数回前、仏典に出てくる「無為自然」という言葉は、古代中国(戦国時代BC403~BC221)の有名な思想家、老子や荘子(同名の書物あり)の用語だということを申しましたが、この「無為」とか「自然」という言葉について、以下少しだけお話しましょう。
まず一般にも使われる「自然」ですが、「自」は「おのずから」「ひとりでに」「人手などをわずらはさずに」というほどの意味です。
次に「然」ですが、「しかり=その通り」「そのまま」という意味です。
だから「自然」とは「自然にそうなっている」「人間が造ったものではない。」
山は聳え、海は青く、川は流れ、雲は飛ぶ。これらはすべて人間が造ったものではなく、「自然な」ものです。
その他、いわゆる天然現象は、みな「自然」であり、「自然」と「天然」の語とは、殆ど同じ意味に用いられています。
ただ、両語の用い方の差は、「自然」が英語で言えば「ナチュラル」(自然な)とかオートマティック(自動的)の意味で用いられることもあるのに対し、「天然」の方は「ネイチャー」(自然現象、自然の存在)という意味で用いられることが多いように思われます。
なお、「天然」の「天」ですが、これは「人力の及ばないこと」を意味しているのでしょう。
なお、読み方ですが、「自然」は一般的には「しぜん」と読みますが、仏教では「じねん」と発音します。「天然」はどちらでも「てんねん」です。
まず一般にも使われる「自然」ですが、「自」は「おのずから」「ひとりでに」「人手などをわずらはさずに」というほどの意味です。
次に「然」ですが、「しかり=その通り」「そのまま」という意味です。
だから「自然」とは「自然にそうなっている」「人間が造ったものではない。」
山は聳え、海は青く、川は流れ、雲は飛ぶ。これらはすべて人間が造ったものではなく、「自然な」ものです。
その他、いわゆる天然現象は、みな「自然」であり、「自然」と「天然」の語とは、殆ど同じ意味に用いられています。
ただ、両語の用い方の差は、「自然」が英語で言えば「ナチュラル」(自然な)とかオートマティック(自動的)の意味で用いられることもあるのに対し、「天然」の方は「ネイチャー」(自然現象、自然の存在)という意味で用いられることが多いように思われます。
なお、「天然」の「天」ですが、これは「人力の及ばないこと」を意味しているのでしょう。
なお、読み方ですが、「自然」は一般的には「しぜん」と読みますが、仏教では「じねん」と発音します。「天然」はどちらでも「てんねん」です。
次に「無為」ですが、これは仏教では「自然」以上に、非常に重要な意味をもっています。反対の「有為」も重要な言葉です。
世間でも「無為」も「有為」も用いられます。但し、「有為」は仏教的には「うゐ=うい」と読まれますが、世間的には「ゆうゐ=ゆうい」と読まれます。
ここでちょっと脱線しますが、世間での漢字の発音と仏教式の読み方とは、「自然」の場合のほか、例えば「讀経」が「どっきょう」とも読まれ、「経験」「経 緯」(けいけん、けいい)とも読まれるように、同じ「経」でも「きょう」「けい」など、しばしば異る場合がある。それは何故かということを、かいつまんで お話しておきましょう。
神話伝説時代はさておき、『日本書紀』によれば、日本の歴史時代の殆んど最初期の欽明天皇の13年(AD552 年と思われる)に朝鮮半島南西部にあった百済の国の聖明王の好意で、金銅造の釈迦佛像一躰と経論若干巻、つまり佛教が、我が国にもたらされたとされまし た。奈良・元興寺に関する記録によればもう少し古く、AD538年に仏教は渡来したと考えられるようです。
但し、実際には渡来人などが仏教を信仰していたでしょうし、厳密には仏教の渡来は更に前のことだったかも知れません
また邪馬台国(やばたいこく、または、やまたいこく=古代日本への呼称)の女王・卑弥呼(ひみこ)は、中国の三国時代(後漢が崩壊し、華北の魏と、長江= 揚子江流域の呉と、知将、宰相、忠臣の代表のように讃えられる諸葛孔明が活躍した、奥地=四川省の蜀との三国鼎立時代)のAD239年に、魏の国に使者を 遣わしたとの記録が、彼地の『三国史、魏志・倭人伝』にあり(例、岩波文庫、青401-1)、大陸との最初の接触は欽明天皇時代より300年も古かったこ とが知られています。更に後漢の班固(AD32-92)の撰んだ『前漢書』巻28下、地理志には「楽浪の海中(=東シナ海)、倭人(日本人のこと)あり。 分れて百余國となる。歳時を以て来り献見す。」とあるそうですから、紀元前から交渉があったようです。(前出、「岩波文庫」解説18頁)
さて前に戻って、この百済から伝えられた経文ですが、その読み方、発音の仕方は、当然、百済人の間で行われていたものでしょう。
では、百済は中国の佛教なり文化なりをどのようにして受け入れたのか。通常なら中国北部から陸地づたいにと考えるべきでしょうが、当時の彼の地の国際情勢、つまり高麗(朝鮮半島北部の国)と百済、更には中国北部と高麗との関係は非常に厳しいものがあった筈です。
百済は文字や仏典を、東シナ海の向い側「呉」の地方から、おそらくは現在の済州島経由で得たらしいのです。太平洋域の西北部を北上する海流などに乗って、比較的自然に容易に大陸の文化が伝えられたのでしょう。
ところで、魏、呉、蜀の三国ですが、それぞれの首都は、ほぼ現在の洛陽と南京と成都に在ったと考えればよいでしょう。各々の距離は直線で南京-洛陽がほぼ700キロ、洛陽-成都が900キロ、成都-南京が1400キロです。
だから、古代のことですから、一般民衆も人種的にも文化的にも可成り差があった。
中国には昔から、「南船北馬」という言葉があります。揚子江の流域は河川が多く、船での交通が便利だ。冬も気候は比較的おだやかで、米作の発生地域でもある。対して北シナ(黄河の流域)は、冬は極寒零下30度(華氏)などと言われ、川は少く、旅は馬に頼った。
これほどに文化の相違があり、殊に揚子江以南はもともと人種が異っていたとさえ言われています。だから多分紀元前後に知識階級の間で共通の文字が使用され るようになったが、その発音に微妙な差があり、その差が次第に広がっていったのでしょう。かくて、我が国へは、百済を経て、まず「呉」音が伝えられたので す。
しかしその後、聖徳太子の遣隋使派遣(AD607年)によって、長安や洛陽地方、つまり華北の発音も伝えられる。これを「漢音」と呼びま す。そして佛典も特に平安時代以後は漢音で読まれることも増えたと思われますが(いわゆる天台声明では漢音の方が多いかと思われるほどです)、官庁では漢 音を使用することが定められたとどこかで読んだことがあります。但し時とともに、特に中国文化の黄金時代、唐を経て、彼地での発音に変化が進行したらし く、唐と、それについで五代、更に宋時代に盛況を迎えた禅宗が、我が鎌倉時代に栄西、道元など渡海求法の諸師によって学ばれ、唐宋音という発音が輸入され ます。
三音の比較を例示すると、次のようになります。
〈呉 音〉 行(ぎょう) 修行、行事
〈漢 音〉 行(こ う) 旅行、行進
〈唐宋音〉 行(あ ん) 行灯、行脚
かくて、漢音つまり世間一般では「自然=しぜん」と読むのが、仏教界(呉音)では「じねん」と発音したというわけです。
上記の表でも御推察の通り、日本全体で、呉、漢、唐宋の三音が入りみだれて用いられています。しかし、一方において、「自然」を「しねん」と読んだり「天然」を「てんぜん」と読む人も居ません。
世間でも「無為」も「有為」も用いられます。但し、「有為」は仏教的には「うゐ=うい」と読まれますが、世間的には「ゆうゐ=ゆうい」と読まれます。
ここでちょっと脱線しますが、世間での漢字の発音と仏教式の読み方とは、「自然」の場合のほか、例えば「讀経」が「どっきょう」とも読まれ、「経験」「経 緯」(けいけん、けいい)とも読まれるように、同じ「経」でも「きょう」「けい」など、しばしば異る場合がある。それは何故かということを、かいつまんで お話しておきましょう。
神話伝説時代はさておき、『日本書紀』によれば、日本の歴史時代の殆んど最初期の欽明天皇の13年(AD552 年と思われる)に朝鮮半島南西部にあった百済の国の聖明王の好意で、金銅造の釈迦佛像一躰と経論若干巻、つまり佛教が、我が国にもたらされたとされまし た。奈良・元興寺に関する記録によればもう少し古く、AD538年に仏教は渡来したと考えられるようです。
但し、実際には渡来人などが仏教を信仰していたでしょうし、厳密には仏教の渡来は更に前のことだったかも知れません
また邪馬台国(やばたいこく、または、やまたいこく=古代日本への呼称)の女王・卑弥呼(ひみこ)は、中国の三国時代(後漢が崩壊し、華北の魏と、長江= 揚子江流域の呉と、知将、宰相、忠臣の代表のように讃えられる諸葛孔明が活躍した、奥地=四川省の蜀との三国鼎立時代)のAD239年に、魏の国に使者を 遣わしたとの記録が、彼地の『三国史、魏志・倭人伝』にあり(例、岩波文庫、青401-1)、大陸との最初の接触は欽明天皇時代より300年も古かったこ とが知られています。更に後漢の班固(AD32-92)の撰んだ『前漢書』巻28下、地理志には「楽浪の海中(=東シナ海)、倭人(日本人のこと)あり。 分れて百余國となる。歳時を以て来り献見す。」とあるそうですから、紀元前から交渉があったようです。(前出、「岩波文庫」解説18頁)
さて前に戻って、この百済から伝えられた経文ですが、その読み方、発音の仕方は、当然、百済人の間で行われていたものでしょう。
では、百済は中国の佛教なり文化なりをどのようにして受け入れたのか。通常なら中国北部から陸地づたいにと考えるべきでしょうが、当時の彼の地の国際情勢、つまり高麗(朝鮮半島北部の国)と百済、更には中国北部と高麗との関係は非常に厳しいものがあった筈です。
百済は文字や仏典を、東シナ海の向い側「呉」の地方から、おそらくは現在の済州島経由で得たらしいのです。太平洋域の西北部を北上する海流などに乗って、比較的自然に容易に大陸の文化が伝えられたのでしょう。
ところで、魏、呉、蜀の三国ですが、それぞれの首都は、ほぼ現在の洛陽と南京と成都に在ったと考えればよいでしょう。各々の距離は直線で南京-洛陽がほぼ700キロ、洛陽-成都が900キロ、成都-南京が1400キロです。
だから、古代のことですから、一般民衆も人種的にも文化的にも可成り差があった。
中国には昔から、「南船北馬」という言葉があります。揚子江の流域は河川が多く、船での交通が便利だ。冬も気候は比較的おだやかで、米作の発生地域でもある。対して北シナ(黄河の流域)は、冬は極寒零下30度(華氏)などと言われ、川は少く、旅は馬に頼った。
これほどに文化の相違があり、殊に揚子江以南はもともと人種が異っていたとさえ言われています。だから多分紀元前後に知識階級の間で共通の文字が使用され るようになったが、その発音に微妙な差があり、その差が次第に広がっていったのでしょう。かくて、我が国へは、百済を経て、まず「呉」音が伝えられたので す。
しかしその後、聖徳太子の遣隋使派遣(AD607年)によって、長安や洛陽地方、つまり華北の発音も伝えられる。これを「漢音」と呼びま す。そして佛典も特に平安時代以後は漢音で読まれることも増えたと思われますが(いわゆる天台声明では漢音の方が多いかと思われるほどです)、官庁では漢 音を使用することが定められたとどこかで読んだことがあります。但し時とともに、特に中国文化の黄金時代、唐を経て、彼地での発音に変化が進行したらし く、唐と、それについで五代、更に宋時代に盛況を迎えた禅宗が、我が鎌倉時代に栄西、道元など渡海求法の諸師によって学ばれ、唐宋音という発音が輸入され ます。
三音の比較を例示すると、次のようになります。
〈呉 音〉 行(ぎょう) 修行、行事
〈漢 音〉 行(こ う) 旅行、行進
〈唐宋音〉 行(あ ん) 行灯、行脚
かくて、漢音つまり世間一般では「自然=しぜん」と読むのが、仏教界(呉音)では「じねん」と発音したというわけです。
上記の表でも御推察の通り、日本全体で、呉、漢、唐宋の三音が入りみだれて用いられています。しかし、一方において、「自然」を「しねん」と読んだり「天然」を「てんぜん」と読む人も居ません。
コメントする