〈野葬〉
野葬は風葬とも言われ、遺体を放置して風化させるものですが、これにも幾通りかがあります。
①30年~50年ぐらい前のことですが、インドを旅行している朝、車でホテルを出る。しばらく行くと道端で牛が倒れて死んでいる。そこに禿鷹が集まって来て、屍骸をつついている。
少し離れた所で、烏(からす)が、自分たちの順番が来るのを待っている。ジャッカル(狼、狐、犬の混血みたいな感じ)も、うろうろしている。
夕刻、見物を終えてホテルへ帰る途中、朝の場所を通ると、牛は完全な白骨になっている。「葬」(草の上に屍体を置いて、その上に草をかぶせる)とは言えないかも知れませんが、昔は人間の場合にも、似たようなことがあった筈です。
②西インド、アラビア海に面した海岸の大港都(人口1000万?)ムンバイ(旧称ボンベイ)。その郊外に、野球場などのスタジアムを小型にしたような直径30~40メートルぐらいの建物があり、「沈黙の塔」などと呼ばれていますが、ここはパーシー教徒(ペルシャ起源の拝火教徒、現在約20万人?)たちの墓場です。
彼等は聖なる火や水や大地が屍体によって汚されると考え、火葬、水葬、土葬はせず、屍体をここに運んで放置する。その屍体を、やはり禿鷹などが喰うそうです。但し、異教徒は実見が許されません。上記は聞いた話です。
③インドの北、ヒマラヤの国ネパールの山地や、ヒマラヤの北側のチベットで行われてきた習慣だそうですが、肉親の遺体を山地へ運び、そこで執刀して遺体をバラバラにし、食べ易いようにして禿鷹に与える葬法です。約50年前、先般逝去された川喜田二郎氏の著書『鳥葬の国』によって有名になりました。
④お釈迦さまの時代の東インド、マガタ国の王都・王舎城(今のラジギル)は、周囲を高さ7~800メートルの峰々に囲まれた盆地の中にありました。そしてその市街の外れ、やや東北に、平地から2~30分徒歩で登ったあたりに岩塊があり、その頂上に人の背丈の4~5倍の高さの岩があり、その形が鷲の頭部のように見えるので、昔からこの岩塊のあたりを鷲の峰、即ちグリドラ・クータ[パルヴァタ](サンスクリット語)、ギッジャ・クータ(パーリ語)と呼ばれていました。その名称を漢字に音訳すると耆闍崛山になり、意訳すると霊鷲山になるわけです。
ところで、ここがこの名で呼ばれるのにはもう一つ理由がある。それは、このあたりに鷲または禿鷹の類が住んでいるらしいのです。50年余り前、ここで昼弁当を開いている時、翼幅3メートルぐらいの巨鳥が飛来して頭上を舞い、ヒヤリとしたことがあります。
シータ・ヴァナ(寒林)という言葉があります。これは屍体捨て場で、王都の郊外の、どこか霊鷲山の麓の方にでも屍体捨て場があり、そこに運ばれてくる屍体を狙う鷲、または禿鷹がこのあたりに住んでいたのでしょう。
但し、シータ・ヴァナは、インド中でここ1ヶ所ではなく、実はあちこち、都市や村落のはずれにもあり、死人が出ると、貧乏で、遺体を大きな川辺まで運んだり、荼毘のための薪を買ったりするお金の無い人たちにとって、最も手近な葬法として、遺体を近くの森、林に運び捨てた。そこで屍体は鳥獣類によって白骨化され、あるいは少くとも自然に風化したのです。北インド、舎衛城付近のことと思われますが、子どもの遺骸が喰われているのを見た女性の言葉が仏典に出てきます。(『尼僧の告白―テーリーガータ』中村元訳、岩波文庫)
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