非栄養学

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 50年前、インドに留学していた頃のことです。
 たまたま、通りすがりの、ありふれた土造りの農家の戸口から建物を覗き込んだら、中は薄暗い土間の隅に、煉瓦か何かで造った、辛うじて鍋が1つかけられる丁度の低い小さなかまどと、その側に鍋が1つ、それにブリキか何かで造った小さな衣装入れの箱が1つ、ころがっているだけです。
 丁度そこへやって来た、この家の主人らしい男に
 「毎日、何を食べてるの?」
とたずねたところ、答は
 「アル(じゃがいも)」
 「それだけ?他に何か食べないの?」
 「チリ(とうがらし)」
 「鶏卵は?」
 「ナ(否)、ナ。マンガー(高価)、マンガー」

 実際は、チャパティ(地方によってはローティとかナンとも言う。大きさも味も多少異るが、要するに麦の粉を牛乳などで捏(こ)ねて火であぶった、一種のパン)など、もう少し何か食べているのでしょうが、その場はそれだけの会話で終わりました。

 それにしても、彼地の農民の食生活は貧しいものです。同じことは、西ヒマラヤのチベット系住民の住む地域を一人歩きした時にも痛感しました。それはもう、近代医学の栄養学などとは全く無関係というべき食生活なのです。
 しかしそれでも彼等の多くは私たち以上に逞(たくま)しい身体つきをしていますし、教育さえ普及すれば全て優秀な民族であることは歴史が証明し、また近年次第に明らかになってきています。
 さて私は、かねがね留学先の大学の外人留学生用の食堂のメニューが好きになれなかったのですが、上記の西ヒマラヤ一人歩き以後、帰国までのほぼ8ヶ月、 毎日、朝、昼、晩の3食を、トーストとスクランブルド・エッグ(炒り卵)と紅茶、それに大根おろしだけで過ごしました。大根おろしは、京都大学インド佛蹟 調査隊が残して行ってくれた5リットル缶入りのキッコーマンの醤油のおかげです。
 尤も月に一度ぐらいは日本からの来訪者に招かれてホテルで御馳走になったり、デリーやカルカッタの大都会に出たときは、まっ先に中華料理店に飛びこみ、まあ味覚と栄養の補給をしましたが、同寮の友人たちは、私の健康を非常に心配してくれました。
 無事、帰国以後も、私があまり野菜類を食べないので、偏食を心配して下さる方が、今に至るも少なくありませんが、私は御好意を謝しつつも、
 「ライオンは漬物を食べない」
 「牛は牛肉のすき焼きをしない」
などと言って誤魔化しています。
 ライオンも牛も、人間の栄養学から見れば大変な偏食ですが、それでも、あの堂々たる体躯を維持しているからです。入手できる食物に、身体の方から適応させているのでしょう。

 いささか論理が飛躍するようですが、不足しているものは外から取り入れ、あるいは便宜を供給することによって解決するのが、近代文明のやり方だと思うの です。室内ひとつでも、寒いから暖房、暑い時には冷房、湿気が多いからといって除湿器、乾燥を防ぐための加湿器、その他、ほんのここ5~60年前までは一 般家庭では影も形も無かった文明の利器が、いま私たちの周囲に満ちあふれています。
 もっと極端な例を挙げれば、生物のうち「衣服」を発明し、それによって自らをそれほど改造せずに寒さを防いでいるのは人間だけ。他は全部、自分自身を進化、乃至は厳しい環境に適応させているのです。
 そして、それはそれで一応は結構なのですが、このような、何かにつけて機械や文明の利器に頼り、自分自身を鍛えたり、変えたりしない生き方が、実は私たちの生活を圧迫し、脆くしている場合もあるのではないか。

 そんなことを考えながら、ふと思い出したのは、紀元前5世紀ごろ(インドのお釈迦さまより、やや早いか?)に活躍し、対人関係を重視する「仁」と共に 「礼」や「楽」など、いわば繁文縟礼を進めようとした孔子を批判して、「無為自然」の生き方を説いた老子や荘子の哲学も、一顧の余地があるなと思ったりし ています。
 つまり人間社会が、いわゆる進歩すればするほど、複雑な森の中に迷いこんだように、本来の、原則的な生き方がわからなくなってしまう。だから、「生や 死」という大問題もふくめて、もっと単純な、原点に立ち返って考え直してみるべきことが一杯あると思うのですが、いかがでしょうか。
 なお、ついでに申しますと、仏教が中国に受け入れられた、そもそもの発端は、仏教の説く「空(くう)」の思想が、老・荘の「無為」「自然」も似ていたからだとも言われています。
 同じ一つの経典でも、漢訳(インド系の言語で書かれた経典を、中国語、つまり漢語に翻訳すること)された時代によって、「無為」とか「自然」とかいう言葉が数多く挿入されている例があります。そうすることによって、経典の理解を助けようとしたのでしょう。

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