法衣を着用するに当って、紋袴をはこうとして片方に両足を入れてしまいました。横から注意されて、あわててはき直したのですが、その時、昔のことを想い出しました。
昭和10年前後、私の故郷、兵庫県西宮市(大阪と神戸との丁度中間)には、商店街に近く、劇場が三つありました。
一つは「花月」(大阪や京都に同名の有名な劇場があったと思います)、二つ目は「戎座」(西宮の起源、戎神社に因んだ名前でしょう)、三つ目が「敷島劇場」。このうち「敷島」は既に西洋風の外観になっていましたが、他の二つは昔風の芝居小屋という感じ。それでも戎座の方は敷島と共に映画専門になっており、どちらかと言えば日活系、阪妻(今の俳優田村高広氏の父君)や嵐寛さんなどが活躍する時代劇が多く、敷島は松竹系の現代劇で、田中絹代、高杉早苗、三宅邦子等々が活躍していました。
尤も昭和十年は未だ無声時代で、大きなスクリーンの下、向って右側に、見台ほどの座卓を置いてスクリーンと直角の方向に向って坐った弁士が、時々、スクリーンを見上げながら、独特の声音、節回しで、弁じていました。
間も無くトーキーになり、商店街の中央近くにあった警寮署が阪神国道(現在の国道2号線)沿いに移転した跡地に「東宝」系の映画館が建ちました。
多分、昭和14年夏のノモンハン事件が舞台だったかと思いますが、97式戦闘機を主人公にした名画「燃ゆる大空」は、ここで観たと思います。素晴しい、同名の主題歌は、今も時々、口ずさんでいます。
一方、ずっと芝居小屋だった「花月」には幼稚園時代に時々、祖母や乳母につれられて、漫才を観に行きました。とに角、おもしろかったのです。
そんな中で或る日の舞台。男女2人の組合せだったと思います。向って右側が紋付袴姿でした。ところが中途で、何かの拍子に後を向いたら、何と袴は前だけ。後姿は白いパンツでした。袴の前後を合せ、腰板を倒して、お相撲さんの化粧回しのように、前にかけていたのです。
ついでに、もう一つ。やはり男女一組の漫才師。何か言い負けると、筆で顔に墨の線を引かれる。負けっ放しだった男の方が、そのうちに、「ここらで一ぺん、かお拭いてきまっさ。」といって舞台の袖から楽屋の方に入ろうとしたら、相方が「あっ、わて(私)が、拭いたげ(拭いてあげ)まっさ。」
といって、手の平で相手の顔をなでまわした。客席の方に向けた顔は、一面真っ黒。
これにはお腹が捩れるほど笑いました。
法要の後で、上記の漫才の想い出を話したところ、副輪番が「それは75年前のことでしょう」
と言います。数えてみると、成るほど、ほぼその通り。
「幼い頃のことで、いつまでも憶えているものがあるね」
ということになりました。いや、今年で75年ですが、あと何年生きるかわからないとしても、若しかしたら生涯忘れないかも知れません。「三つ子の魂百まで」という諺もありますしね。
何故、こんなつまらないことを書くのかと言うと、世の中の、幼いお子さんをお持ちのお父さん、お母さん、その他、ご家族の皆さんに、お子達が生涯忘れないような素晴しい印象、記憶、思い出を沢山持たせてあげてほしいと思うからです。
どうぞ、よろしくお願いします。
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