孤独居といえば私の旧制中学時代の学友で、K君というのが居ます。2年生ぐらいの時、御父君の仕事の関係で東京の中学から転校してきたので、江戸っ児→ドッコまたはドッコイという仇名でした。
英語や国語など、文系の勉強ばかりしていて、終戦になってからは、神戸に駐留していた米軍のキャンプにしょっちゅう遊びに行って英語の実力をつけ、そのうちに渡米して彼地の大学を卒業。引続き在米して、テキサス州のいくつかの小都市の名誉市民になりました。1960年代に久方ぶりの帰国に際しては、僕も仏教徒だからと、インド経由で仏跡を巡跡して来たよと手紙に書いてきていました。
その後、経歴と力量を買われて、様々な分野で活躍。著書も6~70冊になるようです。
その彼と、在京同級生3~40人が折々に開催している昼食会に、私が上京して間も無く呼ばれてスピーカー(話し手)になった時、久しぶりに出会い、その後、西下の際、たまたま大阪へ講演に行く途中の彼と、新幹線で同じ車両になり、実に何十年ぶりかで2時間半、しゃべりました。
然るに今年の春頃かな、そのK君がスピーカーを務めるというので、私も繰り合せて上記の会に出席したのですが、開会時刻の少し前になって幹事が電話で確認したところ、「忘れていた」という返事で、結局、来なかった。彼はいわゆる独居老人。身辺で日程に関して注意してくれる人が居なかったのです。
その後、都下の某御住職の話では、どうやら弟さんの所に寄寓するようになったとか、まあそれで一応良かったと、胸を撫で降しました。
2009年12月アーカイブ
12月4日、午前5時、目が醒めてトイレに行きました。何時ものように、このまま起きて読書をしようかと思ったのですが、昨夜も就床が零時を回っていたし、身体も休められる時に休める方がいい。起床時刻の午前6時までもう1時間ある。幸いに眠れたら、そうしよう、と考えて、ベッドに戻りました。
程無く眠ってしまったのでしょう。何か割合楽しい夢を見ていたようですが、気がついて目覚し時計を見たら、7時10分前。一瞬、ああ丁度良い時刻に目が醒めた(自坊の朝の勤行は7時半からなので)と思ったが、ここは築地別院だったのです。
せめて6時半だったら何とかなったかも知れませんが、この時刻ではもう間に合いません。係に電話して、寝坊、欠勤の旨、通知しました。
ところで何故、ちゃんとセットした筈の目覚し時計が聞えなかったのか。実は私、右の耳が殆ど聞えないのです。
私は小学生の頃から、屡々耳鼻科のお医者さんに通いました。少し良くなったらさぼって、また悪くなる、の繰返しで、自坊の在る西宮市内だけでなく、良いと聞いては東隣の尼崎市のお医者さんにまで通ったことがあります。
そのうちに、市内の総合病院が評判だということで通院しようとしたのですが、学校があるし、病院は夕刻、外来患者の診察はしません。そこで夜分、先生の御自宅で治療していただくことになり、週に1~2回お邪魔しました。
長身で、スマートで、ハンサムで、優しい先生で、容態も丁寧に説明して下さる。「上鼓室化膿症」という病名も、先生から教わったのです。治療後も、しばしば、いろんな話題で、話がはずみました。
しかし戦争の激化で何時しか足が遠のき、戦後、大学2年生の学年末試験期に、突然猛烈な鼻血が出て、またまたお世話になりましたが、丁度その頃、チベット語の佛典の版本(例えば上下約15センチ、横幅約50センチ、横書き6~7段、赤や黒字で表裏印刷)の一部を学校から借り出したことがあり、巷間には珍しいものなので、持参して御覧に入れ、大へん喜んでいただいたこともあります。
しかし結局、怠慢な患者の耳疾は完治せず、以来60年近く、自分自身の多少の不便と共に周囲の方がたには御迷惑のかけっ放しで、今に至っています。
数年前、鼓膜は簡単に張り替えられるよと言われて、(その頃、先生はもう御在世ではなかったので)別のお医者さんに相談したら、入院約1週間とのこと。せめて2~3日ならよいが、1週間なんて悠長なことはしていられない。
まあ、そんなことで、聞える方の耳を下にして寝ていて、目覚し時計が聞えないことが、これまでにも年に一度ぐらいありました。自坊では別棟で独り起居しており、内線の電話などで呼んでも受話機をとらないので、若院が見に来てくれたこともあります。
さて、寝坊の朝は流石に身体が軽い。しかし8時50分からの朝礼の最後に、職員たちにあやまっておきました。そして最後に一言、つけ加えました、「孤独死ということもあるな」と。
私の場合は恐らく孤独死ということは無かろうと思っているのですが、近時、遺体の発見は「死後約○日経過」というような話を、あちこちで聞きます。まことに気の毒なことですが、しかし孤独死だけでなく、孤独居、孤独生は、それ以上に辛いかも知れない。それを何とか無くせないものか。特に精神的孤独、孤立感から凶悪犯行に及ぶ例が、近年少なくないようです。
家庭でも職場でも、出来るだけお互いにいたわり合う環境作りが大切ですね。
法衣を着用するに当って、紋袴をはこうとして片方に両足を入れてしまいました。横から注意されて、あわててはき直したのですが、その時、昔のことを想い出しました。
昭和10年前後、私の故郷、兵庫県西宮市(大阪と神戸との丁度中間)には、商店街に近く、劇場が三つありました。
一つは「花月」(大阪や京都に同名の有名な劇場があったと思います)、二つ目は「戎座」(西宮の起源、戎神社に因んだ名前でしょう)、三つ目が「敷島劇場」。このうち「敷島」は既に西洋風の外観になっていましたが、他の二つは昔風の芝居小屋という感じ。それでも戎座の方は敷島と共に映画専門になっており、どちらかと言えば日活系、阪妻(今の俳優田村高広氏の父君)や嵐寛さんなどが活躍する時代劇が多く、敷島は松竹系の現代劇で、田中絹代、高杉早苗、三宅邦子等々が活躍していました。
尤も昭和十年は未だ無声時代で、大きなスクリーンの下、向って右側に、見台ほどの座卓を置いてスクリーンと直角の方向に向って坐った弁士が、時々、スクリーンを見上げながら、独特の声音、節回しで、弁じていました。
間も無くトーキーになり、商店街の中央近くにあった警寮署が阪神国道(現在の国道2号線)沿いに移転した跡地に「東宝」系の映画館が建ちました。
多分、昭和14年夏のノモンハン事件が舞台だったかと思いますが、97式戦闘機を主人公にした名画「燃ゆる大空」は、ここで観たと思います。素晴しい、同名の主題歌は、今も時々、口ずさんでいます。
一方、ずっと芝居小屋だった「花月」には幼稚園時代に時々、祖母や乳母につれられて、漫才を観に行きました。とに角、おもしろかったのです。
そんな中で或る日の舞台。男女2人の組合せだったと思います。向って右側が紋付袴姿でした。ところが中途で、何かの拍子に後を向いたら、何と袴は前だけ。後姿は白いパンツでした。袴の前後を合せ、腰板を倒して、お相撲さんの化粧回しのように、前にかけていたのです。
ついでに、もう一つ。やはり男女一組の漫才師。何か言い負けると、筆で顔に墨の線を引かれる。負けっ放しだった男の方が、そのうちに、「ここらで一ぺん、かお拭いてきまっさ。」といって舞台の袖から楽屋の方に入ろうとしたら、相方が「あっ、わて(私)が、拭いたげ(拭いてあげ)まっさ。」
といって、手の平で相手の顔をなでまわした。客席の方に向けた顔は、一面真っ黒。
これにはお腹が捩れるほど笑いました。
法要の後で、上記の漫才の想い出を話したところ、副輪番が「それは75年前のことでしょう」
と言います。数えてみると、成るほど、ほぼその通り。
「幼い頃のことで、いつまでも憶えているものがあるね」
ということになりました。いや、今年で75年ですが、あと何年生きるかわからないとしても、若しかしたら生涯忘れないかも知れません。「三つ子の魂百まで」という諺もありますしね。
何故、こんなつまらないことを書くのかと言うと、世の中の、幼いお子さんをお持ちのお父さん、お母さん、その他、ご家族の皆さんに、お子達が生涯忘れないような素晴しい印象、記憶、思い出を沢山持たせてあげてほしいと思うからです。
どうぞ、よろしくお願いします。
インドの首都デリー市の東側を流れるヤムナー(ジャムナー)川は、うねうねと遙か東南方に700~800キロ流れ、アラハーバード市の東郊で、同じく西ヒマラヤから流れてきたガンジス(ガンガー)川に合流して、ヒンズー教の大聖地"ガンガー・ジャムナー・サンガム=合流点"を形成し、以後はガンジス川になります。
ところで、その途中、デリーから200キロほど南下した地点でも、流れを急に東に変える所があります。その左旋の直前の右岸、つまり西側に、ムガール帝国(1526-1858A.D)第3代アクバル大帝(1542-1605A.D)は、8年がかり(1565-1573A.D)で、東西600メートル、南北800メートル、赤砂岩を主体とした華麗な大城(アーグラ城)を建設しました。
大帝の死後、ジャハンギル帝を経て帝王を継いだシャー・ジャハン(1592-1669A.D、在位1628-1658A.D)は、愛妃ムムタズ・マハルと共に栄華の日々を送っていましたが、彼女は1629年、15人目の子の出産の産褥熱で急死します。39才でした。
戦場にまで同伴し、片時も離さないほどムムタズを愛していたシャーは愛妃のために、1630A.Dから1652A.Dまで、実に22年の歳月をかけ、帝国の財力を傾けて、世に比類無き廟墓を建立しました。これがタージ・マハルです。タージは、ヤムナー川が東流に転じた直後の、やはり右岸に建てられました。アーグラ城からは直線で約2キロ、ヤムナーの流れを前景にして、つい目と鼻の先に望むことが出来ます。
工事には毎日2万人が動員され、主要な建築資材・白大理石は、数百キロ離れた産地から運搬されたそうです。
タージマハル
廟墓には、ヤムナー川の南岸に沿った、間口300メートル、奥行550メートルの地が当てられ、砂岩の塀壁で囲まれています。(以下、寸法を示す数字は資料によって多少異なります。大略とお考え下さい。)
巨大な箱型の、赤砂岩造りの正門を入ると、回教圏式の左右対称の整然とした中庭が展がります。その先に約100メートル四方、高さ7メートルの総大理石造りの基壇が設けられ、その中央に平面が60メートル四方で四隅を大きく切り落して八角形に近い、高さ約33メートルの主堂が建てられ、その天井に径17.5メートル、高さ25メートルのドームが造られ、ドームの頂上には、黄金色に輝く尖柱が立てられています。地上からの総高は約80メートルです。
また基壇上の四隅には、高さ約45メートルの尖塔(ミナーレ)が建築されています。
基壇も含めて廟堂の内外壁など全ての構築物には品質の優れた白大理石を用い、主堂は偶像崇拝を禁止する回教教義に従って専ら草花または幾何学文様および美しくデザインされたコーラン(聖典)の聖句によって、赤、緑、青、黒(瑪瑙、エメラルド、サファイヤ、オニックス)などの宝石、貴石の象嵌を用いて装飾されました。象嵌は石の継目が手触りではわからない程の高度の技術が駆使されています。
詳細は省略しますが、堂内中央に基壇を設け、そこには、やはり美しい象嵌で装飾された白大理石製の柩が安置されています。しかしこれは中空で、実はその真下、床面が地上レベルに相当する地下室に、全く同様に基壇を設け、本物の柩が置かれています。だから通常の意味での土葬、埋葬とは言えません。
国費を傾けたシャー・ジャハンは、その後、病を得、三男のアウランガゼーブによって王位を簒奪されますが、城内に幽閉され、以後折々に、城内のテラスから遙かに廟墓を望見しつつ孤愁の晩年を過したと伝えられています。
買物に行って、"壁に懸っているあの品を"と言いましたら、店長が"色違いがありますから"と言って、中堅クラスの店員が、倉庫に取りに行きました。
待っている間、店内の書棚の雑誌を手にとったりしていたのですが、店長は何度も、「どうぞお椅子に」と気を遣ってくれます。
しばらくして数点もって来てくれたのですが、結局、最初の一点が気に入り(おばあさんに差上げるので、赤味を帯びたものの方が良かろうと考え)それを買うことにしました。 さて、包装という段階になって、件の店員は倉庫から持って来た数品を、まず元の箱に納めます。そして、納め終ってから、やっと私の品物の包装です。
折角の店長の気遣いも、店員のこの応接でぶち毀しです。
それにしても、店長が気の毒なのか、指導、監督不充分なのか、何れにしても他人事ではないと思いました。
勤務が終って役宅(職員の集合住宅)まで帰ってきたところ、階段の前で、二児づれの若い職員の妻君と出会いました。
お姉ちゃんの方が、「こんにちは!」と言ってから、夕方だからと気がついたのか、「こんばんわ!」と言い直しました。
丸顔の、可愛い子。前歯が一本抜けています。
「歯が一本、抜けているね。」というと、
「うん。」
ちょうど乳歯が生え替る年頃のようです。
「じゃあ、バイバイ、おやすみ。」
と言ってから、
「あまり遅くまで遊んでなくて、早く寝んねするんですよ。」
と言うと、さっと顔が引き締りました。
「ありがとうございます。」
とお母さん。さては、いつも母さんから言われているんだな、と思いました。
それにしても、こちらの一言で顔色が変るとは。「子供は純粋で、いいな。」と嬉しく思いました。
さて、I師のお寺への往路は新幹線で、関東平野を南から北へ縦断するかのように進み、青函海底トンネルに次ぐ、日本で2番目に長いとか言われるトンネルを抜け、やがて在来線で日本海に沿って走ったのですが、途中の風景からもいろいろ感じるものがありました。 例えば山際に身を寄せ合うように、数十基の墓石群が見えるところがあります。おそらくは近くの村落の人びとの墓地なのでしょうが、何十年か、お互いに声をかけ、援け合いながら生涯を送り、生命が終って更に何十年、何百年も同じ墓地に納骨される方がたは、よくよくの御縁なのでしょう。
また、海岸近く、可成りの距離に亘って松その他、無数の樹木が、言い合せたように、陸の方に傾いている姿からは、今はまだいいとして、冬の汐風の強さ、厳しさを想像させられました。
猶、このあたり、近年は冬季の積雪も1メートル前後になっているそうですが、昔は、3メートル、5メートルと積り、日本で一番雪深い地方だったようです。
ところが、小学校5年生か6年生のころ、地理の学科試験で"日本で一番雪深い所は?"という設問に、勉強をしていなかった私は、当てずっぽうに"北海道"と書いて×をくらった。無論、正解は、この地方の名を書けばよかったのですが、ここは私にとってそんな想い出のある地でもあります。
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