本堂の余間(内陣の左右の間)や外陣で用いられる大型の太鼓を、本願寺派では経太鼓と呼んでいます。
太鼓の口径は通常は40~50センチ、勿論、70~80センチの大型もありますが、重くて移動には不便ですし、あまりに大きいと、坐ったままでは叩きにくくなります。なお直径は同じでも、胴の張り具合や厚味(奥行)の大小があり、千差万別です。
胴は朱や黒漆塗り、その上に、たとえば双龍、散蓮弁などの装飾文様を金泥で画いたり、総金箔押しで、そこに極彩色の図柄を画くこともあります。
表裏の皮の部分も金箔地に飛天(天人)や剣巴の文様を極彩色で画きます。
朱塗の台の上に乗せられ、長さ1尺前後で、やはり朱塗、または黒塗で、先に直径7~8センチの球型の、白い鞣し皮で包んだ桴で叩きます。
叩くのは一方の面だけに決めておきましょう。必ず色彩や金箔が剥がれ落ちるので、片面だけでも長く美しく保ちたいからです。
太鼓の口径は通常は40~50センチ、勿論、70~80センチの大型もありますが、重くて移動には不便ですし、あまりに大きいと、坐ったままでは叩きにくくなります。なお直径は同じでも、胴の張り具合や厚味(奥行)の大小があり、千差万別です。
胴は朱や黒漆塗り、その上に、たとえば双龍、散蓮弁などの装飾文様を金泥で画いたり、総金箔押しで、そこに極彩色の図柄を画くこともあります。
表裏の皮の部分も金箔地に飛天(天人)や剣巴の文様を極彩色で画きます。
朱塗の台の上に乗せられ、長さ1尺前後で、やはり朱塗、または黒塗で、先に直径7~8センチの球型の、白い鞣し皮で包んだ桴で叩きます。
叩くのは一方の面だけに決めておきましょう。必ず色彩や金箔が剥がれ落ちるので、片面だけでも長く美しく保ちたいからです。
本願寺第17世法如上人の時代、宝暦11年(1761)、3月18日から28日まで10昼夜にわたって勤められた、親鸞聖人500回大遠忌法要には、外
陣だけで21畳×21畳、合計441畳敷プラス余間、三之間の御影堂が、地方から上山、出勤の僧侶(恐らく3,000人以上)で満堂になり、一般参詣の門
信徒は堂内には入れなかったと記録されています。
これだけの僧侶が読経するのですから、従来のように浄土三部経4巻全部を日中法要(午前の法要)一座で読誦するためには相当速く読誦しても時間もかか る。読経も揃はないということで、1巻ずつ、あるいはその中に含まれている、又は他の箇所にある偈頌(詩)の部分だけを取り出し、その前後に他の聖教、聖 句をちりばめて読誦するなどの大改革が行われました。しかし何しろ3,000人が一緒におつとめするのですから、聲を揃えることは至難です。
そこで、読誦に際して、漢文の意味に従って4字あるいは3字5字6字などに区切られる箇所で節柝(音木、拍子木)を打つことによって全員が声を揃えて経 典を読誦することが初めて行われました。これを撃柝法と言い、以後、一般寺院でも、複数の僧侶が読経する場合、節柝を用いるようになりました。
なお、節柝の節とは経文の4字、5字などの句切のこと、柝とは拍子木(芝居小屋や紙芝居などで用いる)のこと、大きさは長さが20~30センチ、四面がそれぞれややふくらんだ、太さ3~5センチぐらいのものが多く、紫檀か黒檀製です。
おそらくはこの撃柝法の導入と同時か、あるいはその前後かと思われますが、経太鼓が導入されました。
そもそも無量寿経上下2巻は、おのおのが約10,000字の漢字で構成されています。観無量寿経でさえ8,000字弱です。
したがって、これを読誦する場合は一気に読み通すのではなく、説相の段落などに順じて、各々5段、4段などに区切って読誦されていたようです。しかし、その段落(節)の取り方は時代により、また地方によっても、必ずしも一定していなかったでしょう。
そこで、何百人という大勢の僧侶に対し、折々の法要に当り、段落を示す必要があります。それは法要開始に先立って、法式の係員(会係)が説明した筈ですが、猶、念を入れて、ここで段落なのだと示すために、太鼓を用いたのです。
また太鼓は、無量寿経のはじめの方に、佛が"扣法鼓 吹法螺 執法剣......"されたとあり、太鼓を叩くことは、正に扣法鼓に相当します。
それで、例えば無量寿経上巻を5段に分けるとして、前の4段のそれぞれ中程に1打し、次第に打鼓の間隔を縮めて、その節の終りで打下すことが行われました。なお、各経巻の最後の節は一々示す必要がないので、太鼓は打たなかったようです。
これだけの僧侶が読経するのですから、従来のように浄土三部経4巻全部を日中法要(午前の法要)一座で読誦するためには相当速く読誦しても時間もかか る。読経も揃はないということで、1巻ずつ、あるいはその中に含まれている、又は他の箇所にある偈頌(詩)の部分だけを取り出し、その前後に他の聖教、聖 句をちりばめて読誦するなどの大改革が行われました。しかし何しろ3,000人が一緒におつとめするのですから、聲を揃えることは至難です。
そこで、読誦に際して、漢文の意味に従って4字あるいは3字5字6字などに区切られる箇所で節柝(音木、拍子木)を打つことによって全員が声を揃えて経 典を読誦することが初めて行われました。これを撃柝法と言い、以後、一般寺院でも、複数の僧侶が読経する場合、節柝を用いるようになりました。
なお、節柝の節とは経文の4字、5字などの句切のこと、柝とは拍子木(芝居小屋や紙芝居などで用いる)のこと、大きさは長さが20~30センチ、四面がそれぞれややふくらんだ、太さ3~5センチぐらいのものが多く、紫檀か黒檀製です。
おそらくはこの撃柝法の導入と同時か、あるいはその前後かと思われますが、経太鼓が導入されました。
そもそも無量寿経上下2巻は、おのおのが約10,000字の漢字で構成されています。観無量寿経でさえ8,000字弱です。
したがって、これを読誦する場合は一気に読み通すのではなく、説相の段落などに順じて、各々5段、4段などに区切って読誦されていたようです。しかし、その段落(節)の取り方は時代により、また地方によっても、必ずしも一定していなかったでしょう。
そこで、何百人という大勢の僧侶に対し、折々の法要に当り、段落を示す必要があります。それは法要開始に先立って、法式の係員(会係)が説明した筈ですが、猶、念を入れて、ここで段落なのだと示すために、太鼓を用いたのです。
また太鼓は、無量寿経のはじめの方に、佛が"扣法鼓 吹法螺 執法剣......"されたとあり、太鼓を叩くことは、正に扣法鼓に相当します。
それで、例えば無量寿経上巻を5段に分けるとして、前の4段のそれぞれ中程に1打し、次第に打鼓の間隔を縮めて、その節の終りで打下すことが行われました。なお、各経巻の最後の節は一々示す必要がないので、太鼓は打たなかったようです。
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