なお修行者でも壊色(えじき)を用いない宗教もあります。
お釈迦さまの頃、インドには、伝統的なバラモン教以外に、さまざまな宗教、哲学が起りました。その数はすこぶる多く外道は62種あったとも95種あったとも伝えられています。そしてその代表的な六派を六師外道と呼び習わしていますが、その六師の一つとして尼乾子(ニガンタ、ニルグランタ)という一派があり、教祖ヴァルダマーナをマハーヴィーラ(大勇者)あるいは勝者ジナ(迷盲に打ち勝った者)と崇めたことから、この外道を一般にジャイナ教と呼んでいます。
ジャイナ教は極端に殺生をきらい、信者は虫などを殺す恐れのある農耕を避け、専ら商業にいそしみました。従って彼等は財力があり、ために、開祖以来ほぼ2500年、現在までジャイナ教は存続しています。但し信者数は全人口の1パーセント程度ではないでしょうか。
さて、このジャイナ教ですが、殺生の他に"無所有"(物を持たぬこと)も強調されました。従って修行者は衣服も持たない。というわけで、当所は裸形の修行者の集団だったのです。前記のジナやその他の聖者の往古の大小のオールヌードの石彫立像も沢山残っています。中で一番有名なのはデカン高原の中央部、航空機をはじめ、インドの精密工業の中心地として名高いバンガロール市の西方約130キロ、シュラヴァナベルゴーラのヴィンドヤギリという、高さ150~160メートルの岩丘の頂上に立つ、身丈17.5メートル(一説には19メートル)の立像(10世紀)でしょう。
ところが、紀元前300年ごろには白衣を着用する者たちがあらわれ、これが白衣派と呼ばれ、次第に在来の裸形派、すなわち空衣派と分裂したと伝えられます。つまり修行者でも壊色(えじき)ではなく、白衣着用者も居るということです。
2009年10月アーカイブ
『仏説阿弥陀経』というお経に、極楽世界の蓮池に、車輪のような大きさの蓮の花が咲いていて、青色の蓮は青い光を放ち、黄色の蓮は黄色い光、赤い蓮は赤、白い蓮は白い光を放つ(青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光)と説かれていますが、この青黄赤白が正色。正色としてもう一つは黒ですが、黒い蓮はありません。
では、その五正色の中間の色、たとえば茶色とか鼠色とかはというと、これらは一括して"カシャーヤ"つまり壊色(えじき)と呼ばれます。仏教の僧侶だけでなく、バラモン教、ヒンズー教などの修行者も、このカシャーヤ色の衣服を着用していたのです。
このカシャーヤという言葉が"袈裟"と音訳されました。だから「袈裟」とは品物の名前ではなく、「色」の名前なのです。
そして、現在もタイ、ビルマなど南方仏教圏の僧侶が着用している法衣は、一見、黄色に見える場合もありますが、厳密には黄色ではありません。すべてこの壊色(えじき)(赤黄、赤茶、黄茶)なのです。
なお現在では何か適当な染料で白布を染めていると思われますが、かつては樹木の根、皮や牛糞(牛は聖獣)で染めたようです。
お釈迦さまは29歳の時、王子という地位も家族も、何も彼も棄てて出家されたと言われています。
その時、お釈迦さまは、カンタカという馬に乗り、馬丁チャンナが附き従いました。
しかし、国境付近の川辺に到達した時、馬を降り、頭髪やひげを剃り落し、チャンナの着ていた粗末な衣服と交換してチャンナとカンタカを城に還し、そこからいよいよ修行者としての道を歩み始められたそうです。
だから最初はチャンナの着ていた衣服を着ておられた。ではその後、修行者としては?
当時、インドの修行者の一群は、たとえば裸形外道といって裸です。これも褌ていどのものを身につけている人びとと、全くの素裸が居ました。現在でも居ます。
衣類は、現在のヒンズー教の修行者にはクルタ(ちょっとカッターシャツに似た形の大きな上衣)と、ピジャマまたはパジャマと呼ばれるダブダブのズボンのようなのをはいている者も居り、下半身は腰巻、上半身は縦横1.5メートル~2メートルぐらいの布片を身につけている者もあり、宗派や教義によって異ります。但し色は赤黄色。一般在家の人たち(白布、白衣)と、ここが異なるのです。
このような服装は、お釈迦さま当時と、2500年後の今日も、多分、ほとんど変っていないようです。だから本格的な修行に入られて以後、お釈迦さまは裸形ではなく、おそらくは染色した布で腰を巻き、上半身も同様な色の布で覆っておられたと思われます。お釈迦さまが修行中、あるいは菩提樹の下で悟りを開かれた時の有様を画いた絵も彫刻も、そのような姿に画かれています。
悟りを開き、大勢のお弟子ができて後も、みんな同様な服装だったことでしょう。
まず南インドの服装ですが、男性も女性も上半身を覆うことは殆んど無く、専ら下半身を覆っていたようです。
西インド、デカン高原北部のアジャンター石窟寺院群の各所に残る5~6世紀の壁画にその様子が見られます。
即ち女性は僅かに腰部のみを覆い、男性も殆んど膝上程度の腰巻着用です。
特に男性は近年まで、日常はルンギーと呼ばれる白木綿の一種の腰巻のみを着用していました。ルンギーはビルマではロンジと言い、両端を縫い合せて筒状にし、男女共にそこへ腰から下を入れます。男性は上縁の両はしを一たん外側に引っぱっておいて、その端を腹の前で腰部に挿しこみ、女性は上縁を片側だけ引っぱって、やはりその端を腰部にはさみこみます。
これに対し北インドでは、男性は幅約1メートル、長さ4~5メートルの白木綿製の布を、前に襞をとりながら腰に巻きつけて端を臍のあたりで腰部に挿しこみ、襞の部分の下端は股をくぐらせて背後に回し、後腰の部分に挿しこんでいました。
なお、股くぐりの部分を多くとると後腰に挿む部分も多く、全体として丈が短く、遠目には半ズボンのように見えます。この方が活動し易く、農夫など労働者に好まれるようです。
女性の場合は、同様な大きさの布(但し未亡人は白木綿、それ以外は色地。絹地に金、銀などを特に両縁のデザインに織り込んだものもある)を、最初は矢張り腰に一巻きした後、前で7~8段の襞をつけながら腰に巻き、中途から右脇下を通って胸部を覆うように左肩に掛け、後背に垂らす。これがサリーです。
後背に垂らさず、頭に被ることもあります。
又、サリーの場合も、農婦などは、前の襞の部分の下端を股下を経て後背の腰の部分に挿し込むことが多いようです。
男性の上半身は、古くは縦1.5メートル、横幅2メートル余の白布を用い、まず一方の端で左肩を覆って先端を胸前に垂らし、他の端は背中を覆いつつ右脇下をくぐらせて、それを左肩に引上げて後背に垂らしたと考えられます。
これは地中海世界に於ける男性の服装ヒマテオン(ギリシヤ)やトーガ(ローマ)に通じます。
上記のような気象條件の中で一般社会の服装に準じて佛教・僧侶の衣服、つまり法衣も成立しました。気象条件がインドと比較的似ているスリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど南方仏教圏の僧侶の法衣は、今も古来の伝統が守られています。
その第一は、防寒です。この場合、上半身を覆うことが最重要課題だったと思われますが、その前に織物が発明されねばなりませんでした。織物こそは人類の最大の発明だったと言って良いと思います。そしてその織物を上半身に被せたのです。日本民族の場合は、やや広い織物の中央に穴を開けて首を通す、貫頭衣と呼ばれるものが、2000年も前、大陸との交渉が始った極く初期の頃の衣服だったようです。
もう一つは暑い地方の衣服で、これは衣服というよりも、主として腰部を守るためのものだったでしょう。何しろ腰は"身体(月)の要"ですから。
上半身を覆う衣服の方は目まぐるしい発展を遂げましたが、下半身の方はそれほどでなく、今も原始時代の様相をとどめている種族も少なくないようですね。
脚は犬猫でさえ、人間より早い。力は牛馬にも劣る。空は飛べない。水も苦が手、寒暑にも弱い。
そんな人間が、唯一優れているのが知脳なのです。
その知脳で、様々な弱点をカバーする道具を発明しました。その最たるものが「衣」だったのではないでしょうか。衣によって寒暑から、あるいは外敵からも身を守りました。更に衣によって自分を顕示し誇示することさえ行われるようになり、この何千年か前から始まった「衣」の文明・文化は、今も確実に変化しながら発展しています。
「衣」が無かったら、人間は熱帯か、せいぜい亜熱帯にしか住めません。人間に一番近い猿でさえ、温帯が居住地の限界ですね。そして温帯こそが過去5000年の華かな文明・文化の発祥地ですから、衣服が無かったら、地球の文明は今頃、どうなっていたことでしょう。
朝夕大分涼しくなって参りましたが、お元気ですか。私の方、相変らず多忙。昨16日も来客が3組、午前中に続きました。そして、一昨日上京したばかりなのに今日も午後から関西へ。面会の最初は音楽関係(女性の作曲家)、次はプロの劇団。輪番は僧侶や門徒の方がた以外にも様ざまな方にお目にかかります。
さて三番目ですが、年齢は40才台かなあ。マスコミ(民放)関係の仕事が御縁で、特に近年、浄土真宗の僧侶と知り合い、仏教の話を聞く機会が多くなった。そして自分も何か、心を病んでいる人びとのお役に立ちたいと思い、一念発起してカウンセラーの資格をとった。今回はその仕事で近くまで来たついでに立寄ったとのことでした。
ところで彼女、勿論美人ですが、身長169センチだそうです。その大柄な彼女、赤に近いピンク色のバラの花模様のワンピースを着てきたのです。近頃、赤は勿論、黄色などの明るい色の洋服も見かけることが稀なので、彼女が入ってきた時は一瞬びっくりしました。秘書室の制服姿の若い女子職員も驚いたのではないか。
それは兎も角、彼女は久しぶりだし、丁度お昼前だったので一緒に食事。その間に話題が服装にも及びました。
それにしても近頃の御婦人、特に若い女性たちの服装。形は様ざまですが、一様にその色合いの地味なこと、暗いこと。何故なのでしょう。
昔、景気が服装に反映するとの説を聞いたことがありますが、悪い景気、暗い世相を吹き飛ばすために、まず御婦人方に明るい色調の服装をお願いしたいものです。彼女もその心算で赤い服を着てきたそうです。
尤も明るいよりも黒っぽい服装の方が少しでもスリムに見えるという事はあるかも知れません。だから体形の自信の有無によって、どうぞ御随意に......。
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色調といえば、男性のサラリーマンも、きまったように黒や濃紺のスーツ。まるで街中が会葬者かその筋の人たちの行列といった異様な感じのする時があります。
勿論、ダークスーツは、砕けていないという点で、勤め人にとっては一番無難でしょう。しかし、昔むかし、"昼間から ダークスーツの 無粋者"とか言う川柳を見たことがあります。紺や黒は夜会用だというのです。尤も街中が茶やグレーでも、締りが無くて困るかも知れませんが、「社会を明るくする運動」の一環として、会社や役所でも組織的に考えていただけるといいのになと思ったりしています。
しかしダークスーツ・オンパレード以上に困るのは、若い男性(まともな職に就いていないのかも知れませんが)に多い、あの、汚い、ボロボロの服装です。無精髭、バサバサの頭髪、ズボンなんかでも、わざとなのでしょうが穴があいていたり、裾にボロが下っていたり。電車の中などで横に来られたら、不潔で、蚤など移されそうだから、私は離れた所へ移動することにしています。
それともう一つ、男性の室内着帽です。やや話はずれますが、エレベーター内で見知らぬ女性と二人きりになったとき、男性は、①まずポケットに手をつっこまない。②帽子を脱ぐ。③洋服のボタンをきちんととめる。④ドアーの前に面して立つ(女性の方を見ない)。そして、エレベーターが止ったら、レディーファーストを実行するのです。これが基本的なエチケット。男性の帽子は宝冠ではありません。
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そもそも服装は二つの方向性を持っている筈です。その一つは自分自身を寒暑などから保護し、更には自分の地位や力の示威運動の一環として飾る。もう一つは、他の人に失礼にならぬようにする。一人で部屋に居る時は素裸でも構わないが、少なくとも他人に接する場合は、自分自身あまり見苦しい姿は失礼です。相手とのバランスを考えましょう。これは夫婦や恋人同士の間でも必要な配慮でしょう。(私は亡妻と一緒に外出する時は、必ず事前に服装について打合せをしました。)
何年か前ですが、ある結婚式披露宴でのことです。花嫁の恩師だと紹介された男性が、ジーンズとトレシャツ姿で祝辞を述べた。一体、彼女、どの程度の学校を卒業したのかと、思い巡らせたことがあります。TPOを弁えない服装は、自分自身だけでなく、縁ある人の品性まで疑わせ、傷つけることになります。
それにしても数日前、「職活」(就職活動)をするために然るべき服装が無いとかいう人たちのことがTVで紹介されていましたが、社会に出るに当っては、他の事は二の次にしてでも、まず服装に気を配っておくべきでしょう。昔から「馬子にも衣装」などの諺もありますしね。
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ところで近頃の男性の服装で気になる点が幾つかあります。
その一は、いわゆるポケットチーフを用いている人が極めて少ないことです。
昔は背広の胸ポケットに万年筆などを挿している人が多かったが、これは野暮天などと言われ、今はほとんど無くなりました。
ところが万年筆が胸ポケットから消えて以後、平常の胸ポケットは空になったのです。 しかるに結婚式や葬儀となると、白いハンカチを挿している。胸ポケットはポケットチーフを挿すためのポケットなのですから、平常も挿したらよい筈です。
色は別に白に限ったことは無い。赤でも青でも、また無地でなく水玉その他の柄物でもいい。特にダークスーツのオンパレードの中で、ネクタイと共に、一人一人がポケットチーフで自分の個性を発揮できるなら、オフィスの雰囲気は、もっと変ったものになる。
みんなまるで、同じ鋳型から造られたロボットのような恰好で、思想で、携っている仕事には発展性はありません。但し、「目立たない」のが、サラリーマンの心得だというのなら、これはもう問題外でしょう。
それに、もし何かの席で、隣の女性が急にハンカチを必要とされたとき、もぞもぞとズボンのポケットから、それも多少汚れているかも知れないハンカチを差し出せるのか。さっと胸元の真新らしいチーフを差し出す用意があってもよい。私は未だそんな場面に出くわしたことはありませんが、一生に一度ぐらいはあるかも知れない。武士など、その一生に一度ある(抜かなければならない)かも知れない(無いに越したことの無い)大事に備えて、外出時には必ず重い大小二振を腰に挿していたのですから。
ポケットチーフは、もともとそのたった一度のための用意、つまり女性に対する男性としての配慮だった。それが我が身のアクセサリー、アクセントになっているとも考えられます。そして男性社会でお互いがネクタイや背広だけでなく、ポケットチーフの色も話題にするようになったら、オフィスはもっと明るくなるのではありませんか。
なお私自身のことで恐縮ですが、私は薄い絹のポケットチーフをいつも3枚入れています。たとえば白を芯にしてそれを青で包み、一番上は燕脂でくるみ、ポケットの縁から少しだけ見えるようにしておく。3枚あるとTPOで簡単に変えられる。また1枚だけだと薄いのでポケットの下にはまりこむことがありますが、3枚だと多少のボリュームも出来、はまりこまない。ちょっと何時も花を挿している様になりますね。
次にこれも好みの問題かも知れませんが、ここ1~2年、またペンシル・ストライプの背広が何十年ぶりかで復活していますね。ところが昔は、背広の柄とネクタイとカッターシャツの襟元とがシマシマ(縞々)にならないことが、まあ原則だと言われていました。例えば背広がストライプならネクタイは花柄か何か、カッターシャツは無地と、このように昔なら当然、誰もが知っていた、意識していた装いの原則が、曖昧になっていることが、今は多いですね。
その他、いわゆる"洋服"に関して些細な所かも知れませんが、基本的な約束事や留意点が忘れられたり無視されている場合が少なくない。これは渡来以後、既に百数十年経って、未だ日本人社会に"洋服"の文化が完全に消化されていないということではないでしょうか。
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しかし考えれば、その本来の意味や意義・目的を正確に深く見定めずに過していることが余りに多い。たとえば「佛教」という言葉は、それこそ何万遍も耳にしている。にもかかわらず、佛教とは何かを正確に話せる人は多くない。勉強している人は少ない。数珠(念珠)などについても同然です。
女性の服装から話は流れ流れて、ついにここまで来ました。今日は朝から真青な空に、秋の雲が美しく流れています。今日一日、いや、明日からも、どうぞお元気でお過ごし下さい。
小学校1年生の時のことでした。
放課後、しばらく校庭で遊んでいて、もう家に帰ろうと思い、教室に置いてあったランドセルを取りに行こうとしました。
運動場側から木造の校舎に入るには、コの字形の校舎の左翼に二つ、中央に一つ、右翼に三つ階段があります。それぞれ5~6段の石段があり、私たちの教室は、その最左翼の石段を上るのです。
私がその石段のところまで走って行った時、階段の上から3年生の女の子が一人、降りてきました。名前はもともと知りませんでしたが、彼女は小柄で、クラスでも一番小さな部類だったと思います。
ランドセルをかけ、何かを手に持ち、そうそう、白い広縁の帽子を被っていましたから、当時、8月1ヶ月の夏休みの前か後だった筈です。
丁度彼女が階段を降りきり、地面に足をつけた時、私は階段の下に到着しました。
そして、彼女を避けるか待つかすればよかったのですが、別に全く悪気などなく、ただ"ちょっと驚かせてやろう"ぐらいの気持ちで、とんと彼女に体当たりしたのです。
すると、2年下でも私の方が身体が大きいし、不意をつかれたからでしょう、彼女は階段に尻餅をつき、"わっ"と大声で泣き出しました。
私もびっくりしたのですが、それ以後、何か悪ふざけしようなど思った時、不思議に、あの時の彼女の顔が浮んで来て、やめてしまいます。全く予期しない、どんな重大な結果が生じるか知れないからです。
ちょっと中低くで、丸顔の、色の白い女の子でした。
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そう言えば同じ頃、空き地だった寺の横の砂地を、直径30センチ、深さも30センチほど掘り、上に新聞紙の被せて砂を少しかけ、まあ陷し穴を作り、すぐ下の弟をつれてきて、その数メートル手前から、目をつむって歩かせました。大人しく、言われた通りに歩いて行った彼は、忽ち穴に落ち、泣き出したので、これにもビックリしました。
あれから70年、ここ1~2年前、弟にその事を話したところ、何と彼も憶えていたようです。
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