TVが普及して50年になると思います。
白黒からカラーへ、その他、発展は目ざましい。将来ますます発達するでしょうし、その間、視聴者からの意見やアイディアも、或いは進歩の役に立つかも知れません。しかし視聴者は所詮、視聴者で、メーカーではありません。
メーカーの手を経た成果を享受しているのが視聴者です。
ところで今、世は宗教書ブームで、ちょっと大きな書店には、何十種もが並んでいます。しかし当然のことながら、その多くは解説書。それはそれで結構なのですが、解説書は所詮、解説書の域を出ない。数冊も読めば飽きる場合もあります。どれほど頑張っても、原典に及ばない面があります。それは原典こそが思想のメーカーだからです。受験時代に出会った英文の中に「一冊の原典は百冊の解説書に優る」などの文例もありました。 世の聖職者よ、真実の教えを求め、広めるためにお互いに原典(仏教ならば差し当り漢訳の国訳)の研鑽に励もうではありませんか。
築地本願寺には築地聞真会という会があり、これは衆参両院国会議員の集りで、現在会員数84名、改選の都度、その1~2年の間に新入会員が次々と入って来られます。聞真会は年に2度、定例の会合があり、その日は朝8時からの勤行にお参りし、法話を聴聞し、会食にも出席されます。本願寺としては、御門主または新門様(次期門主)、時にはお二方が勤行、会食におでましになります。
臓器移植法案が可決された翌々日、中年で気鋭の某国会議員が来院されて、同法案の件について説明をいただきました。
御来院の議員は、聞真会の会員でもあるです。
臓器、殊に心臓移植の場合は、提供者側にも、それを受ける側にも、当事者でないと伺い知れない、深刻な苦悩がある訳で、暫くその問題についてもお話しをしていたのですが、ちょっと話題を外して、私は次のようなことを申し上げました。
「国民の高齢化が進んでいますが、(その後16日の厚生労働省の発表でも、平均寿命は過去最高で、女性が86.05歳、男性は79.29歳です。)特に問題は独居老人です。老人が独りで時間を過すのは大変なことだと思うのですが、その老人たちが楽しめるTV番組が、あまりに少ないのじゃありませんか。これでは福祉国家とは言えませんね。聞くところでは、TV業界も不況で、番組作成費を安上がりにするために、ギャラの安いタレントを多用する。すると、どうしても、若者向きの番組になるとか。全般的にTVほど公共性の高いものは無い筈なんですが、NHKだけでも考えてほしい。議員さんたちの御尽力で、何とかならないものでしょうか。」
「いや、おっしゃる通りです。しかし私たちでさえ、見る番組は少いですからね。」
昔の名画の再放送なども、高齢者が往年を想い出して若返るかも知れません。
とにかく、評論家の大先達・大宅壮一氏の言とかいわれる「一億総白痴化」が、このままではますます進む。日本はどうなるのでしょうか。
東京の「お盆」の一夕、築地本願寺の東北隅、古代インド式の玉垣の角を曲った道端に、50歳前後か、男が一人、空き缶を膝の前において坐っていました。近頃、こんな姿を見かけることは、ついぞなかったのですが、頭髪も可成り薄く、陽焼けなのか、もしかしたら他国籍者かもしれないと思って、よく見ると、手首に数珠らしいものを巻きつけています。
とっさに、ポケットに手を入れて、小銭入れを探ったのですが、丁度目の前の信号が青になったので、そのまま大通を横断してしまいました。
近くのコンビニで、当分の間の保存食や台所用品などを買ったのですが、その間じゅう、先刻の男のことが気になって仕方が無い。とうとう帰路、ほんの少しですが、廻り道をし、彼の前に立ち寄って、私が使った何十分の一かに当る百円玉一つを缶の中に落したら、思いのほか大きな音がしたので、ビックリしました。缶の中には、百円玉、十円玉、一円玉?が、それぞれ1~2枚づつ入っていたように思います。
なお、翌日、別件で、ほぼ同時刻に同じ場所を通ったら、彼の姿は見当たりませんでした。
ここは所得が少ないとでも思ったのでしょうか。
4月の初旬、Y君と私は、ほぼ12時間、同席していました。
共にかつて勤務したことのある大阪・北御堂(本願寺津村別院)に納骨壇増設工事完了のお祝いがあり、それに招待されたのです。
朝9時半ごろ、別院で合流して出席、少し早目に夕食も大阪ですませ、「のぞみ」で隣同士、並んで東京まで帰ってきました。それぞれ2階と3階の宿舎に入ったのは9時半頃だったと思います。
ところが翌日、本堂での朝の勤行にも、事務所での朝礼にも、Y君は姿を見せない。前日に引き続き、今日もどこかへ出張でもしたのかなと思っていたら、「発熱しているので、病院へ行きたい」との連絡が来ました。
「解熱剤でも注射してもらったら、すぐ良くなるさ」などと言っていたのですが、結局Y君はそれから4日間、39~40度ほどの熱が出て、大変だったそうです。但し新型インフルエンザではなく、旧式(?)だったそうですが。
それにしても、12時間も一緒、殊に新大阪-東京間、2時間30数分、隣同士だった私は、発熱など全く無かった。従って私が彼にインフルを移したのでもなく、彼の潜在インフルも私には移らなかった。ただ、勤行の際、少し咽喉がかすれたような感じが
その後、数日間はありました。しかし、平常でもそれはよくあることで、特別に風邪などのせいとは言えないと思います。
なお、お経の際の声ですが、少しでも風邪をひいている時は、会話の際は感じない咽喉の変調が、すぐわかるのです。これは歌唱などの場合も同じかも知れませんが、私の場合、お経の発声と歌唱の発声とは、また少し違うようです。ただ、いずれにしても、風邪などが、ひどくならないうちに感知できる。これも読経の功徳の一つかも知れませんね。
Y君の発熱以来、しばらくの間、TVなどで屡々聴いたのは、「新型インフルは、老人はかかり難く、若い人は感染し易い」ということでした。"後期高齢者"の私など、かかりたくてもかからないのかも知れませんが、Y君だって、昭和31年生まれの53歳。れっきとした中年です。「若い人」とは言えないでしょう。
但し、私の場合、弟の1人が内科医で、毎年、11月から12月の交、インフルの予防注射を打ちに来てくれる。今回も、弟の注射が効いていたのかも知れません。
それにしても、もうここ2~30年、私は高熱が出たことが無い。従って私の身辺には体温計もありません。いや、体温計というものを、全く忘れていました。お蔭さまというほか無いのですが、高熱不発にはそれなりの理由があると思うのです。
私は幼い時、大切にされすぎて、冬など殊に厚着で、身体はむしろ弱い方でした。小学校の5~6年生の頃、呼吸器官の強化のためにカルシウムの注射を100本打つために通院しなさいと言われ、隣の尼崎市の病院へ、週に2~3度の割で通ったことがあります。尤も、2~30本打ったころには体調が良くなり、通院をさぼり始め、結局、100本は達成しなかったのですが。
まあそんなことで、風邪には敏感な方なのです。そんな私ですから、TVで以前、屡々見かけた「クシャミ3回、○○3錠」というコマーシャルは、今も忠実に実行しています。また部屋を温かくし、布団の中でも寝巻がグッショリ濡れるほど汗をかくことにしています。そのため寝巻はいつも予備を2枚用意しています。発汗→下熱と信じて実行しているわけです。
そして、絶対に寝込んではならない時には、特効薬を用います。それが「牛(ご)黄(おう)」です。牛黄とは、200~300頭の牛に1頭の腸、肝、胆などに生じる一種の結石だそうですが、それが発生すると牛は死ぬ。それを解体したとき取り出して、乾燥させると、黄茶色の物体になる。大きなものはピンポン球ぐらいですが、そんなに大きなものは、滅多にお目にかかれません。非常に脆く、漢方薬店で見かけるものも、殆んどが細かい粉抹です。しかし、これだと、不純物混入だって有るかも知れない。だから私は、まだ粉になっていない塊を買います。値段はここ20年くらい不変で1グラム5000円。現在は主として南米から仕入れているそうです。
なお、麝香(じやこう)などと同様、漢方の高価薬の一種なので、例えば六神丸などにも極く微量、使用されています。
小さなカプセルに入れてどこへでも持ち歩き、絶対に発熱してはならない時、これを耳かきに1杯程度、服用することにしていますが、次のような想い出もあります。
時は昭和22年7月、私たちは甲子園を目指して、連日、県大会を戦っていました。球場は、今は無くなった西宮球場。私の寺からは1キロほどの距離です。
当時、父は内科医を兼業していました。数え40歳。まあ元気な盛りだったと思いますが、午前中の宅診のあと、午後は自転車で往診。ひとしきり往診を終えて、そのまま球場へ。そして抽選の結果、その都度、一日の最終戦を戦うことになっていた私たちの試合の中途に内野スタンドに飛びこむ。するとその目の前で私が、ポコンとヒットを打つのだそうです。
しかし流石に疲労が重なったのが、日射病(熱中症)にかかったのか、優勝戦の当日、39~40度の高熱を発してしまいました。
8-7で勝つことは勝ったが、ノーヒットで帰宅したら、父は寝室の布団の中でうなっています。母も祖母も、お手伝いさんたちも、心配そうに、父をのぞきこんでいます。
しかし幸いなことに、高熱は一夜で去ったのです。
祖母の話、「牛黄を沢山飲ませた。」
高熱のためか身体を痛がるので、敷布団を3枚敷いていたそうですが、汗はその3枚を貫通して、畳まで湿らせたそうです。
牛黄→発汗→高熱退散の図式が、私の頭にこびりつきました。
風邪(インフルも含めて)は万病のもと。夏風邪にも御用心ください。
13日から4日間の盂蘭盆会を終り、16日夕刻、慰労を兼ねて「夏の集い」を行いました。場所は築地本願寺の本堂の裏側、職員たちの集合住宅との間の空き地。用務のための欠席者もありましたが、新門様(御門主の後継者)御夫妻にもお来しいただいて、職員とその家族ら約90名。飲物を飲み、バーベキューやカレーライスそのほか職員手作りの料理に舌鼓みを打ちながら、日頃言葉を交す時間もない者同士が話し合い、子供たちが走り回る中、たのしい一刻を過しました。
ところで、私もささやかながら一役買いました。
10年前の京都時代を知っているY君が「あの鳥スープを作って下さい」と言うのです。そう言えば京都の宿舎で時々作り、集って来た職員のうち、コーヒーカップに必ず3杯づつ飲んで帰る職員が2~3人はいました。彼はそれを思い出したのでしょう。
10年ぶりだし、うまく作れるかなとも思いましたが、何しろ(皆なには、大変手がこんでるんだよと言ってはおりましたが)簡単極まるプレパレーション。「じゃあ、やってみるか」と、鶏肉1キロを仕入れ、直径27センチ、深さ17センチの鍋に2杯作りました。13.5センチ(半径)×13.5×3.14(円周率)×12(水深)×2(杯)として、分量は13リットルぐらいでしょうか。幸い好評で、一滴も残らず、「また次の機会にね」ということになりました。
さてその作り方ですが、鶏肉の小片を水からボイルし、湯面にたまった「あく」を取り除き、500ミリリットルの淡口醤油(2鍋でほぼ1本)で味付けをし、そこに胡椒を適当にふりかけて、それでおしまいです。
鶏肉1キロで70~80人分ですから(発泡スチロールの丼型容器に半分ほど入れて)1人前10数グラム。
醤油味が淡いと思ったら、もっと入れればよいのだし、辛すぎると思ったら、水(湯)をふやせばよい。ペッパーだって、お好みの量に、というところです。
以上、独居男性の私が発明した、極めて簡単で安上りのスープの作り方を前回の「味」の付録としてお届けします。一度お試し下さい。
私は小学校4年生の夏休みに、京都の西本願寺(京都西郊・桂に在る西山別院で当時5日間=現在では10日間の研修がある)で得度式を受け、僧侶となりました。同期生が130人ばかり、そのうち同じ子供の仲間が20人ほど居て、楽しい思い出が、いくつか残っています。
乗用車の後座席に坐って窓外を見ていると、次から次、よくもこれだけ人間が居るものだと思うことがあります。
それも実に多様。男性あり女性あり。若い人、中年。ゆっくり歩いている人、慌しい人、長身、短身、痩身、肥満体、背広姿、半袖シャツ。男性もそうかも知れないが、女性の服装は一人として同じではない。まさに百人百様、千人千様、いや万人万様です。
そのうちに私は、「あの人は何故、背が高いのだろう」とか「何故、あんなに肥ってい
るのだろう」など、知らず知らずのうちに考えていました。「―190センチ近くはあるだろう。両親共、長身だったのかな」とか「―あの人なら、毎日5000カロリーぐらい食べているのじゃないか」とか。
そしてふと思い出したのが、子供のころ、『幼年倶楽部』だったか『少年倶楽部』だったか(共に月刊、200ページぐらい?講談社)で見たと思います、「何から写真機」というタイトルの漫画でした。
これは、その写真機(カメラ)で撮れば、その被写体が何から出来ているか、つまりその前の姿が写るという写真機なのです。たとえば、豆腐を撮れば豆が、牛肉を撮れば牛の顔が写るというように。
だから、もしも「何から写真機」で路の人を撮ったら、御飯が写るのだなと思ったり、いや、大量のビールかも知れない、と思ったりでした。
そのうちに、私は正に頭に雷が落ちたように感じました。―そうだ、あの人たちを撮ったら、他の何よりも、御両親のお姿が写る筈だと気がついたからです。
東京地区は今月「お盆」。他の地方も来月は「お盆」ですね。育くみ愛しんで下さった故人を偲び、それを何ほどか、形にあらわしていただけたらと思います。
日ごろ親しくしていただいているG寺の御住職の御母堂が亡くなられ、お葬儀にお参りさせていただきました。
御住職からお聞きしたところ、故人は大正10年1月生れで、御両親(先々代住職夫妻)の独り娘。昭和17年に婿養子を迎え、一男一女をもうけられたのに、昭和22年、数え年
27歳の時、御夫君が逝去され、以後数え89歳で御自身が逝去されるまで、実に62年間を独身で過ごされたそうです。
その間、御両親に仕え、あの戦争直後の衣・食の困難な時期に2人の子供を養育し、お寺を護持されただけでなく、幼稚園々長の仕事を先代住職(御実父)からバトンタッチされて運営し、御令息が住職に就任されて、多少の時間的余裕もおできになって以後、同じ幼児教育に携わっている方々と共に東ヨーロッパ各地から、近代西洋教育学の原点というべき、ジャン・ジャック・ルソーの跡まで訪ねて研鑽を積まれたそうです。
お若い頃、身体が大きくて、75キロもあった体重が、御晩年、10年近く寝たり起きたりの生活をされている間に痩せて、最後は30キロほどになっておられたとお聞きしました。
まことに女性、母、娘、坊守(お寺の奥さん)、幼稚園々長の各方面にわたって、まるで亀鑑のような方だったのです。
明治から大正にかけてお生れになった女性では、似たようなお話をお聞きすることがあります。実は、この日曜日、平成5年に亡くなった門徒の御婦人の17回忌にお参りしました。今の御主人、つまり故人の息子さんが、お母さんのお腹で6ヶ月の時、お父さんが亡くなった。昭和21年6月だった。その後、お母さんは無事出産し、お舅さんに仕えながら、お念仏もろともに息子さんを育て、家業を興隆せしめ、77歳で亡くなられた。
道理で私は、お舅さんの顔は知っていたが、御主人の顔は知らなかった筈です。この婦人の人生も、ほとんどただ一人の息子さんのためだったと言ってよいのではないでしょうか。
"女性は偉い" などと言われる所以ですが、私たちが一々知らないだけで、立派な女性があちこちに居られたのですし、今も、これからも居られるに違いないと思います。
私自身の場合も、古語「哀哀たる父母、我を生みて劬(=苦)労す」という思いが脳裏を離れないのです。いや、両親だけでなく、その他、たくさんの方々に様ざまな御苦労をおかけしながら、今に至っています。
ここ何年もの間、北海道のM氏から、今ごろになると、ダンボール箱に一杯、特産のトマトジュースを送ってきていただいていました。大へん美味しいので、それを折りおりにいただいて1年間、丁度無くなったころに、次の年の分が来るという具合でした。
ここ1年余、築地と半々の生活ですので、自坊にまだ多少残っているのですが、そのM氏は今春逝去され、従って、いま愛飲しているのは故人からの贈物だったことに思い至りました。手っとり早く言えば、今も故人から御馳走を受けているのです。
しかし考えてみると、同様なことが身辺に一杯あります。
私の着ている着物を織り、あるいは仕立ててくれた人は、果して今、生きているのだろうか......、法衣は、洋服は、茶碗は、箸は......? 考えはじめると、際限がありません。
自坊の、私が住居している建物は、阪神淡路大震災のあと新築したものですが、2人の大工さんのうち1人は先年亡くなったし、彼等を連れて来たり、その他、復興に当って、1人で何十人分もの仕事、お世話をして下さったH氏も、今春逝去されました。
この方がたの背後に、更に数えきれないほどの人びとが居られたと思うのですが、さし当り、今、私は上の方がたのお蔭で快適な住居が出来るのです。
書斎の本棚に並び、折りにふれて貴重な知識を与えてくれる書籍の著者、また私たちに心の拠り所を与えてくださっている聖典の作者、あるいは出版社たちの恩恵も測り知れません。
私たちの寺院の本堂も100年、200年前の建立が多いし、京都の本山、このほど御修復が完了した御影堂(ごえいどう)は寛永13年(1636年AD)、373年前に完成した世界屈指の巨大木造建築(重要文化財)です。400年近く前の人びとのお蔭を今被り、将来も受け続けるのです。
参拝、拝観者は宗派を問いません。折を見て御参拝、古人の偉業をお偲び下さい。
その他、殆んど何一つ、先人(および同時代人)の御労作無しには、私の生活も成り立たないと思います。
これらの方がたの御苦労にあらためて感謝しながら、さて自分自身、後に残る人びとのために何が出来るかと、今そんなことを考えています。
夕刻近く、宿舎で原稿執筆などしていると、職員の子供たちの遊ぶ声が聞えてきます。
先日、試みに、幼いころ作って遊んだ紙ヒコーキを3つ4つ折って、2階のベランダから手を離したら、彼等の方へ飛んで行き、彼等はキャッキャッと言いながら追っかけてくれました。
これに味をしめて、数日後、今度は片翼にブタやカメやトリや、坊や、嬢ちゃんなどの顔や姿を赤いサインペンで画いて飛ばしたら、前回以上の反響です。しかし楽しさは、それを眺めている私の方が大きかったかも知れません。
良寬和尚でしたか、
"子供らと 手まりつきつつ この里に 遊ぶ春日は 暮れずともよし"
私も毎日、良寬さんの心境になりたいと思うのですが、現実は厳しい。なかなか時間が無く、それっきりになっています。しかし、またそのうちにと思っています。
但し、上の一首は、小学校高学年か中学校1、2年生ぐらいの時の国語の教科書に出ていたと記憶していたのですが、念のために調べてもらったら、
"この里の 宮の木下(こした)に 子どもらと あそぶ 春日は 暮れずともよし"
"霞立つ 長き春日を 子どもらと 手まりつきつつ 今日もくらしつ"
の2首の私なりの合糅らしいのです。
60年以上もの間、間違ったまま憶えていたのだと、この度も恥ずかしい思いがしました。
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