今日は終戦記念日(執筆時*編集部注)。64年前の夏の日々が思い出されます。
昭和19年の秋頃から、私たち中学2年生約300人は六甲山裏の有馬方面の農家の稲刈の手伝いや、西神戸軽藻島や神戸税関東側の高射砲陣地の砂盛り(高射砲をコンクリート塀で囲み、塀の外側に土砂を裾広に盛って、至近距離に落下した爆弾からの被害を防ぐための工事)などの勤労奉仕に出かけていました。
ところが昭和20年7月15日、私たち3年生と4年生(この年の春、5年生だけでなく、4年生も全員卒業させられ、4月からは5年生不在になっていた)は、川崎重工業の神戸工場に動員されることになりました。但し各学年で、特に理数科の成績優秀な生徒たち20数名は学校に残って勉学にいそしんでいました。軍国日本の科学・技術開発の未来を荷う卵だったのです。
15日の朝、工場に隣接した広場に、私たち5~600人が整列して入所式が行われたのですが、何とその時、国防服と戦闘帽に身を固めた工場長らしいおじさんの訓辞は、勿論原稿など無しですが、文語体で行われたのです。
驚いたのと、おかしさとで私たちは思わず吹き出しそうになったのですが、ここで笑っては、いけません。ぐっとこらえていました。
学年によって異ったと思いますが、私たち3年生は製罐工場(船舶用のエンジン関係)に配属されました。毎日自宅から通勤です。工場の建物のすぐ外の岸壁には、修理中、もしかしたら建造中の大きな潜水艦が一隻、ずっと横づけされていました。
さて私たちの仕事ですが、まず技術を修得せねばなりません。それは金属の熔接です。
それまでは溶接は、一般にガス熔接が主だったようですが、より高温の出る電気熔接が行われるようになり、私たちは、その練習をはじめたのです。
濃緑色の避光ガラスのついたマスクを片手に保持して、残る片手で厚さ1センチ前後の金属片で熔接を練習するのですが、その際の火花の強烈さに目をいため、月の終わり頃には、このまま失明するのではないかと、帰宅後、自分の書斎で独り泣いていたことがあります。
昭和19年の秋頃から、私たち中学2年生約300人は六甲山裏の有馬方面の農家の稲刈の手伝いや、西神戸軽藻島や神戸税関東側の高射砲陣地の砂盛り(高射砲をコンクリート塀で囲み、塀の外側に土砂を裾広に盛って、至近距離に落下した爆弾からの被害を防ぐための工事)などの勤労奉仕に出かけていました。
ところが昭和20年7月15日、私たち3年生と4年生(この年の春、5年生だけでなく、4年生も全員卒業させられ、4月からは5年生不在になっていた)は、川崎重工業の神戸工場に動員されることになりました。但し各学年で、特に理数科の成績優秀な生徒たち20数名は学校に残って勉学にいそしんでいました。軍国日本の科学・技術開発の未来を荷う卵だったのです。
15日の朝、工場に隣接した広場に、私たち5~600人が整列して入所式が行われたのですが、何とその時、国防服と戦闘帽に身を固めた工場長らしいおじさんの訓辞は、勿論原稿など無しですが、文語体で行われたのです。
驚いたのと、おかしさとで私たちは思わず吹き出しそうになったのですが、ここで笑っては、いけません。ぐっとこらえていました。
学年によって異ったと思いますが、私たち3年生は製罐工場(船舶用のエンジン関係)に配属されました。毎日自宅から通勤です。工場の建物のすぐ外の岸壁には、修理中、もしかしたら建造中の大きな潜水艦が一隻、ずっと横づけされていました。
さて私たちの仕事ですが、まず技術を修得せねばなりません。それは金属の熔接です。
それまでは溶接は、一般にガス熔接が主だったようですが、より高温の出る電気熔接が行われるようになり、私たちは、その練習をはじめたのです。
濃緑色の避光ガラスのついたマスクを片手に保持して、残る片手で厚さ1センチ前後の金属片で熔接を練習するのですが、その際の火花の強烈さに目をいため、月の終わり頃には、このまま失明するのではないかと、帰宅後、自分の書斎で独り泣いていたことがあります。
そんな中、たえず警戒警報や空襲警報を聞きながら、日々を送ったのですが、8月5日、陽も暮れはてた午後9時頃だったかな、自宅(自坊)のある西宮市の市役所の警戒警報のサイレンが鳴りました。市役所からは1キロほどの距離なので、よく聞こえるのです。
警戒警報の場合は、サイレンが"ボー"っと長く、多分数十秒間鳴ります。解除の際は特別の合図は無かった。何となく解除だったと思います。
空襲警報の時は、サイレンは短かく、5秒程度のが断続的に鳴るのです。
ところでその警戒警報はそのまま11時ごろに解除になったらしい。そしてやれやれと思って、殆んど着のみ着のままで蚊帳の中に入って、うとうととしていた矢先、6日の多分午前1時ごろだったでしょうか、いきなりの空襲警報に目を醒されたのです。
慌てて跳び起きて窓外を見ると、西南の方角から、無数の焼夷弾が焔の尾を引きながら、こちらに向って落ちてくる。
庫裡の建物の中に居ると、外の様子がわからない。とりあえず、本堂の前庭に出ました。しかし、焔の糸は、あたり一帯にに引きり無しです。すぐそばの空が真赤に燃えています。
私が焼夷弾落下の方に気をとられている間に、すぐ下の中学2年生の弟が、庭先に埋めてあった防火用の直径2メートルほどの大きな木樽(酒造工場から購入 した製酒用)の水をバケツに汲んで祖母や母や弟妹の頭からぶっかけて、100メートルほど東の小学校の方に逃がしました。その向う一帯は家は僅か、殆んど 田んぼでした。
ちょっと、ほっとして、本堂の階段の一番下に腰を降していたら、目の前の正門の屋根が、パッと明るくなった。焼夷弾落下です。
以前から防火用に本堂の庇に立てかけてあった、普通男手4~5人で運んでいた特製の大梯子を弟と2人で運ぼうとしたのですが、ビクともしない。もしかし たらと思って、門の方に倒してみたら、うまい具合に、梯子の先端が僅かに門の廂にひっかかった。すぐさま防火用水をバケツに汲んで梯子を上り、何とか火を 消すことが出来ました。
やれやれと思って、もとの階段に腰を降した途端、今度は中庭の方が真赤になった。
それっ!と駆けつけよう思ったが、一瞬「懐中電灯は?」と思った。灯火管制のため、夜はいつも真暗な庭だったからです。しかし、どこに置いたか、とっさ に思い出せない。「えーい。何とかなるさ。」と思って庭の方へ走って行ったら、何のことは無い。高さ5メートルのお化け灯籠の背後の、背の高い松の木付近 が真赤に燃えているのです。しかし、これも幸いに傍らの泉水の水で消すことが出来ました。
再びもとの階段のところに帰って腰を降していると、今度は頭上にピューッと鋭い音。
何だ。焼夷弾の音(落下のときサーッと音がする)でも爆弾(ザーッ音がする)でもないが、ともかくも逃げよう、ということで、弟はさきほどの正門、私は 東の鐘楼門の下へとびこんだ。と同時に、今まで私たちが腰を降していたあたりに物凄い音。しかし、爆発音じゃない。音が納って、おそるおそる少しだけ本堂 の階段の方に歩みよってみると、何か半円型の大きなお盆のようなものが階段の中程に見える。しかし怖いので、それ以上、近づくこともせず、暗くもあって得 体もわからないままでした。
ようやく朝になって見てみたら、それは焼夷弾を数十発まとめた親焼夷弾(クラスター弾)の頭部の蓋(直径3~40センチ、厚さ7~8センチ)だったので す。爆撃機が親焼夷弾を落すと、しばらくして空中でそれが解体して、中に装填してある数十発の焼夷弾がバラバラになって落下するという仕組みなのです。
見上げると、私たちが坐っていた階段の真上、本堂の前廂に直径2メートルほどの穴があいていて、垂木が何本か垂れ下がっていました。(勿論、戦後、廂も階段も修理。しかし階段には今もその痕跡が残っています。)
なお、上記の3つ以外に、何も落ちて来なくて良かったな、などと言っていたのですが、戦後になって本堂が、あっちもこっちも雨漏りする。屋根屋さんに 上ってもらったら、何と六角型のさし渡し約10センチ、長さ6~70センチの焼夷弾数十発が大屋根に突きささって瓦を割り、そこで燃え尽き、それが雨漏り の原因になっていたことがわかりました。焼夷弾は一発も屋根を貫かなかったのです。もし、あの時、一発でも貫通していたら、本堂は焼失したに違いありませ ん。
それにしても、庫裡や客殿に一発も落ちなかったのは奇蹟的。もしもこれらの建物に一発でも落ちていたら、忽ち屋根を貫通して燃上。火は当然、本堂にも及び、寺は全焼したことでしょう。
あの当時、「本堂が、佛さまが、全部引き受けて下さったから助かったのだ。」
などと、口ぐちに喜び合ったものです。
勿論、焼夷弾のもえ殻は引きぬいて瓦を補修したのですが、殻は可成り長い間、何年にも亘って鐘楼門の傍に積み上げてありました。
ところで、ずっと後に聞いたのですが、当時、寺の北側の民家に住んでいた娘さん(今はおばさん)の話。
「焼夷弾が光の尾を引いて落ちて来たなと思っていると、お寺の大屋根の北面に当ってカチンと音がし、はね返って、私の家の方に飛んで来るんです。」
勿論、寺の屋根からはね返った焼夷弾以外に、寺の周辺地域には無数の焼夷弾が落下した訳ですが、その間、地区に1台しか無い消防自動車が、彼女の家との間の十字路に停車して放水してくれました。しかし、既に水圧も低く、勿論、焼け石に水でした。
そして、夜が明けて、広島の新型爆弾(原爆)になったのです。
なお、空襲でなくなった10人ほどの方の御遺体は本堂外陣の畳を揚げ、代りに藁莚を敷いて、そこに並べられました。
空襲後も、私たちは毎日、通勤時間帯で、30分に1~2本、その他は1時間に1本の満員の電車に窓からも乗り込んだり降りたりしながら、工場に通いました。
しかしその間も、各地に空襲が続き、神戸地方は14日には午前中に1回、午後に1回と警戒警報が出ました。工場に居ては危ないという訳で、その都度、神戸市の北側の六甲連山の一角、諏訪山の麓まで片道2キロ余りを走って逃げました。
あたりにはA5版ぐらいの大きさの降伏を勧告する米軍機からのビラが散乱しています。拾ったら叱られますので、無論こっそり読んだ訳です。
さて、その日は無事家に帰ったのですが、翌15日、昨日の2度に亘る逃避で身体はくたくたです。それに目も痛い。
それでも出勤せねばと思ったのですが、祖母や母にひきとめられました。
そして、正午に重大放送があるらしいと聞いて、家族一同、ラジオの前に耳を傾けました。雑音で可成り聞き取りにくかったが、それでも天皇陛下の独特の抑揚ある詔勅を聞いて、どうやら戦争が終った、日本が負けたらしいことがわかりました。
私は何となく空しくなって、外へ出、寺の付近を一人さまよいました。あたり一帯の御門徒の家々は、ほとんど焦茶色の焼け跡になっていました。カンカン照りの、暑い暑い昼下りでした。
警戒警報の場合は、サイレンが"ボー"っと長く、多分数十秒間鳴ります。解除の際は特別の合図は無かった。何となく解除だったと思います。
空襲警報の時は、サイレンは短かく、5秒程度のが断続的に鳴るのです。
ところでその警戒警報はそのまま11時ごろに解除になったらしい。そしてやれやれと思って、殆んど着のみ着のままで蚊帳の中に入って、うとうととしていた矢先、6日の多分午前1時ごろだったでしょうか、いきなりの空襲警報に目を醒されたのです。
慌てて跳び起きて窓外を見ると、西南の方角から、無数の焼夷弾が焔の尾を引きながら、こちらに向って落ちてくる。
庫裡の建物の中に居ると、外の様子がわからない。とりあえず、本堂の前庭に出ました。しかし、焔の糸は、あたり一帯にに引きり無しです。すぐそばの空が真赤に燃えています。
私が焼夷弾落下の方に気をとられている間に、すぐ下の中学2年生の弟が、庭先に埋めてあった防火用の直径2メートルほどの大きな木樽(酒造工場から購入 した製酒用)の水をバケツに汲んで祖母や母や弟妹の頭からぶっかけて、100メートルほど東の小学校の方に逃がしました。その向う一帯は家は僅か、殆んど 田んぼでした。
ちょっと、ほっとして、本堂の階段の一番下に腰を降していたら、目の前の正門の屋根が、パッと明るくなった。焼夷弾落下です。
以前から防火用に本堂の庇に立てかけてあった、普通男手4~5人で運んでいた特製の大梯子を弟と2人で運ぼうとしたのですが、ビクともしない。もしかし たらと思って、門の方に倒してみたら、うまい具合に、梯子の先端が僅かに門の廂にひっかかった。すぐさま防火用水をバケツに汲んで梯子を上り、何とか火を 消すことが出来ました。
やれやれと思って、もとの階段に腰を降した途端、今度は中庭の方が真赤になった。
それっ!と駆けつけよう思ったが、一瞬「懐中電灯は?」と思った。灯火管制のため、夜はいつも真暗な庭だったからです。しかし、どこに置いたか、とっさ に思い出せない。「えーい。何とかなるさ。」と思って庭の方へ走って行ったら、何のことは無い。高さ5メートルのお化け灯籠の背後の、背の高い松の木付近 が真赤に燃えているのです。しかし、これも幸いに傍らの泉水の水で消すことが出来ました。
再びもとの階段のところに帰って腰を降していると、今度は頭上にピューッと鋭い音。
何だ。焼夷弾の音(落下のときサーッと音がする)でも爆弾(ザーッ音がする)でもないが、ともかくも逃げよう、ということで、弟はさきほどの正門、私は 東の鐘楼門の下へとびこんだ。と同時に、今まで私たちが腰を降していたあたりに物凄い音。しかし、爆発音じゃない。音が納って、おそるおそる少しだけ本堂 の階段の方に歩みよってみると、何か半円型の大きなお盆のようなものが階段の中程に見える。しかし怖いので、それ以上、近づくこともせず、暗くもあって得 体もわからないままでした。
ようやく朝になって見てみたら、それは焼夷弾を数十発まとめた親焼夷弾(クラスター弾)の頭部の蓋(直径3~40センチ、厚さ7~8センチ)だったので す。爆撃機が親焼夷弾を落すと、しばらくして空中でそれが解体して、中に装填してある数十発の焼夷弾がバラバラになって落下するという仕組みなのです。
見上げると、私たちが坐っていた階段の真上、本堂の前廂に直径2メートルほどの穴があいていて、垂木が何本か垂れ下がっていました。(勿論、戦後、廂も階段も修理。しかし階段には今もその痕跡が残っています。)
なお、上記の3つ以外に、何も落ちて来なくて良かったな、などと言っていたのですが、戦後になって本堂が、あっちもこっちも雨漏りする。屋根屋さんに 上ってもらったら、何と六角型のさし渡し約10センチ、長さ6~70センチの焼夷弾数十発が大屋根に突きささって瓦を割り、そこで燃え尽き、それが雨漏り の原因になっていたことがわかりました。焼夷弾は一発も屋根を貫かなかったのです。もし、あの時、一発でも貫通していたら、本堂は焼失したに違いありませ ん。
それにしても、庫裡や客殿に一発も落ちなかったのは奇蹟的。もしもこれらの建物に一発でも落ちていたら、忽ち屋根を貫通して燃上。火は当然、本堂にも及び、寺は全焼したことでしょう。
あの当時、「本堂が、佛さまが、全部引き受けて下さったから助かったのだ。」
などと、口ぐちに喜び合ったものです。
勿論、焼夷弾のもえ殻は引きぬいて瓦を補修したのですが、殻は可成り長い間、何年にも亘って鐘楼門の傍に積み上げてありました。
ところで、ずっと後に聞いたのですが、当時、寺の北側の民家に住んでいた娘さん(今はおばさん)の話。
「焼夷弾が光の尾を引いて落ちて来たなと思っていると、お寺の大屋根の北面に当ってカチンと音がし、はね返って、私の家の方に飛んで来るんです。」
勿論、寺の屋根からはね返った焼夷弾以外に、寺の周辺地域には無数の焼夷弾が落下した訳ですが、その間、地区に1台しか無い消防自動車が、彼女の家との間の十字路に停車して放水してくれました。しかし、既に水圧も低く、勿論、焼け石に水でした。
そして、夜が明けて、広島の新型爆弾(原爆)になったのです。
なお、空襲でなくなった10人ほどの方の御遺体は本堂外陣の畳を揚げ、代りに藁莚を敷いて、そこに並べられました。
空襲後も、私たちは毎日、通勤時間帯で、30分に1~2本、その他は1時間に1本の満員の電車に窓からも乗り込んだり降りたりしながら、工場に通いました。
しかしその間も、各地に空襲が続き、神戸地方は14日には午前中に1回、午後に1回と警戒警報が出ました。工場に居ては危ないという訳で、その都度、神戸市の北側の六甲連山の一角、諏訪山の麓まで片道2キロ余りを走って逃げました。
あたりにはA5版ぐらいの大きさの降伏を勧告する米軍機からのビラが散乱しています。拾ったら叱られますので、無論こっそり読んだ訳です。
さて、その日は無事家に帰ったのですが、翌15日、昨日の2度に亘る逃避で身体はくたくたです。それに目も痛い。
それでも出勤せねばと思ったのですが、祖母や母にひきとめられました。
そして、正午に重大放送があるらしいと聞いて、家族一同、ラジオの前に耳を傾けました。雑音で可成り聞き取りにくかったが、それでも天皇陛下の独特の抑揚ある詔勅を聞いて、どうやら戦争が終った、日本が負けたらしいことがわかりました。
私は何となく空しくなって、外へ出、寺の付近を一人さまよいました。あたり一帯の御門徒の家々は、ほとんど焦茶色の焼け跡になっていました。カンカン照りの、暑い暑い昼下りでした。
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