2009年9月アーカイブ

母乳

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 何人かの熟年の坊守さん(お寺の奥様)と話をしていて、話題があちこちに展開(転回?)した挙句、少子化・高齢化社会から、子育て、そして遂に母乳にまで達しました。
 それにしても近頃は(可成り以前かも知れませんが)赤ちゃんの離乳が早いようですね。せいぜい新生児1歳ぐらいまでとか。
 「僕なんか、欲しくなったら、幼稚園に付き添って来ていた乳母のお乳に飛びついていましたよ。...乳首に唐辛子とかを塗られても、"そのうちに、もっと甘いお乳が出てくるわい"とか言って、かじりついていました。辛い後だから、余計に甘く感じたのです。」と言うと、「キャーッ」と笑われました。
 しかし御飯を食べなくても、肉や魚や野菜は無くとも、お乳だけで、赤ちゃんはどんどん成長します。これは人間だけの話ではない。犬でも猿でも、アザラシでも同じです。
 そして結論としては、
 「牛には牛乳、羊には羊乳、人間の赤ちゃんには、お母さんのお乳が一番いい筈ね」
ということになりました。
 お母さんのお乳が出にくい時、人間の赤ちゃんは已むを得ず、我慢して、牛乳や練乳を飲んでいるのではないでしょうか。
 人間のお母さんのお乳が人間に赤ちゃんにとってベストでなかったら、人間の母子とは言えない。母子の生命の伝達、造化の大原則に反すると思います。
 文明、文化、科学等が発達すればするほど、余程気をつけないと、他の諸分野にしても根本問題、大原則を忘れかねませんね。
 朝夕が大分涼しくなって来ました。
 秋の夜長など、折々に思弁を凝し、哲学してみましょう。

階段

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  Oさんは私の知っている限りでも、男4人女4人の8人姉弟でした。Oさんは上から2番目だった筈です。
 8人とも、昔としては長生きだったと思います。Oさん自身、昭和50年、82才で亡くなっていますから、当時としては、充分に長命でした。念のため、寺の過去帳で調べてみると、一番下の妹が最も若死で61才、あと70才台が2人と80才台が5人、最高が89才で、8人の平均は79.4才。いわゆる長命の血筋ではあったわけです。
 昭和40年に亡くなった御主人は、長年、門徒総代をも務めた篤信者で、(多分、最初で)最後の入院の際には、病室にお仏壇のリンを持ちこんで、朝夕、ベッドで勤行されていました。(私が見舞に行ったとき、リンが枕元にありました。)リンと言えば、Oさんの3番目の弟Mさんもそうでしたね。
 Oさん自身も若い頃は、やはり子沢山で、家業もあり、仲々時間がとれなかったかと思いますが、晩年はお寺や門徒の方がたのお家で、当時、毎日のように開かれる昼夕二度の法座にお参りするのが日課でした。
 しかし困ったことに、Oさんは、膝が悪く、姉弟みな、晩年には腰が曲っていました。DNAのせいでしょうか。昔の農家の人たちは、田植やら刈入れやら、その合間合間の田畑の世話で、どうしても、腰の曲る方向へDNAが進化したのかも知れません。
 だから、Oさんは、外出(といっても殆んどお参り)の際は、いつも手押車を押していました。杖は使わなかったと思います。
 従って、路面を歩くのにはそれが良かったのでしょうが、お寺へ参拝の節には手押車は門前に置き、お寺の門前の、ほんの2~3段ですが石段、山門をくぐって前庭から本堂の向拝への石段、そして本堂正面の階段、更に落縁から広縁への1段と堂内への1段、これらの階段は這って上るしか方法がなかったのです。
 ある時、まだ読経まで時間があり、何か所用があって私が本堂の前縁に出たら、丁度Oさんが、階段を上ってくるところでした。
 但しその時、Oさんは向拝の階段の端の手摺りにつかまって、「うんうん」言いながら片足ずつ片足ずつ上ってきます。
 思わず駆け寄って、Oさんの手を持とうとしたら、「いやいや、これが私の仕方です」といって、断られてしまいました。
 こうしてOさんは、毎日のように、多分元気な人が小さな丘に登る以上の苦労をしてお参りされたのです。それが運動にもなり、長寿にも役立ったのかも知れません。
 さて私ですが、近頃、頻繁に通る4~50段もあるJR駅でプラットフォームへの階段を上下するのは50%ぐらいで、半分はすぐ横のエスカレーターを利用しますが、寺内には勿論、エスカレーターなどはありません。
 幸か不幸か、私の寝室、更衣室、その他もろもろは2階建の建物の階下にありますが、大震災後の再建に当って、自分の家の被災を放っておいて、寺の復興に尽してくれた、すぐ下の弟が、寒がり屋の私のために、2階南向き、一番暖かい部屋を、書斎用に作ってくれました。
 だから、書籍その他も分散しているし、寺内に居るときは朝昼晩の3回以外に、時にはメモ一枚でも持って、15段の階段を上ったり下りたりします。
 一体、日に何回ぐらい上下するか。階段を上りきった所に置いてある本棚の横に白紙を貼り、鉛筆を置いて記録しようと思いました。
 しかし、何か目的があるから上り下りする訳で、その用件のことを考えている時、目の前の記録用紙など、眼中にありません。殆ど素通りです。五画で正の字にする記録作成計画など、殆んど絵に画いた餅でした。
 だから、正確なことは言えませんが、多分、日に10回やそこらは上り下りしているのではないでしょうか。
 そしてこの階段の上り下りのお蔭で、脚腰も何とか人なみに動いているのだと思います。

 そんなことを折々に考えていたところ、先日のテレビで、発育盛りの子供たちの疾走、跳躍、平均台などの運動能力が、年齢の上昇と逆に低下している。その原因として考えられるのが、戸外での運動量の減少と共に、いわゆるマンション住居でエレベーターを利用するため、階段の上下をしないからだろうとのことでした。
 「なるほど、そうか」と、早速、朝のおつとめにお参りに来られた方々に、受け売りをしました。
 「......。だから、お寺の本堂の階段を上って下さいね。お経の勉強もそうですよ。頭もしっかり使いましょう。」
 皆さん、少し上目使いで私の顔を見ながら、口もとは笑っておられました。

せねば!

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 滅多に無い事ですが「今日は何も予定が無いな」と思ってTVなどを見ていると、反って疲れが出てきて、そのまま病人にでもなってしまいそうです。そして気がつきます。「あれをせねば!」「これをせねば!」の思いが、心にも身体にも張りを持たせるんだなと。
 祖母が話していました、「私は夜、寝る前に、明日は、あれと、これと...と、しなければならないことを考えておくのです」と。この緊張感が昭和29年、71歳で脳溢血で倒れて死亡する直前まで元気を保った秘訣だったのでしょう。
 誰でも、毎日、毎週、毎月、毎年、あれこれ目標や計画を自らに課し、その実行に邁進するのが、老化を防ぎ、活性化を促進することになるのではないでしょうか。
 尤も私自身は「明日は、あれと、これと...」と考えるのが、眠りの浅い原因になっているようなのですが。

自坊の盆踊り

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 震災後、いささかの高齢化と少子化、それに入れ替りの多い地域の人々との結びつきを、曽つての時代のように復活したいとの願いを込めて、副住職を中心に取り組んできた自坊(兵庫県西宮市・西福寺)の第6回目の盆踊りを今年は8月22日(土)夕刻に催しました。

 30日(日)執行の衆議院議員選挙のために1週間くり上った市主催の夏祭りと日程がバッティングしたのですが、心配していた空模様も晴れ上り、お蔭で昨年通りか、もしかしたらそれ以上、400人ほどの参加者で賑わいました。無論、築地とは比べ物になりませんが、300坪ほどの駐車場を当てた会場はほぼ満員。我々寺族も含めて、総代さん、仏婦の皆さん、大きな寺紋を黒に染め抜いた黄色のハッピや半袖のTシャツ姿で勢揃いしましたが、シンセサイザーの演奏が景気を煽り、三味線愛好グループの出演に加えて、近隣のお寺の坊守さんたちの、祇園の芸者衆顔負けの華やかな浴衣姿が雰囲気を盛り上げてくださいました。
 また今回は特に、皆さんの要望で、総代のN氏と私が、マイクの前でハーモニカの演奏。 Nさんのは年季が入っているようですが、私のハーモニカは小学校以来です。みんなが一緒に歌えるようにと、昔の童謡の中から「ぽっぽっぽ はと ぽっぽ」「もしもし かめよ かめさんよ」「桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた きびだんご...」の3曲を選び、歌詩をプリントして配付しました。
 マイクの前で、小学校2~3年生ぐらいの男の子たちも、一生懸命歌ってくれました。

 さて踊りですが、中央に組んだ櫓の周囲では、だいたい2~30人、最初はちょっと淋しかったが、最後には6~70人にふくれ上ったと思います。但し、一番踊ってくれるだろうと思っていた仏婦の皆さんが、ジュースやお好み焼、おでん、その他の煮炊きと、その販売に忙し過ぎて、気の毒なことをしました。
 なお、拙寺でも駄菓子袋は、やはり子供たちに大人気。その上、総代のHさんから、5本一房でビニール袋に包んだバナナ500袋の寄贈があり、これには大人も長蛇の列。皆さん、両手に花(?いやダンゴでもないな)で、大ニコニコでした。
 
 夕刻の6時半に始まって8時半に終り、その後、あらかたの片付けをしたあと、特に会場設営に汗を流してくださった総代さんたちもふくめて、30人余り、駐車場前の集会所で打上げ会。その際、早くも次はこうしよう、などの意見も出ましたし、秋には「焼きいも大会、餅つき大会」もあるぞと、皆さん、疲れも忘れたかのように、意欲満々でした。次、さらに、その次が、楽しみです。

盆踊り

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 8月4日から7日まで4日間の盆踊りが、盛大裡に終了しました。
 "無事に"と言いたいところですが、最初の3日間(午後7時~9時)は何とか保ってくれた天気が、午後6時ごろから始めた最終日の7日、約80キロ北方とは言っても同じ関東平野の中心部に近い熊谷地方を襲った、1時間110ミリと言われる集中豪雨のあおりをうけて、6時半ごろから夕立。2千人近い人びとが急拠逃げこんで、広大な本堂その他の建物が埋めつくされる騒ぎになりました。
 幸いに予め行っていた放送案内のせいで、全く混乱も事故もありませんでしたが、残念ながら午後7時、終了を決定しました。しかし、4日間を通じて、地域の方々や警戒、消防隊その他の絶大な御協力のお蔭と別院職員の努力で、この盆踊が年々盛大になってゆくことを、ひしひしと有難く感じました。
 何と言っても、お寺(だけでないでしょうが)は地域の皆さんの御支援が、一番大切なのです。「テラ」とは古い韓国語で"人の集るところ"という意味だと聞いたことがあります。(その後、厳密に確認したわけではありませんが。)
 遙かに千年を越す古代、国家の方針によって開かれた超特大寺は別にして、特に私たち浄土真宗の寺々の多くは、念仏の流布によって村々に建てられた念仏道場(=集会所)から発展しました。管理者には村長の弟とか次男とかが出家して、やがて住職になる。地域密着型です。
 だから、浄土真宗のお寺である築地本願寺は大震災後の90年近い長い期間を経て、今ようやく、その本来の面目を発揮し始めたとも言えます。そう思うと、胸は希望と期待に溢れてきますね。

 さてそんな中で、今年特に感じたことを書かせていただきましょう。
 その一つが(昨年も感じたのでしょうが、今年特に)踊る女性たちの得も言われぬお色気でした。
 まず、浴衣姿そのもの、それから前進後退の動作は勿論のこと、ちょっと腰を落して片脚を上げる時、両手の上げ下げ、上げた手を曲げたり回したり、横に展げたり、くるりと回る時の身のこなし等々...。軽やかな洋装(その多くは、長い紐のショルダーバッグを、上手に肩にかけておられました)から伸びる長い脚線美、肩から肘、手首から指先にかけての柔軟な動きが、折からの照明の中に浮び上って、普段以上に美しく、私だけでなく、多くの人の目を楽しませたと思います。しかし、何故か今年は特に濃藍染地の浴衣姿が私の目を魅きました。
 猶、築地本願寺の副住職でもある新門様(本願寺の後継者)御夫妻も、昨年につづいて、今年は特にステージの上で、皆様方とご一緒に夏宵の一刻を踊りの中で過されました。できるだけ広く一般の方がたにも接しようと努力されているお心の現れかと思うのですが、このことがまた、私たちの盆踊りの大きなチャームポイントなのかも知れません。

 今年特に思ったことの第二は、参加しておられる皆さん方の食欲の旺盛さです。
 約2千人中、実際に踊っておられるのはせいぜい2~300人でしょう。その周囲で立ち見、見物している人たちも略々同数。
 ところが、中央の櫓の西側から南側の、外塀に添った植え込みの前、それから南門の外まで、全部で20~30軒のテント張りの出店が出て、そこで軽食や清涼飲料を売っている。通常の市価より安くなっているものもあったとか聞きました。中には八丈島特産品の売店までが出ています。
 そしてL字型に並んだ出店の列と、櫓を中心とした踊りの輪の間の広い空間に、ぎっしりと机と椅子が並べられて、大人、子供、男女老幼の別無く、食客たちが、そこを埋め尽し、ビールを傾け、ジュースを飲み、軽食を頬張る。
 更に本堂正面の幅11メートル、高さ21段の階段に坐って、彼方の盆踊を見物している筈の人びとのほとんどが、これまた、おしゃべりをしながら何かを食べている。
 それから、踊り時間が丁度中半に達した頃、その石段の正面で、かねて用意の駄菓子の詰め合せ(4日間で合計1800袋)を子供たちにプレゼントするのですが、ぎっしり何列にも並んでいる子供たちが、前に出て来て、一人一袋の菓子袋を受けとる時の、彼等子供たちの目つきの真剣さ、こちらが差し出した袋を、奪うように受け取ってゆく素速さ...。
 殊にその輝く目は、発展途上国の子供たちが粗末な教室や校庭(校舎が無く、生徒たちは地面に坐り、石版とチョークがノートと鉛筆代り)で、先生のお話を聞いている時の目つきを、思い出させました。
 学校・教室でのあの目の輝きが、ここ数十年の祖国躍進の大きな力となっている人材を送り出しているのでしょう。幼い子供たちも、しっかり食べて健康に育ち、しっかり勉強して、未来の日本を立派に背負っていってもらいたいものです。

 幼い頃、時どき、祖母につれられ、乳母と一緒に、2キロほど離れた商店街に行きました。私の目当ては、帰路に立ち寄るかも知れない和食店(寿司、丼物、うどん)「北丸太」の鶏卵(うどんに卵綴じをふりかけたもの)でした。値段は20銭?
 商店街では、いろんな店に立ち寄った筈ですが、一番よく憶えているのは大宗(だいそう)という牛肉屋さんです。そこで私が欲しかったのは、100匁(385グラム)1円のロース。100グラムなら25銭強です。しかし祖母は大抵、100匁30銭か50銭の並肉を買います。祖父が柔らかな肉は歯ごたえが無いと言っていたからです。何しろ冬のシーズンなど、太い生大根を厚さ2センチぐらいに切って、パリッと音を立てて食べるほどだったのです。
 でも、祖父はその硬い牛肉をすき焼きにして、或る程度噛んでから、口移しに私に食べさせてくれる。私はそれが又、大好きでした。冗談にでも、おかしいなどと言われると、腹が立ちました。
 
 さて小学校(市立)に入りました。入学直後から、担任の先生は皆に毎月、手紙用ぐらいの大きさの封筒をわたします。表に生徒の名前と12ヶ月の枠があり、金30銭と書いてある。つまり授業料納付用の封筒なのです。翌日ぐらいにお金を入れて持参すると、その月の枠内に捺印してもらったと思います。
 ところで、それから既に70余年、今ごろになって、毎月の授業料がロース肉25グラム分の代金と同じくらいだったことに気がつきました。今100グラム1,500円の牛肉は昔なら100匁1円のロース25匁分でしょう。つまり学校への納付金は現在の貨幣価値で毎月1,500円程度なのです。
 尤も今と異って給食などありません、弁当です。しかし校門のすぐ前の文房具店に、朝"アンパン1個とクリームパン1個"などと申込んでおいて、昼食時に受取りに行くと、それが名前を書いた紙袋に入れてある。私は弁当を持って行かされるので、殆んど買わなかったが、それで確か10銭そこそこだったと思います。
 校舎は以前にも書きましたが、木造2階建で外側から突っかえ棒がしてある。雨漏りする教室もあった。そして教室はすべて電灯無し。だって夜間の授業は無いのですから電灯は不用。だから最初から照明設備は無い。質素そのものだった。教育のエッセンスだけがあったのです。
 さて昔は同様なことが多かった。
 お寺にしても、米や野菜は御門徒が届けてくれる。肉や魚はあまり食べない。無論ラジオもテレビもエアコンも無い......。だから生活費は殆んどかからない。着る物だって継ぎが当っている。お寺ではありませんが、昭和40年頃になっても、立派な老舗の奥さんが店頭で継ぎの当った普段着姿なのでびっくりしたことがあります。明治生れまでは、世の中それで当り前だったのです。
 子供の衣類なども弟妹は兄姉のお下がりが普通でした。小学校へ上る頃はじめて、すぐ下の弟と2人、ニットのポロシャツをお揃いで買ってもらったときは「え!?」と思いました。弟が幼稚園の紋章の入った帽子を被って、嬉しそうに笑っている大写しの写真が長い間ありました。今は、弟が持っているのかな?
 それにしても、今の世は、教育費が大へんな問題なのですね。何でも優秀校進学率は親の収入額に比例するとか。昔でも子供1人を大学まで卒業させるとなると、その費用で大きな藏が建つとか言われてはいましたが......。
 何故、そんなにかかるのか、いや、何故、昔はそんなにかからなかったのか、考えてみる必要がある。教育費が高いから計画的に少子にせねばならないと、若い夫婦や親たちが考えるとするならば、そんな国に将来は無い。そんな政治は亡国政治でしょう。

 ところで「義務教育」という事ですが、これは「国家は教育を受けさせる義務があり、国民は教育を受ける義務がある」ということではないのでしょうか?
 もし私の理解が正しければ、義務教育期間終了の時点で、国民が所定の義務を果しているか、つまり国が想定した学力を修得しているか否かを検査する。また教育する側(国、学校、先生)も、所定の学力を修得させるという義務を果しているかどうか否かをチェックする必要があるのはないでしょうか。
 もし所定の学力の80%しか修得していないのに義務教育修了の証書が出されているとすると、それは納税者が所定の税金の80%しか納めていない、つまり20%脱税しているのに、税務所や検察側がそれを見のがし、或いは知らん顔の怠慢を犯しているのと同じではないでしょうか。
 脱税には厳しいが脱学に甘いとなると、文化国家も怪しいもの。一度、先生も保護者も政治家も官僚も、この問題を考えていただきたいものです。

 ここまで書いて、たまたま「全国学力・学習状況調査」が、2007年度から小6と中3を対象に実施、テストは国語と算数・数学の2教科云々という記事を見ました。(2009年9月8日付 東京新聞、朝刊 12版26頁)"それなら結構"と言うべきかも知れませんが、では、他の科目はどうなのでしょう。
 それから過度な受験戦争も困りますが、競争は昔もあった。しかし、そのために両親が塾や家庭教師に月謝を支払うような家庭は少なかったのではないか。今は国を挙げて子供の喧嘩(受験戦争)に親(の財力)が口を出している過保護の時代。だから、若者は一層臂弱に、無気力になるのです。

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 Mさんは好い男でした。 
 いつもにこにこと明るく、頭がよく回転するので、誰も思いつかないような考えが飛び出てくるアイディア・マンでもありました。言葉尻をちょっと変えたりして、他の者が言ったらセクハラになりかねないような危いことを冗談まじりに屡々口にする。しかし彼が言うと全く卑猥な感じがしません。
 そのような彼の名「行善」を捩って、私は彼を「行悪」と呼ぶ。すると必ず間髪を入れず「大悪先生!」と返ってきました。 
 震災の折は、数日を出ずして、最愛の奥さんと一緒に、飛行機で見舞に来てくれました。庫裡も客殿も倒壊しており、本堂には見舞客が溢れていました。だから、折角来てくれたのに、辛うじて「遠い所を有難う」としか言えませんでした。
 
 彼はガッチリした体格の持ち主でした。 ところが、たしか2年ほど前から、急に痩せ始めた。「癌」だったのです。脇腹を手術し、疵口の長さ40センチだったそうです。余命2ヶ月と診断されたそうですが、その後も何とか明るい顔を見せてくれていました。
 しかし真黒だった頭髪も、いつしか白い方が多くなり、会議も欠席がちになりました。
 見舞に行きたいと思ったが、当方の日程がそれを許さない。やむを得ず、電話や手紙等で思いを伝えていました。最後の電話は多分病院だろうと思って、携帯宛て。7月中旬だったと思います。
 その彼が私の電話の直後ぐらいに、奥さんに付き添われて京都での行事に出席し、御本山にもお別れの参拝をしたとか。
 その頃すでに、病院も鎮痛の処置しか出来なくなっていたそうです。その期に及んでなお、「ちょっと呼吸を止めたら、みな、死んだと思うだろうな」などと、冗談を言っていたということです。
 そして遂に8月初旬に亡くなった。昭和18年生れ。私より一回り以上若い。 日程上、本葬に参列できないので密葬にお参りしました。去年訪問したときには無かったお寺の会館が、2ヶ月前に落成したばかりだとのこと。その完成を待ち望んでいたそうです。
 ○
 その彼が、何故か法衣姿で、他の仲間数人と、目の前に座っています。 「こんな悪い奴は、他の者がみな死んだって、死なないよナ」というと、嬉しそうに、にっこり笑った。

 そこで目が醒めました。夢だったのです。
 それにしても、夢は思考の投影だと聞くのに、死んだとわかっている人が、どうして元気で夢の中に現れるのだろう。元気で生きていてほしいとの願望の表れなのでしょうか。
 今、私は彼からのプレゼントの一つ、壁掛式のディジタル式温湿度計と向い合ってこれを書き、死の直前のプレゼント、キヤノンのデジタルカメラは傍の戸棚の中にあります。「どこでも入手出来るバッテリー単3が使えるから便利でしょう」というのが、彼のコメントでした。こんな優しい配慮の男でもあったのです。
 それにしても、私でさえこんな夢を見るのだから、奥さまをはじめ身近の方々の御哀惜は如何ばかり、また私の夢の中で笑った彼自身、実はどんなに生きたかったことでしょう。
 そして、今ごろ、仏さまの世界から「大悪先生、遅いね。何をぐずぐすしているんですか」などと、言っているのかも知れません。

育ち

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 去る、8月29日(土)、戦中から戦後にかけて、その鋭利なる頭脳をもって大きな足跡を残したS氏ならびに令夫人の三回忌法要が、築地別院和田堀廟所で行われ、導師として出勤しました。
 法要そのものは特別のことは無かったと思いますが、そのあと会館で、参拝者7~80名の方がたとご一緒にお斎の御接待をいただきました。
 私にとって財界は、まあ御縁のうすい世界ですが、嬉しいことに、旧制中学時代、一緒に野球をしたピッチャーのI君と、会社で殆んど同期だった方がたが居られたり、すぐお隣の中学校に通っていたという方も居られて、世の中は狭いもの、ご縁が実に複雑にからんでいることなどを、あらためて感じました。
 また、御主人の仕事の関係もあって、九州遙か南方の屋久島にお住居の孫娘が居られるとのことで、私も15~6年前、所用で半日だけですが、行ったことがあると申し上げると、その孫娘さんが接待に来て下さり、話題が弾みました。
 そんな中、S氏の曾孫に当るという坊ちゃんがそばに来て下さいました。ずっと以前に私が出版した『おしゃかさま』という絵本を読んだと言われるのです。慶應幼稚舎(通常の小学校に相当)の3年生だそうです。
 身体は必ずしも大柄とは言えず、これも曾祖父さん譲りかなと思いましたが、日頃の躾が余程いいのでしょう、姿勢を正して、その応答の適確なこと。
 「学年は30余名のクラス4つ。勉強は好き。スポーツはテニスとゴルフ。但しゴルフは今は練習場の段階」など、きちんとした言葉使いで話してくれます。そして、将来は?と聞くと「弁護士」。これはお父上のお仕事を嗣ぐことを意味します。
 「弁護士は六法全書その他、一ぱい勉強しなければならない。大へんですね」というと、「はい」との返事。「もう、御馳走、ぜんぶ食べたの?」と尋ねると、「まだ××が残っています。」「それじゃ、それを済ませていらっしゃい」ということで、私の傍らを離れたのですが、しばらくして、またやって来た。
 「さて、次は、どんな話をしようか」と思っていた矢先に、中締めの御挨拶があり、坊ちゃんには「また別の本を送りましょう」と、再会を約して別れました。
 それにしても翔太郎君("正太郎"?とたずねたら、羊の横に羽を書きますと言って、父上の名刺に名前を書いて持ってきてくれました)、将来が楽しみです。こんな、きちんと育てられた子供さんばかりだと、日本の将来も、さぞ明るいことでしょう。

亀の首②

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 さて、極楽浄土には仏によって化作された鳥以外の畜生(鳥や獣類)は居ないと言うと反論が出るかも知れません。というのは、浄土の姿を表現している筈の本堂内陣には、獅子や象、龍や時には鳳凰などの彫刻や絵画が見られることも多いからです。
 これについて管見を述べさせていただきましょう。

 まず獅子ですが、獅子はインドでも「百獣の王」(という言葉は無かったかも知れませんが)と、動物の中で最も尊敬されていたようです。
 お釈迦さまを「人中の獅子」と考えたり、その説法を獅子吼の説法と讃えたり、そのお坐りになる座を獅子座という。
 お釈迦さまの時代(伝説は除外するとして)以後数百年の間、人びとは仏さまのお姿を画くこと、彫刻で表現することは勿体無い、また不可能だと考えていました。
 しかし、1世紀の終か2世紀になってインド文化の西北部ガンダーラ地方(現在のパキスタンの北部)やインド本土で、仏像が作られ始め、以後、仏像の無い仏教は考えられないほどになったのです。)

亀の首

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 学生の頃だったと思います。
 私の寺の中庭の仙水に甲羅の長さ15~6センチの亀が1匹住みついていました。
 別に何の変哲もない亀でしたが、彼(彼女?)に一つ、奇妙な習慣(性癖)がありました。

無為自然②

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 ところで「無為」あるいはその反対の「有為」の語は、仏教と世間一般とでは、実に全く正反対といってもよいほど用い方が違うのです。
 まず、世間一般の用法ですが、
 「彼はなかなか有為(ゆうい)な青年だ」
というと、才能ある、役に立つ青年、というように、良い意味に使われます。
 逆に、「3年間、無為に過した」というと、何も為すこと無く、無駄に月日を送った という、悪い意味で用いられます。

 しかし仏教では反対なのです。
 ここでも前置きが些か長くなりますが、皆さん、幼き日々を想い出して下さい。
 昭和12年4月、小学校入学の場合、『尋常小学国語讀本』巻1の上(名称はうろ憶えです。間違っていたらお許し下さい)の最初の章は
  "サイタ サイタ サクラガ サイタ"
見開き2ページに、下に挿画を入れてありましたね。
 その次は、"コイコイ シロ コイ""ススメ ススメ ヘイタイ ススメ"
と章が進んだと記憶していますが、教科書の一番後に一覧表があって、アイウエオ、カキクケコのいわゆる五十音を教わったように思いますが、如何でしょうか。


無為自然

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数回前、仏典に出てくる「無為自然」という言葉は、古代中国(戦国時代BC403~BC221)の有名な思想家、老子や荘子(同名の書物あり)の用語だということを申しましたが、この「無為」とか「自然」という言葉について、以下少しだけお話しましょう。

 まず一般にも使われる「自然」ですが、「自」は「おのずから」「ひとりでに」「人手などをわずらはさずに」というほどの意味です。
 次に「然」ですが、「しかり=その通り」「そのまま」という意味です。
 だから「自然」とは「自然にそうなっている」「人間が造ったものではない。」
 山は聳え、海は青く、川は流れ、雲は飛ぶ。これらはすべて人間が造ったものではなく、「自然な」ものです。
 その他、いわゆる天然現象は、みな「自然」であり、「自然」と「天然」の語とは、殆ど同じ意味に用いられています。
 ただ、両語の用い方の差は、「自然」が英語で言えば「ナチュラル」(自然な)とかオートマティック(自動的)の意味で用いられることもあるのに対し、「天然」の方は「ネイチャー」(自然現象、自然の存在)という意味で用いられることが多いように思われます。
 なお、「天然」の「天」ですが、これは「人力の及ばないこと」を意味しているのでしょう。
 なお、読み方ですが、「自然」は一般的には「しぜん」と読みますが、仏教では「じねん」と発音します。「天然」はどちらでも「てんねん」です。


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