【諦め】
中学校では、普通の学科ではなく、その他と言っては失礼ですが、1~2年生の間だけ学習の、図画、書道、音楽などを担当の先生方も居られました。
体操は1年生の時は、丸顔で、ロイド眼鏡をかけ、血色の良い、逞しい身体つきの、いかにも体操の先生といった岩田先生でした。しかし、私たちが2年生になった4月初めに応召され、その月のうちに戦死されたそうです。
1年生の途中に着任された山西先生は、どちらかと言えば浅黒い、精悍な、ちょっと白人のような顔だちで、昭和11年のベルリン・オリンピックに出場されたとか。ヒットラー・ユーゲント(青年団)の制服を着用して(それが先生の顔だちに、とても似合った)、講堂のステージから颯爽と着任の挨拶をされた時は、生徒一同、その格好良さに、うなったものです。
音楽の金建二先生は銀髪で金縁の眼鏡をかけ、どこかとぼけたところのある、ユーモラスな方でした。
中学校では、普通の学科ではなく、その他と言っては失礼ですが、1~2年生の間だけ学習の、図画、書道、音楽などを担当の先生方も居られました。
体操は1年生の時は、丸顔で、ロイド眼鏡をかけ、血色の良い、逞しい身体つきの、いかにも体操の先生といった岩田先生でした。しかし、私たちが2年生になった4月初めに応召され、その月のうちに戦死されたそうです。
1年生の途中に着任された山西先生は、どちらかと言えば浅黒い、精悍な、ちょっと白人のような顔だちで、昭和11年のベルリン・オリンピックに出場されたとか。ヒットラー・ユーゲント(青年団)の制服を着用して(それが先生の顔だちに、とても似合った)、講堂のステージから颯爽と着任の挨拶をされた時は、生徒一同、その格好良さに、うなったものです。
音楽の金建二先生は銀髪で金縁の眼鏡をかけ、どこかとぼけたところのある、ユーモラスな方でした。
音楽の授業は何時もグランドピアノが置いてある講堂での2クラス合併授業(合計110人ほど)でしたが、訓練に土曜日曜の休みが無いことを歌った海軍々歌
「月月火水木金金」を教わった時、いたずら盛りの私たちは、"月月火水木金金"というところで、床を踏み鳴らしながら、"金金"と声を張り上げました。先
生は、私たちのいたずら心が先刻わかっていながら、「どうして君たちは、金金のところで、そんなに大きな声を出すんだね」などと、まじめな顔をして、お
しゃっていました。
図画は小笠原先生。穏やかな先生で、顔に深い皺がたくさんあったので渾名は"臍"。
さて、書道の先生ですが、小柄で、やはり金縁の眼鏡をかけ、ちょっと悪戯っぽいところのある先生でした。先生の一言で、それが渾名になってしまった級友 が私の知る限りでも、2人は居ます。お名前は来田喜八郎。だけど私たちの間では『東海道中膝栗毛』の片方の主人公の名前"喜多八"で通っていました。
さて、その喜多八先生。雅号は掃雲。筆太で丸味を帯びた行書が甚だ雄渾。学校中の各所の掲示は総て先生の御揮毫だったと思います。
先生は、1年生の最初の授業の時「書には楷書のほかに、行、草、篆、隷などの書体がある。君たちは小学校で、その中で最も基本的な楷書を勉強したと思うが、もう中学生なんだから、これからは行書を勉強する。
ところで、シナ、日本にはには沢山の書家が居たし、今も居るが、その中で書聖といって最も尊敬されているのがシナの東晋という時代(西暦4世紀)の王羲 之という人だ。この人の作品として名高いのは......」と、いって、"蘭亭序"や"集字聖教序"の話をされ、"蘭亭序"は文人墨客たちによる流觴曲水の宴の リーダーとしてほろ酔いのいい気分で書いたので、誤字などがあり、それを後から墨で塗りつぶして書き直したりした。そして、醒めてから、ちゃんと書き直そ うと何度も試みたが、どうしても、最初の筆に及ばず、とうとう諦めた......。そして、羲之の書をこよなく愛した唐の2代目の皇帝で事実上の大唐帝国の建設 者、太宗(7世紀前半)による"蘭亭序"獲得の逸話や、太宗の死に当って、"蘭亭序"が柩の中に納められたこと、更には太宗の生前、その命によって当時の 名筆たちが臨模したものの拓本や搨模(原本の上に紙をあてがって行う、極めて精巧な模写)が幾種かずつ残っていることを話され、その中、先生の一番の好み が"張金戒奴本"という拓本だということで、以後、私たちはそれを手本に習字をしました。
さてそれから幾十年。私も立場上、時折り條幅や色紙など、書を依頼されることがあります。しかし仲なかうまく書けない。何故、もっと習字をやっておかな かったのかと(但しこれは、他の様々な分野でも云えることですが)後悔しきりです。そして結局、何時も"諦めて"不満足な書を提出や贈呈する訳ですが、そ んな時、大それた事ながら、頭を掠めるのは、何度試みても"蘭亭序"の原本以上に書けなくて"諦めた"王羲之の話です。
図画は小笠原先生。穏やかな先生で、顔に深い皺がたくさんあったので渾名は"臍"。
さて、書道の先生ですが、小柄で、やはり金縁の眼鏡をかけ、ちょっと悪戯っぽいところのある先生でした。先生の一言で、それが渾名になってしまった級友 が私の知る限りでも、2人は居ます。お名前は来田喜八郎。だけど私たちの間では『東海道中膝栗毛』の片方の主人公の名前"喜多八"で通っていました。
さて、その喜多八先生。雅号は掃雲。筆太で丸味を帯びた行書が甚だ雄渾。学校中の各所の掲示は総て先生の御揮毫だったと思います。
先生は、1年生の最初の授業の時「書には楷書のほかに、行、草、篆、隷などの書体がある。君たちは小学校で、その中で最も基本的な楷書を勉強したと思うが、もう中学生なんだから、これからは行書を勉強する。
ところで、シナ、日本にはには沢山の書家が居たし、今も居るが、その中で書聖といって最も尊敬されているのがシナの東晋という時代(西暦4世紀)の王羲 之という人だ。この人の作品として名高いのは......」と、いって、"蘭亭序"や"集字聖教序"の話をされ、"蘭亭序"は文人墨客たちによる流觴曲水の宴の リーダーとしてほろ酔いのいい気分で書いたので、誤字などがあり、それを後から墨で塗りつぶして書き直したりした。そして、醒めてから、ちゃんと書き直そ うと何度も試みたが、どうしても、最初の筆に及ばず、とうとう諦めた......。そして、羲之の書をこよなく愛した唐の2代目の皇帝で事実上の大唐帝国の建設 者、太宗(7世紀前半)による"蘭亭序"獲得の逸話や、太宗の死に当って、"蘭亭序"が柩の中に納められたこと、更には太宗の生前、その命によって当時の 名筆たちが臨模したものの拓本や搨模(原本の上に紙をあてがって行う、極めて精巧な模写)が幾種かずつ残っていることを話され、その中、先生の一番の好み が"張金戒奴本"という拓本だということで、以後、私たちはそれを手本に習字をしました。
さてそれから幾十年。私も立場上、時折り條幅や色紙など、書を依頼されることがあります。しかし仲なかうまく書けない。何故、もっと習字をやっておかな かったのかと(但しこれは、他の様々な分野でも云えることですが)後悔しきりです。そして結局、何時も"諦めて"不満足な書を提出や贈呈する訳ですが、そ んな時、大それた事ながら、頭を掠めるのは、何度試みても"蘭亭序"の原本以上に書けなくて"諦めた"王羲之の話です。
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