学生の頃だったと思います。
私の寺の中庭の仙水に甲羅の長さ15~6センチの亀が1匹住みついていました。
別に何の変哲もない亀でしたが、彼(彼女?)に一つ、奇妙な習慣(性癖)がありました。
私の寺の中庭の仙水に甲羅の長さ15~6センチの亀が1匹住みついていました。
別に何の変哲もない亀でしたが、彼(彼女?)に一つ、奇妙な習慣(性癖)がありました。
その頃、仙水の傍に縦横それぞれ2メートル前後、高さ1メートルほどの、いわばスッポンの甲羅のような形の自然石があり、その上に、亀が背負っている恰
好で、差渡し1メートルほどの雪見灯籠が置かれ、丁度その大スッポンの頭を思わせるような別の石が池の水面スレスレに突き出ていました。
彼(彼女?)は毎朝、そのスッポンの頭の上に出てきて池の方に向き、首をありったけ上方に伸して、そのまま夕方まで、じっとしているのです。
何か餌を投げると、ゆっくり水の中に入ってそれを喰うのですが、それ以外は殆んど不動の姿勢です。
「何もすることが無いのかなあ」
「それにしても退屈だろうな」
「いや、退屈という感覚が無いのかも知れない」
などと思っているうちに、亀が可哀そうになり、「人間に生んでもらって良かった。だから勉強(退屈しのぎではなしに)しなきゃあー」と考えるようになりました。
その後、庭の模様も幾分変り、亀も何時の間にか居なくなり、今は仙水には大小合せて数十尾の緋鯉がいます。
彼等の行動に特別のことは無いように思いますが、来客などと、庭の傍の廊下を通る時、張出した濡れ縁から、餌を投げ与えることがあります。
ところが、そんな時に感じる大きな鯉たちのあつかましさ、あさましさ!!
一番大きな鯉は全長が6~70センチ、その他、そこそこに大きく、腹がはち切れそうによく肥えているのが10尾ぐらい。他は大体、この池で生まれた鯉で、今のところ全長15センチぐらいでしょう。
しかし彼(彼女?)等がもっと小さかった時でさえ、小豆ほどの大きさに固めた餌が口に入りかねるほどの彼(彼女)等小魚を押しのけて、水面に浮んだ餌に 真先きに飛びつき、大口を開けて喰いまくるのは、大きな鯉たちなのです。もしかしたら自分の子供かもしれない小魚たちに餌を、せめて順番だけでも譲ってや る気など、全然ありませんね。
これが、畜生の姿だと思います。
なお、仏教には六道(六趣)輪廻などと言って、下から地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天(神々)という迷いの世界を、生れ変り死に変るという思想があ るのですが、佛の世界は迷いの世界ではありません。だから、そこには、地獄、餓鬼、畜生など、三悪趣といわれる世界(生き物)も居ないはずなのですが、因 みに、畜生の中に入る獣類、鳥類、魚類、虫類のうち、鳥の姿はある。では、亀は?魚は?ということになるのですが、それは無い。極楽の蓮池には、魚も亀も 居ないようなのです。
では何故、鳥が、ということになりますが、極楽世界には美しい白鵠(こうのとり)、孔雀、鸚鵡、舎利(美声で鳴く)、迦陵頻伽(人面鳥身)、共命(双 頭)などの諸鳥(『仏説阿弥陀経』による)が、また、鳧(かも)、雁、鴛(おしどり雄)、鴦(おしどり雌)などの水鳥(『仏説観無量寿経』による)が居ま す。
しかし、これらは実の鳥ではなく、美しい声で仏法を説かせ、それを聞いた人々に念仏、念法、念僧の思いを起させるために、仏が化作(仮に作り出)されたものなのです。
魚や亀は、仮に化作されても法は説けませんから、極楽の池には居ない筈なのです。
池もいろんな事を私たちに教えてくれますね。
なお、浄土真宗のお寺の本堂の、特に内陣は、み仏(阿弥陀如来)の国、お浄土(極楽世界)の姿を、少しでも多く表現しようとした努力のあらわれなのです が、その中央、御本尊を安置した須弥壇の前に、仏華やローソク立などを置いた、間口2~3メートル、高さ1メートル前後の大きな卓がおかれていて、その卓 (前卓)の前・側面(外陣から見える部分)に、上段には阿弥陀経の六鳥が6パネルに、下段には観無量寿経の水面が4パネルに、極彩色の彫刻で表現されてい る場合があります。
私たちは、この卓を六鳥型と呼んでいます。
彼(彼女?)は毎朝、そのスッポンの頭の上に出てきて池の方に向き、首をありったけ上方に伸して、そのまま夕方まで、じっとしているのです。
何か餌を投げると、ゆっくり水の中に入ってそれを喰うのですが、それ以外は殆んど不動の姿勢です。
「何もすることが無いのかなあ」
「それにしても退屈だろうな」
「いや、退屈という感覚が無いのかも知れない」
などと思っているうちに、亀が可哀そうになり、「人間に生んでもらって良かった。だから勉強(退屈しのぎではなしに)しなきゃあー」と考えるようになりました。
その後、庭の模様も幾分変り、亀も何時の間にか居なくなり、今は仙水には大小合せて数十尾の緋鯉がいます。
彼等の行動に特別のことは無いように思いますが、来客などと、庭の傍の廊下を通る時、張出した濡れ縁から、餌を投げ与えることがあります。
ところが、そんな時に感じる大きな鯉たちのあつかましさ、あさましさ!!
一番大きな鯉は全長が6~70センチ、その他、そこそこに大きく、腹がはち切れそうによく肥えているのが10尾ぐらい。他は大体、この池で生まれた鯉で、今のところ全長15センチぐらいでしょう。
しかし彼(彼女?)等がもっと小さかった時でさえ、小豆ほどの大きさに固めた餌が口に入りかねるほどの彼(彼女)等小魚を押しのけて、水面に浮んだ餌に 真先きに飛びつき、大口を開けて喰いまくるのは、大きな鯉たちなのです。もしかしたら自分の子供かもしれない小魚たちに餌を、せめて順番だけでも譲ってや る気など、全然ありませんね。
これが、畜生の姿だと思います。
なお、仏教には六道(六趣)輪廻などと言って、下から地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天(神々)という迷いの世界を、生れ変り死に変るという思想があ るのですが、佛の世界は迷いの世界ではありません。だから、そこには、地獄、餓鬼、畜生など、三悪趣といわれる世界(生き物)も居ないはずなのですが、因 みに、畜生の中に入る獣類、鳥類、魚類、虫類のうち、鳥の姿はある。では、亀は?魚は?ということになるのですが、それは無い。極楽の蓮池には、魚も亀も 居ないようなのです。
では何故、鳥が、ということになりますが、極楽世界には美しい白鵠(こうのとり)、孔雀、鸚鵡、舎利(美声で鳴く)、迦陵頻伽(人面鳥身)、共命(双 頭)などの諸鳥(『仏説阿弥陀経』による)が、また、鳧(かも)、雁、鴛(おしどり雄)、鴦(おしどり雌)などの水鳥(『仏説観無量寿経』による)が居ま す。
しかし、これらは実の鳥ではなく、美しい声で仏法を説かせ、それを聞いた人々に念仏、念法、念僧の思いを起させるために、仏が化作(仮に作り出)されたものなのです。
魚や亀は、仮に化作されても法は説けませんから、極楽の池には居ない筈なのです。
池もいろんな事を私たちに教えてくれますね。
なお、浄土真宗のお寺の本堂の、特に内陣は、み仏(阿弥陀如来)の国、お浄土(極楽世界)の姿を、少しでも多く表現しようとした努力のあらわれなのです が、その中央、御本尊を安置した須弥壇の前に、仏華やローソク立などを置いた、間口2~3メートル、高さ1メートル前後の大きな卓がおかれていて、その卓 (前卓)の前・側面(外陣から見える部分)に、上段には阿弥陀経の六鳥が6パネルに、下段には観無量寿経の水面が4パネルに、極彩色の彫刻で表現されてい る場合があります。
私たちは、この卓を六鳥型と呼んでいます。
コメントする