2009年11月アーカイブ

I師の本葬儀②

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 〔I師の御先代- 浄土の妙音〕

 昭和29年の歳末近く、私を誰よりも可愛がり育ててくれた祖母が亡くなり、その本葬に当り、御本山からお差向けのお導師がI師の御先代だったのです。
 御先代は、どちらかと言えば小柄で、恰幅も、むしろ痩せ気味の方だったと思います。
 ところがその読経の音声の素晴しかったこと!
 当時、父が御本山の役職者だったこともあり、数十ヶ寺の招待御寺院に加えて、御本山から御会葬くださった方々も含めると、僧侶の数は、多分100人を越えていたと思います。
 然るにその中で、お導師の美しい、凛然と澄み切ったお声が、ずば抜けて聞えるのです。その時、私は思いました。"ああ、これこそが、お浄土の声なんだ"と。
 その後、生来、美声とは思えない私ですが、I導師のお声を思い出しては、少しでも浄土の妙音に近づきたいと努力してきた心算です。
 なお、読経は、私たちがみ仏に対して感謝の思いを表明する行為であることは御存知の通りです。
 しかし修行者としての質素な法衣を着用している場合もですが、特に金襴、錦の輝く袈裟・法衣を着用して読経する場合は、仏前という、此の世に仮に現れた浄土(仏さまが居られる所)で、み仏を讃える聖衆(菩薩)の役目をさせていただいている。つまり浄土の荘厳の一部になっていると私は考えています。だからそのために読経、作法(動作、行儀)その他各般にわたって、それに少しでも相応しくなるように、いささか努力、精進するのが僧侶の務めでしょう。私にそのような気持ちを芽生えさせて下さったのが、I導師だったのです。
 以来、55年、私がI導師のお寺で、御次代I師のお葬儀の導師をつとめさせていただいたのですから、私にとって、こんな有難い御縁はありません。

 昭和38年11月下旬から年末にかけて40日間、前門主御夫妻のインド、ネパール、ビルマ、タイの仏蹟、仏教遺蹟御巡拝のお供をさせていただきました。お供は私の父なども含めて9人。だから都合11人の旅行でした。旅には喜び、感激、苦難、ハプニングもいろいろあり、以来40数年たった今も、各所の記憶が鮮明です。
 ところがこの間に、前門主様御夫妻はじめ、お供の方がたも次々と亡くなられ、ここ7~8年間はI師と私と二人だけが生き残っていたのですが、そのI師が先般85才で逝去されました。そして、かねて何年も前から私も承っていたのですが、御遺言で私が本葬儀の導師を勤めさせていただくことになり、過日、日帰りではありましたが、参勤してまいりました。
 I師とは旅行以来、少くとも年に1~2度はお目にかかり、いろいろと御指導いただいたのですが、訪印のメンバーは、いよいよ私一人になってしまいました。当時の思い出を語る相手も居られなくなり、淋しい限りです。

 ところで、I師とは、このように40数年の御縁でしたが、実は今回の御葬儀の導師ということについて、また別の御縁があったのです。
 それはI師の御先代のことです。

計算

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  本山での会議で数日、ホテルに宿泊中のことです。
 夜、帰って来て、就寝前の入浴をと思い、タブの蛇口をひねりました。
 お湯がたまるのを居間で待つ間に、ふと原稿のことが気になり、シャープペンシルを走らせていて、はっと気がつきました。タブのお湯のことです。
 以前、何かで読んだことがあります。
 ホテルの居室で浴室のタブの蛇口を閉め忘れたために浴室に水が溢れただけでなく、下の部屋へまで漏り、弁償のために〇十万円とかを払った人がいる、と。
 「私も?」と、あわてて浴室にとびこみましたが、お湯はタブの縁の下、数センチの所まで達しているものの、丁度その高さに着けられている排水口から、ざあざあ音を立てて流れ出ています。これはタブの蛇口から流れ出る湯量の最大と排水口の排水能力とが、きちんと計算の上で万事が装置されているからでしょう。「やれやれ」。まことに「計算さま、ありがとう」でした。

   話は可成り迂回しましたが、仏教(だけに限らないかも知れませんが)の修行者=僧侶たちは、屡々、「塚間」に住んでいたと、経典に記されています。この「塚間」こそがシータ・ヴァナでしょう。運び込まれてきた屍体そのものが諸行無常のしるしですが、それが見る見るうちに様相を変えてゆく。それを目のあたり凝視するわけですから、これほど痛烈な修行も無いと思われます。
 さて、そのようにして遺体は白骨化される訳ですが、他に残る物があります。それは遺体が着用していた衣服、あるいは屍体を包んでいた白(男性用)または赤(女性用)の布です。
 これを拾い集め、先述のような長布に縫い合わす。そしてそれを更に幅広に仕立てる。こうして作られたのが仏教の僧侶の法衣だった。そして修行者の衣服ですから、当然、上記のどこかの過程で、修行者用に染色しました。
 但し、女性の遺体を包んであった赤い布は、当然、壊色(えじき)に染めることも難しく、また、女性用だった布を男性たる比丘が用いることはしなかった。従って染色されたのは、男性の遺体を包んでいた白い布だけだったことでしょう。
 なお、戒律の中には「未だ腐爛していない屍体の布は取ってはいけない」との條項があります。
 また、僧侶は六物といって三種類の法衣(後述)、托鉢用の鉢、坐具、漉水橐(水中の虫を飲み込まぬよう、水を漉すための布製の袋)のほかに、糸と針とは、特に旅する時には必ず携帯せねばならぬとされていました。出家者は金銭を所持しないのが原則でしたから法衣は買うのではなく、寄進か又は自分で作る以外に入手の方法はありませんでした。裁縫つまり法衣の仕立て、つくろいは僧侶が自ら行うのが原則だったからです。このようなことから、法衣はしばしば塚間衣、糞掃衣(ぼろ布で作った衣)、衲衣(縫い合せて作った衣)などと呼ばれました。
 なお、仮りに長尺の布を入手したとしても、それは、わざわざ一たん短尺に裁断してから縫い合わせました。だから仏教の法衣のことを割截衣とも呼びました。裁断してある布は、他に使い道が無く、従って盗難の恐れも無かったのです。

 勿論、立派な、仕立上った法衣を寄進されることも次第に多くなりました。
 現在ではタイなどの南方仏教圏では店頭で販売されており、筆者も何度かそれを買ったことがあります。

〈野葬〉
 野葬は風葬とも言われ、遺体を放置して風化させるものですが、これにも幾通りかがあります。

①30年~50年ぐらい前のことですが、インドを旅行している朝、車でホテルを出る。しばらく行くと道端で牛が倒れて死んでいる。そこに禿鷹が集まって来て、屍骸をつついている。
 少し離れた所で、烏(からす)が、自分たちの順番が来るのを待っている。ジャッカル(狼、狐、犬の混血みたいな感じ)も、うろうろしている。
 夕刻、見物を終えてホテルへ帰る途中、朝の場所を通ると、牛は完全な白骨になっている。「葬」(草の上に屍体を置いて、その上に草をかぶせる)とは言えないかも知れませんが、昔は人間の場合にも、似たようなことがあった筈です。

②西インド、アラビア海に面した海岸の大港都(人口1000万?)ムンバイ(旧称ボンベイ)。その郊外に、野球場などのスタジアムを小型にしたような直径30~40メートルぐらいの建物があり、「沈黙の塔」などと呼ばれていますが、ここはパーシー教徒(ペルシャ起源の拝火教徒、現在約20万人?)たちの墓場です。
 彼等は聖なる火や水や大地が屍体によって汚されると考え、火葬、水葬、土葬はせず、屍体をここに運んで放置する。その屍体を、やはり禿鷹などが喰うそうです。但し、異教徒は実見が許されません。上記は聞いた話です。

③インドの北、ヒマラヤの国ネパールの山地や、ヒマラヤの北側のチベットで行われてきた習慣だそうですが、肉親の遺体を山地へ運び、そこで執刀して遺体をバラバラにし、食べ易いようにして禿鷹に与える葬法です。約50年前、先般逝去された川喜田二郎氏の著書『鳥葬の国』によって有名になりました。

④お釈迦さまの時代の東インド、マガタ国の王都・王舎城(今のラジギル)は、周囲を高さ7~800メートルの峰々に囲まれた盆地の中にありました。そしてその市街の外れ、やや東北に、平地から2~30分徒歩で登ったあたりに岩塊があり、その頂上に人の背丈の4~5倍の高さの岩があり、その形が鷲の頭部のように見えるので、昔からこの岩塊のあたりを鷲の峰、即ちグリドラ・クータ[パルヴァタ](サンスクリット語)、ギッジャ・クータ(パーリ語)と呼ばれていました。その名称を漢字に音訳すると耆闍崛山になり、意訳すると霊鷲山になるわけです。
 ところで、ここがこの名で呼ばれるのにはもう一つ理由がある。それは、このあたりに鷲または禿鷹の類が住んでいるらしいのです。50年余り前、ここで昼弁当を開いている時、翼幅3メートルぐらいの巨鳥が飛来して頭上を舞い、ヒヤリとしたことがあります。
 シータ・ヴァナ(寒林)という言葉があります。これは屍体捨て場で、王都の郊外の、どこか霊鷲山の麓の方にでも屍体捨て場があり、そこに運ばれてくる屍体を狙う鷲、または禿鷹がこのあたりに住んでいたのでしょう。
 但し、シータ・ヴァナは、インド中でここ1ヶ所ではなく、実はあちこち、都市や村落のはずれにもあり、死人が出ると、貧乏で、遺体を大きな川辺まで運んだり、荼毘のための薪を買ったりするお金の無い人たちにとって、最も手近な葬法として、遺体を近くの森、林に運び捨てた。そこで屍体は鳥獣類によって白骨化され、あるいは少くとも自然に風化したのです。北インド、舎衛城付近のことと思われますが、子どもの遺骸が喰われているのを見た女性の言葉が仏典に出てきます。(『尼僧の告白―テーリーガータ』中村元訳、岩波文庫)

 インドでは葬送の仕方として、火葬、水葬、野葬の三種があったとの報告が、三蔵法師玄奘によって為されています。
 玄奘(602-664)は中国、初唐の人。629年から645年にかけて足かけ17年に亘ってインドに単身求法した。その旅行記が『大唐西域記』12巻です。
 明の時代に作られ、猿の怪物・孫悟空などが活躍する小説『西遊記』は、これに基いています。
 なお、上記の三葬の他に、10世紀頃に西方から回教徒が侵入して以来、土葬が加わります。
 〈火葬〉
 さて、まず火葬ですが、長さ2メートルほどの太い薪木を高さ1メートル弱の井桁状に積んでその上に遺体を置き、荼毘に付することで、今も北インド、ガンジス川の沐浴風景で有名な宗教都市ベナレスの、そのガンジス川畔だけでも、50年前毎日、数十体が焼かれていました。当時4億だったインドの人口が今は12億に近いそうですから、ベナレス周辺の人口(50年前は約50万)も、従って葬送の数も、もっと増えていることでしょう。なお荼毘とは「ジャーペーティ」(火葬)という梵語(インドの古語)を漢字で表現したものです。
 〈土葬〉
 次に回教徒が行う土葬とは、遺体を土中に埋めること。これには柩が用いられています。 また一般人は広い墓地に埋めて、その上に標識を置くだけですが、王侯貴族の場合は、柩を地中に埋め、その上に立派な殿堂を建てます。その最も代表的なのが、タージ・マハルです。

タージマハル.JPG













 インドの首都デリー市の東側を流れるヤムナー(ジャムナー)川は、うねうねと遙か東南方に700~800キロ流れ、アラハーバード市の東郊で、同じく西ヒマラヤから流れてきたガンジス(ガンガー)川に合流して、ヒンズー教の大聖地"ガンガー・ジャムナー・サンガム=合流点"を形成し、以後はガンジス川になります。
 ところで、その途中、デリーから200キロほど南下した地点でも、流れを急に東に変える所があります。その左旋の直前の右岸、つまり西側に、ムガール帝国(1526-1858A.D)第3代アクバル大帝(1542-1605A.D)は、8年がかり(1565-1573A.D)で、東西600メートル、南北800メートル、赤砂岩を主体とした華麗な大城(アーグラ城)を建設しました。

 大帝の死後、ジャハンギル帝を経て帝王を継いだシャー・ジャハン(1592-1666A.D、在位1628-1658A.D)は、愛妃ムムタズ・マハルと共に栄華の日々を送っていましたが、彼女は1629年、14人目または15人目の出産の産褥熱で急死します。39才でした。
 戦陣にまで同伴し、片時も離さないほどムムタズを愛していたシャーは愛妃のために、1631A.Dから1652A.Dまで、実に22年の歳月をかけ、帝国の財力を傾けて、世に比類無き廟墓を建立しました。これがタージ・マハルです。タージは、ヤムナー川が東流に転じた直後の、やはり右岸に建てられました。アーグラ城からは直線で約2キロ、ヤムナーの流れを前景にして、つい目と鼻の先に望むことが出来ます。
 工事には毎日2万人が動員され、主要な建築資材・白大理石は、数百キロ離れた産地から運搬されたそうです。
 廟墓には、ヤムナー川の南岸に沿った、間口300メートル、奥行550メートルの地が当てられ、砂岩の塀壁で囲まれています。(以下、寸法を示す数字は資料によって多少異なります。大略とお考え下さい。)
 巨大な箱型の、赤砂岩造りの正門を入ると、回教圏式の左右対称の整然とした中庭が展がります。その先に約100メートル四方、高さ7メートルの総大理石造りの基壇が設けられ、その中央に平面が60メートル四方で四隅を大きく切り落して八角形に近い、高さ約33メートルの主堂が建てられ、その天井に径17.5メートル、高さ25メートルのドームが造られ、ドームの頂上には、黄金色に輝く尖柱が立てられています。地上からの総高は約80メートルです。
 また基壇上の四隅には、高さ約45メートルの尖塔(ミナーレ)が建築されています。
 基壇も含めて廟堂の内外壁など全ての構築物には品質の優れた白大理石を用い、主堂は偶像崇拝を禁止する回教教義に従って専ら草花または幾何学文様および美しくデザインされたコーラン(聖典)の聖句によって、赤、緑、青、黒(瑪瑙、エメラルド、サファイヤ、オニックス)などの宝石、貴石の象嵌を用いて装飾されました。象嵌は石の継目が手触りではわからない程の高度の技術が駆使されています。
 詳細は省略しますが、堂内中央に基壇を設け、そこには、やはり美しい象嵌で装飾された白大理石製のムムタズの柩、その傍に、後に加えられたシャージャハンの柩が安置されています。しかしこれらは中空で、実はその真下、床面が地上レベルに相当する地下室に、全く同様に基壇を設け、本物の柩が置かれています。だから通常の意味での土葬、埋葬とは言えません。

 国費を傾けたシャー・ジャハンは、その後、病を得、三男のアウランガゼーブによって王位を簒奪されて、城内に幽閉され、以後、遙かに廟墓を望見しつつ孤愁の晩年を過したと伝えられています。
〈水葬〉
 水葬とは例えば遺体に40センチ×50センチ×10センチぐらいの重石を結びつけて、川や池などに沈める(棄てる)。
 その実態は、これも前述のベナレスのガンジス川で、今も時折り見かけますが、伝染病で死んだ人、妊婦、ヒンズー教徒としての入門式を終えていない、5才ぐらいから下の子供の場合が該当します。

  さて、このように仏教も含めて、出家修行者の服装は(例外もあったにしても)壊色で統一されていますが、他の修行者と比べて、仏教の僧侶の服装には決定的に異る点があります。
 それは、仏教以外の修行者が、原則として一枚の布を腰に、一枚で上半身を覆うのに、仏教の僧侶の法衣には田相といって、縦横に碁盤の目、あるいは田んぼの畦道のような筋(縫い目)がついていることです。
 何故、そうなのか、これについて二つの伝承があります。
 〈その1〉
 王舎城の城主でもあり、熱心な仏教信者でもあったマガダ国王ビンバシャラは或る時、道の途中で黄衣の修行者に出会った。王はその黄衣の人を仏教の僧侶だと思って、態々乗物から降りて敬礼したところ、相手は外道の修行者だった。
 そのことがあって後、王は釈尊に、外道とは異り、一目で仏教の僧侶だとわかる服装を制定してくださいとお願いした。これに基いて、お釈迦さまは、眼前に広がる田んぼの畦のように見える、いわゆる田相の法衣を制定された、というのです。
 しかし、この話は、おそらく後世の創作でしょう。
 〈その2〉
 お釈迦さまは、修行時代も仏になられて後も、物を非常に大切にされた。それで、身につけるものとしては、ボロ切れを数枚集めて縫い合せ、まず幅2~30センチ(或いは4~50センチ)、長さ1.5~2メートル前後の長布をつくり、同様な長布を5枚(五條)、7枚(七條)と横に縫い合わせて、幅広い布にし、それを身につけられた。
 なお古来、インドや中近東地域では、奇数、特に「七」などは聖(=正)なる数と考えられてきたようです。
 また当初はこのように先ず長布をつくり、それを何條か横に縫い合せただけのものだったでしょうが、それだけでは縫目などが綻び易い。また着用に際して引張られて力が掛かって破れる所もある。そこでそのような綻びなどを防ぐために、布片や條のつなぎ目に別布を当てがって強化したり、周縁を別布で保護することなどが行われるようになりました。

 ところで、このような布片を、どこで手に入れたか。比丘の中には、誰かが川や池の洗濯場近くの道端に干してある布を、捨ててあると勘違いし、持って帰ろうとして悶着を起した例もあるようです。このようなことから「不与取戒」つまり"与えられないものは取ってはいけない"という戒律「偸盗戒」も制定されたといわれています。
 しかし、古布を最も入手し易い場所としては、墓場があったのです。

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