あの秀吉と明智との天下分け目の合戦で名高い天王山の下、大山崎付近(琵琶湖からの宇治川、嵐山から流れ下り京都の南で加茂川を吸収した桂川、奈良方面からやってくる木津川の合流点)で成立する淀川の河原で自生している蘆が最上質とされ、これを使って手製する巧手がいます。
龍笛は牛若丸が京都、加茂川にかかる五條大橋で武蔵坊弁慶に出逢ったときに吹いていた、いわゆる横笛です。太さ2~2.5センチ、長さ約40センチの竹管で、ピーという高い音がでます。
楽太鼓は通常、直径が50~60センチ、厚味は30センチ前後の太鼓で、巨木を輪切りにしてくりぬいた胴の周囲は金地に極彩色が施され、皮の部分も飛天や槍巴などの図柄で極彩色されています。
上と下左右の3ヶ所に環があり、紐で外側の黒漆塗りの木枠に結びつけられいます。枠の外側左右の環には夫ぞれ桴がひっかけられてあり、打つと柔らかい音が鳴ります。
丸い木枠には脚部がついていますし、頂部には細かい毛彫りを施した火焔型の薄い飾り金具がついていて、その頂点の高さは通常140~150センチでしょう。
鉦鼓は直径20~30センチ、やや部厚い、お盆のような型の銅製の楽器で、やはり美しく装飾された台に吊され、お盆の内側を、柄の長さ40~50センチの細長い竹製の、先が直径3~4センチの象牙製の固い桴で、叩きます。
"チン"よりもむしろ"カチッ に近い音が出ます。
羯鼓とは、いわゆる鼓(つづみ)のことで、細くしぼられた胴が金地に美しく極彩色されており、黒漆塗りの低い台の上に置き、二本の木鉢で左右両面を叩きます。
上記の鐃、鈸や、三鼓、殊に三管は、どの寺院にも常備されている訳ではありません。特に三管は演奏者(奏楽員とも伶人とも呼ぶ)自身が携帯するものです。
なお、三管は多数の奏楽員によって演奏されますが、どんな場合にも三鼓は各々一鼓を用い、たとえば楽太鼓2鼓とか、羯鼓や鉦鼓が2鼓づつということはありません。
寺院用の楽器としては、木魚や鰐口などを用いる宗派もありますが、浄土真宗では使用していません。
浄土真宗(本願寺派)で依用する鳴物に、鐃と鈸があります(同じ楽器でも宗派によって呼び方が異なるようですので、御注意ください)。
鐃は銅を主体とした金属製で、直径40センチ前後、縁が直角に立上がってお盆のような形をしています。縁に開けた2つの穴に通した紐で吊して左手で胸の前に保持し、先が白く鞣した牛皮で包んだ球形で、長さ20センチそこそこの漆塗りの柄のついた桴で鐃の外側(お盆で言えば裏側)を叩きます(一般には、船の出発の合図などに使われた銅鑼(ドラ)のことです)。ジャーンという音がし、1打、2打はしますが、連打、打上、打下などはしません。
鐃と一組で用いられるのが鈸で、鈸は2枚一組の、一種のシンバルです。
直径40センチほどの円盤形。但し、中央部分が直径の半分ほど半球型に10センチほど盛り上がり、まるで鍔つきの帽子のようです、その半球型の頂点に小穴を開け、紐を通し、球型の外側に更にその紐を直径5~6センチの円型の止め木の中央の穴に通して、ゆるやかに着けられています。その止め木と鈸の頭との間の紐を指の股ではさんで、左右同じように胸の中で保持して、円い鍔を合わせるように、常に鐃と組合わせて、鐃、鈸、鐃と打ち鳴らします。
鈸の打ち方には上(じょう)と邪々(じゃじゃ)とがありますが、詳しいことは、別の機会に譲りましょう。
久しぶりに、読む途中で何度か涙が出た本があります。漫才師の島田洋七さんが、西本願寺の月刊誌『大乗』に連載していたお話を一冊にまとめて、このほど出版される『がばいばあちゃん お寺へ行こう』(2009年6月25日出版)がそれです。
活字も大きいし、116ページほどで、1~2時間もあれば読めます。(定価735円)
私は、翌日、早速、本願寺出版社へ数十部申し込みました。毎朝、私の寺に参詣してくる熱心な門徒さんたちにプレゼントするためです。
皆さんも、是非どうぞ。
本堂の余間(内陣の左右の間)や外陣で用いられる大型の太鼓を、本願寺派では経太鼓と呼んでいます。
太鼓の口径は通常は40~50センチ、勿論、70~80センチの大型もありますが、重くて移動には不便ですし、あまりに大きいと、坐ったままでは叩きにくくなります。なお直径は同じでも、胴の張り具合や厚味(奥行)の大小があり、千差万別です。
胴は朱や黒漆塗り、その上に、たとえば双龍、散蓮弁などの装飾文様を金泥で画いたり、総金箔押しで、そこに極彩色の図柄を画くこともあります。
表裏の皮の部分も金箔地に飛天(天人)や剣巴の文様を極彩色で画きます。
朱塗の台の上に乗せられ、長さ1尺前後で、やはり朱塗、または黒塗で、先に直径7~8センチの球型の、白い鞣し皮で包んだ桴で叩きます。
叩くのは一方の面だけに決めておきましょう。必ず色彩や金箔が剥がれ落ちるので、片面だけでも長く美しく保ちたいからです。
口径70~80センチ、奥行1メートルぐらいのものから更に大型のものまであり、欅などの巨木を輪切りにしてそれをくり抜き、穴の前後に鞣した牛皮を張ったもので、木目の美しさを尊重し、朱や黒の漆の上塗りはしません。
寺院の境内地の平面が方型に近ければ、山門をはさんで前辺の左右の端に、一方は鐘楼、他方には鼓楼(通常は重層、西本願寺境内地の東北隅の鼓楼は三層)を設け、その上層の天井に吊します。
鼓楼の外面は白壁塗りで、鼓音が少しでも広く遠くまで届くように、四面に火灯窓(上辺の中央が焔の先のように尖った形の窓)を設けることが多いようです。平常は木製の窓は閉めてあり、打鼓に当って開放します。
大太鼓は前述(釣鐘の項参照)のように、古くは都市などで時を報せるために用いられましたが、寺院でも法要開始の1時間(晨朝勤行の場合は30分)前に、まず大太鼓を叩いて時を報じ、引つづいて梵鐘(集会鐘)を撞き、出勤者や参拝者に集会を促します。
大太鼓は直径5~6センチ、長さ4~50センチの木棒を用い、1打、打上げ、打下し、打上げ、打下し、2打を打ちます。
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