さて先生ですが、1~4年生間の校長は森本俊次先生、5~6年生の時は酒井藤一郎先生でした。校歌が作られたのは森本校長の時代だった筈です。入学式のあと、後に述べるような理由もあって、私が通っていた幼稚園の園長先生につれられて校長室に御挨拶に伺ったこと、それと、5~6年生のころ一度放課後、田んぼに向かって石の投げっこをしていて、たまたま側を通りかかったこの元校長先生に大声で叱られたことなどを思い出します。真面目一方らしかった酒井先生については、ガダルカナルの戦況を非常に心配されていたお顔が今も眼底に残っています。
5~6年生の時、それまでのクレパスから変って水彩画を教えてもらった図画の白川先生は大へん厳しい先生でした。後には可愛がってもらったが、最初の時間、私は、確か絵筆の忘れ物をし、片道1.5キロの道のりを家までとりに帰らされ、急いで教室に戻ってきたら授業時間はほとんど終わっていました。
5~6年生の時、それまでのクレパスから変って水彩画を教えてもらった図画の白川先生は大へん厳しい先生でした。後には可愛がってもらったが、最初の時間、私は、確か絵筆の忘れ物をし、片道1.5キロの道のりを家までとりに帰らされ、急いで教室に戻ってきたら授業時間はほとんど終わっていました。
先生は少しヒステリックなところがあり、ある時、何かで腹を立て、長さ70~80センチの籐の鞭で、そこらじゅうの生徒の机を叩きまわった。そのうちに
過って、一人の頭を叩いてしまった。みるみる頭に長い瘤が出来て赤くはれ上がり、件の生徒はわあわあ大泣き。先生は"ごめん、ごめん"とあやまっておられ
たましたが、後で特に大問題となることもなかったと思います。そんな時代でした。
4~6年生の時に教わった音楽の鎌田先生は当時未だ少なかった縁無しの眼鏡をかけた何かにつけてハイカラな先生でした。戦後には大阪音大の教授になったり、毎秋催されるようになった市の文化祭の音楽部門のオーガナイザーも、可成り長く担当されていたと思います。
5~6年生のころは、男女数名を選抜して、JOBK(今のNHK大阪)の児童番組に出演させたり、当時一早く音感教育を重視し、歌唱以上に、ハホト、ハヘイ、ロニト......など、和音の訓練を行ったりされました。
私は幸い音感の成績が良かったので、ピアノの練習に来いと何度もお誘いをいただきながら、遊びたい盛りだったのと、時どきお寺の法務(お参り)があったのとで、ついに先生のお言葉に添えなかったのが、今も悔まれます。
私たちを4年生から5、6年生までの3年間担任して下さったのが本下(もとした)虎夫先生。たしか私達が5年生の頃から木山淳一編"木山の模範算術(× 年生用)"という200ページぐらいの問題集を中等学校受験予定の全員に持たせ、他にも折々に、"模範算術"という300ページぐらいの問題集と"新式算 術"という、これは難問ばかりを集めた問題集から抜粋した宿題を、私たちに課せられたのです。
そして毎週木曜日の放課後、午後3時から、先生に指命されたものが4人ぐらいづつ1組で家で勉強してきたノートを持って、前の黒板に並んで解答式を書く。それを先生の指導で、皆で検討して行く。終れば、板書を消して次の4人です。毎回3組ぐらいやったと思います。
家で勉強したノートが無いと黒板の前で立往生することになります。嫌でもやって来なければなりません。そんな調子で、5~6年生の期間が過ぎたように思います。冬など学校を出る時、あたりが薄暗かったこともありました。
しかし先生は、こんな訓練を誰からも依頼も強制もされたのではなかった。男女4クラスのうち、これは私たちのクラスだけのことだったと思います。
4~6年生の時に教わった音楽の鎌田先生は当時未だ少なかった縁無しの眼鏡をかけた何かにつけてハイカラな先生でした。戦後には大阪音大の教授になったり、毎秋催されるようになった市の文化祭の音楽部門のオーガナイザーも、可成り長く担当されていたと思います。
5~6年生のころは、男女数名を選抜して、JOBK(今のNHK大阪)の児童番組に出演させたり、当時一早く音感教育を重視し、歌唱以上に、ハホト、ハヘイ、ロニト......など、和音の訓練を行ったりされました。
私は幸い音感の成績が良かったので、ピアノの練習に来いと何度もお誘いをいただきながら、遊びたい盛りだったのと、時どきお寺の法務(お参り)があったのとで、ついに先生のお言葉に添えなかったのが、今も悔まれます。
私たちを4年生から5、6年生までの3年間担任して下さったのが本下(もとした)虎夫先生。たしか私達が5年生の頃から木山淳一編"木山の模範算術(× 年生用)"という200ページぐらいの問題集を中等学校受験予定の全員に持たせ、他にも折々に、"模範算術"という300ページぐらいの問題集と"新式算 術"という、これは難問ばかりを集めた問題集から抜粋した宿題を、私たちに課せられたのです。
そして毎週木曜日の放課後、午後3時から、先生に指命されたものが4人ぐらいづつ1組で家で勉強してきたノートを持って、前の黒板に並んで解答式を書く。それを先生の指導で、皆で検討して行く。終れば、板書を消して次の4人です。毎回3組ぐらいやったと思います。
家で勉強したノートが無いと黒板の前で立往生することになります。嫌でもやって来なければなりません。そんな調子で、5~6年生の期間が過ぎたように思います。冬など学校を出る時、あたりが薄暗かったこともありました。
しかし先生は、こんな訓練を誰からも依頼も強制もされたのではなかった。男女4クラスのうち、これは私たちのクラスだけのことだったと思います。
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