2010年3月アーカイブ

眼鏡とキムチ

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 M君とは昭和23年、京都の旧制高校で同じクラスの仲間として出会いました。だから以来、62年間もの親友です。但し、大学では彼は法学部、私は文学部と別れました。しかし昼食時や放課後など、よくキャンパス内の花谷会館という喫茶店で落ち合い、二人は店のおばさんや女子店員たちから"アボット・コステロ"さん(当時、アメリカ映画の喜劇俳優コンビ)と呼ばれていました。
 彼はメンソレータムなどの薬品で有名なO社の御曹司、家は昭和初期の西洋住宅建築として、国の登録有形文化財になっています。父君はクリスチャンだったせいで彼も一応はクリスチャンですが、母君が浄土真宗の御門徒で、彼も仏教には普通の人以上に興味があるようです。
 もう50年も前でしょうか、「色即是空」とはどういう意味かと尋ねられたので、"ルーパム=色   エヴァ=こそは   シューニャム=空"(形あるものこそは空である=実体が無い)というサンスクリットを教えたところ、今もしっかり憶えているようです。
 彼は、もう可成り前から故郷の市の文化サークルの会長さんを務めており、私も一度、講演に引っぱり出されたことがありますが、その他いろんな活動のために、故郷の町と東京とをも、年に何回か往来しています。
 尤も、しょっちゅう東西を往還している私とは殆んどすれ違いで、なかなかゆっくり会食などの機会は回ってきません。
 だからという訳でもないでしょうが、時々電話がかかってきて、時には30分40分間、クラスメートの消息をはじめ、いろんな事を話してくれます。
 先日も晩景の一刻、電話がかかってきて、かれこれ4~50分も話したでしょうか。そのうちに話題は視力の減退、そして眼鏡の話になり、私が百円ショップで、度が
2.5から3.5度ぐらいの眼鏡を買ったり、もらったりして10個ほど(それでも合計1000円程度です)築地と自坊、更に事務所と居間などに分けて持っているよと話しましたが、彼も全く同じらしいのです。
 ところが彼はボヤきます。「4.0がほしいんだが、無いね。」これに対して私が、「僕は一つ二つは持っているよ。但し、自分で買ったのではない。弟か誰かにもらったと思う。しかし4.0度でなくっても、以前から使っていた3とか2とか、度のゆるいのを2つかけたらいいじゃないか。」と言いますと、彼はビックリしたようです。
 「一つかけてるだろう。その上に重ねてもう一つかけたらいいんだよ。」
 「ふーん。」
 私のように世間音痴に比べて何でも知っているように思っていたM君が、こんな簡単なことを知らなかったのに、こっちの方がビックリしました。
 簡単なことと言えば、これは私だけのことですが、時々白菜キムチが食べたくなります。
 しかし、(一般に販売されている)唐辛子で真赤なのは、些か苦が手。買う時に一々レッテルなど見ている訳ではないので、たまに、あまり辛くない品に当ると、やれやれと思います。
 ところが、これも先日、ふと思いついて、真赤なのを少し水で洗って、赤味を減らしてみました。そして口に入れると、何と、丁度具合がいいのです。以来、キムチは、どんなに真赤でも恐れなくなりました。
 世の独居男性諸氏よ、御参考までに。

  P.S.一旦、上記を書いてから、念のため、M君に電話して眼鏡のことを確かめてみたところ、彼も実験していて、私の意見に賛成してくれました。
 そして、ぽつんと言いました。"母も虫眼鏡など使っていたが、これを教えてやればよかった......"と。

人-その2

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 インド亜大陸の原住民の信仰の件で、書き忘れていたことが一つあります。それは、"蛇"のことです。
 コブラという名の蛇を御存知でしょう。長さが2メートル、太さは我々の手首ぐらい。腹を立てると頬(ほっ)ぺたをふくらませて、頭部全体が薄ぺらい三角形、扇のような恰好になる。そして少くとも2~3メートルはジャンプして、敵に噛みつくのです。噛まれたら、人間など、まず生命は無い。山地で土木作業をしていた男たちが、土の中で寝ていたコブラに触れて、あっという間に3~4人が噛み殺された事件を彼地の新聞で見たことがあります。コブラは猛毒をもつ、いわゆる毒蛇なのです。
 蛇といえば錦蛇。胴の直径が10センチぐらい、長さは4~5メートルですが、これは毒をもっていない。しかし敵に巻きついて絞め殺します。
 その他、蛇にはいろんな種類があり、それらを捕獲してきて、飼いならし、直径30~40センチぐらいの籠に入れて持ち歩き、道端にしゃがんで笛を吹くと(それを先祖代々専業にしているカーストがある)、特にコブラなど、籠の口から首を20~30センチ持ち上げて、くねくね芸をしたり、また獲物にとびかかる恰好をして、見物人から見物料をもらったりしています。
 一度、わけのわからない蛇を見かけたことがります。長さが40~50センチで色は赤い。蛇使いの話では、半年毎に頭と尻尾が交替するというのですが、こわいのであまり近寄って見ることも、従って確かめることも出来ませんでした。インドには不思議なこともあるものです。
 ところで蛇たちは、4、5、6月の夏季は土の中で夏眠しているが、7月初頭ごろ雨期に入ると、出てきます。夕方など、気持が好いのでしょうか、大学の広大なキャンパスの道路(アスファルト舗装など未だ無かった)に長く伸びて寝ている。薄暗がりで気付かなかったり、縄か何かだと思って蹴ったり踏んだりすると、大変です。我が国でも行者や巡礼(以前は田舎でのお葬式に山辺の葬場への行列の先導者でも)か、身丈ほどの長い杖、時には頭部にシャンシャンと音のする輪をつけた杖などついて歩いたのは、蛇への警戒、更には蛇に対して、人間が来たぞという警告の意味があったと思われます。

 現代でもそうですが、古代、インド亜大陸は今よりも緑の多い時代があったと考えられていますから、草原などを歩くことの多かった当時の人びとは、蛇に対して、大きな怖れを懐いていたと思われ、これをナーガ(龍)といって畏敬したのです。そしてこの畏教がエスカレートして、ずっと後に仏教の経典にも、天龍八部衆といって半神半獣の扱いをされ、八大龍王として、ナンダ、ウパナンダ、マホーラガなどという名前さえつけられ、一種の守護神と考えられるようになりました。
 親鸞聖人76才頃作(1248年)の「現世利益和讃」の中の一首にも
    「南無阿弥陀仏を となふれば
     難陀 跋難 大龍等
     無量の龍神 尊敬し
     よるひるつねに まもるなり」
とあります。
 また龍は天に昇り、雲を喚び、雨を降らせると信じられていました。
 中学2年生の頃の国語の教科書だったと思います。源実朝(1192-1219、頼朝の次男、鎌倉幕府第3代将軍、歌集「金槐和歌集」の作者)の歌として、
    「時により 過ぐれば民の 歎きなり
     八大龍王 雨やめたまへ」
というのがありました。

 龍の中で有名なのはムチリンダ龍王のことです。お釈迦さまが悟りを開き、その喜びにひたっておられる間、近くのムチリンダ樹に住む龍王が、お釈迦さまの背後から首を伸ばし、お釈迦さまの頭上を覆うようにして、雨風からお護りしたという伝説があります。
 この伝説は、インドシナ半島の仏教国、アンコールワットなどで名高いクメール王国の時代(11~14世紀)、ことにもてはやされたらしく、その姿を画いた仏像が多数現存しています。また、アンコールワットやアンコールトム、その他の幅数十メートル以上の周濠にかけてある石造の橋の欄干のデザインとして、頭が七つぐらいある巨大なナーガがあちこちに見られます。龍が外敵を守ると信じられていたのです。
 インド半島の原住民たちは、生命の根源としての水にまつわる神々や樹神、生産のシンボルとしての性器、畏怖の対象としてのナーガなどに供物を捧げ、祈りを捧げながら日々を送っていたのです。
 朝、光をもたらす太陽、夜の明りとしての月、雨、風、雷その他、自然現象のあれこれをも一種の神として尊崇していたことも、他の未開民族と同様だったと思われます。
 このようにナーガ崇拝もあるのですが、蛇にもやはり天敵があります。例えばマングース。リスに似た動物ですが、歯が鋭い。蛇と戦うと、身体に蛇を巻きつかせておいて、その歯で蛇を噛み殺したりします。(その実演も本当に蛇を殺すわけではありませんが、街頭の蛇使いが見せてくれます。)
 もう一つ、より強力な天敵、それは鷲あるいは鷹でしょう。しかし神話の世界では、これを怪鳥ガルダといって、ヴィシュヌという神さまの乗り物になっています。
 ガルダは漢字では迦樓羅と書かれ、日本の烏天狗のモデルだそうです。

 仏教は、紀元前3世紀のアショーカ王の頃から、インド以外の国ぐにへも伝道されるようになりました。
 東南アジアの南端、インドネシア地方に仏教あるいはヒンズー教が伝わったのは、中国の法顕三蔵がインドのからの帰途、ここに立寄ったのは5世紀前半で、この頃には既に仏教は行われていた。これがどこまで遡れるか目下のところ私には不明ですが、彼地における仏教文化の大きなモニュメントとして、中部ジャワ島のボロブドゥール寺院(9世紀)その他が有名です。国土の大部分がイスラーム化してしまった現在でも、バリ島にだけはヒンズー教が残っており、他の地方でもヒンズー文化の名残としてワヤンクリット(紙製で、手足が動く人形を操り、背後から照明してスクリーンに投影し、反対側の見物人に見せる影絵芝居 ― 題材はインドの古典中の物語から取られています。)などがあります。そのインドネシアの国営航空の名前がガルダなのです。
 その他、蛇はインドの神話に様々な姿であらわれています。

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 さて、その広大なインドに住むのは、どんな人たちでしょうか。
 インドの人といえば、おしなべて肌色が黒いと思われがちですが、決してそうではありません。
 ずっと古い時代のことはよく知りませんが、今から5000年ぐらい前、そこには色の浅黒い、鼻の低い、どちらかと言えば東南アジアや西太平洋諸島の人びとに似た人種が住んでいました。
 ところで、彼等は何を考え、どんな生活をしていたのでしょうか。
 インドは日本などにくらべると可成り暑い国ですし、そこで生きるために何よりも欲しい、必要なのは水です。沙漠や石ころだらけの土地には住めません。水は単に飲み水その他の生活用水としてだけでなく、水のある所に樹が生えます。
 樹があると、その下に木蔭ができる。暑い国は、木蔭が無くては暮らせるものではありません。
 家も大樹の下に建てます。その辺を掘ると水が出ます。
 尤も掘るといっても、戦前の日本のように2~3メートルも掘れば水脈に達するのではありません。10メートル、あるいはそれ以上掘らなければならない。
 だから日本の井戸枠のように、直径1メートルほどでは、どうにもならない。直径2メートル、3メートルの深い大きな井戸を掘ります。井戸の壁面は多くは煉瓦造りです。
 田舎の村では今でもよく見かけるのですが、地上に材木で門構えのような構造物を作り、そこに活車をかけ、水牛の皮などで作った大きな釣瓶で水を汲み上げます。
 釣瓶は人力(何人か)で引上げることもありますが、大抵は牛がお尻を叩かれてロープを引張ります。
 上って来た釣瓶を手繰り寄せて水を汲み出すのですが、農耕地などでは、手繰り寄せた釣瓶を下に置くと形がポシャッてしまい、水が流れる。しかしそこに、ちょっとした溝が煉瓦などで作ってあって、その溝をつたって、せいぜい数メートルですが、水が流れて、そのあたりの土地を潤すという仕組みです。
 しかし井戸は簡単に掘れるものではありません。水は川から汲んでくることも多いのです。だが、それがまた大変。
 雨期にはそこらじゅう水びたしになるとしても、干期、ことに5月6月は、少々大きな川でも干上がってしまう。だから、水は可成り遠くへ行かぬと手に入らない場合が多い。
 その点、ガンジス川やその最大の支流(=デリーの東側を南下して、やがて東南へ約700㎞降り、アラハーバードと言う大都市の東側でガンジス川に合流する=)ヤムナー川は、年中水が絶えません。但し数年前、そのヤムナー川沿いの古代からの都市、マトゥラーを訪れた時、以前は川岸のお寺のすぐ下に甲羅の長さ70~80センチの大きな亀がうようよ泳いでいたのに、水流の幅が数十メートル狭まり、岸辺からは亀の姿を見ることが出来ませんでした。
 だが、何れにしても、水の流れは絶えない。だからガンガー(ガンジス)とヤムナーの両川は、共に女神なのです。特にガンジスは、マー・ガンガー(母なるガンジス)とさえ呼ばれている。人びとにとっては生命の綱なのです。
 それは兎もあれ、その川あるいは井戸での水汲みは、ほとんど女性の仕事です。一番ふくれた部分の直径が40センチぐらいある素焼の瓶に水を満たし、頭には布製の茶瓶敷きのような恰好に作られたクッションを置き、そこに水瓶を載せて運びます。可成りの重量がある筈ですが、背筋をピンと伸ばして細い首で支え、片手は水瓶に添えて、上手に腰をくねらせながら、長い川岸の斜面を上り、何百メートルも先の家まで運ぶのです。
 時には、空いている方の手に、何かをもっていることもあります。
 それほどにしなければ水は得られない。だから水の尊さは測り知れないのですが、その水を吸い上げて繁茂している大樹も、神さまの棲家として尊敬し、畏敬されています。樹に住む神さま、それがヤクシャ(薬叉、夜叉、女性形はヤクシー、またはヤクシニー)で、これを尊崇し供物を供えることによって人びとは豊饒を願ったのです。
 なお、水面に咲く蓮の花も、その大きさ、美しさの故だけでなく、生命のシンボルとして愛されるようになります。

 また、この人たちは、豊饒のもとになる生産、ものを産み出す力が、水と共に大切だと考えました。そしてその生産のシンボルとして、男女の性器をも崇拝していました。

 ところが今から3500年前ほど前、インド亜大陸に大きな事件が起りました。
 もともと中央アジアの西の方、世界最大の湖といわれるカスピ海の附近に住んでいた人びとが、より暖かい、より豊かな土地を求めて南へ、そして一部は南東に進みました。
 南に進んだ人びとは現在のイラン方面に入って定着し、南東に進んだ一行は、インドの西側を流れるインダス川の上流域パンジャブ地方(パンチ=五 アプ=水、五河地方と訳される。)に入ってきました。これがアーリヤ人です。
 しかしインダス川の流域には、すでにそれより千年も前から高度な文明を築いていた人びとが居ました。この文明をインダス文明と呼んでいます。

 インダスの人びとは、アーリヤ人に比べると、色が黒く鼻も低い。しかし、日乾し煉瓦だけでなく、焼煉瓦を造ることも知っていました。
 そしてその煉瓦で町全体を造りました。最も典型的な例は、アラビヤ海に注ぐインダス川の河口から5~600キロ遡ったところに作られた都市モヘンジョダロです。
 これは数百メートル四方の都市を、全部煉瓦で造ったのです。市街の中央部を南北に貫く幅9メートルほどの大通りも、全部煉瓦で敷き詰めました。町はやや細い道路によって縦横に仕切られ、道路に沿って煉瓦造りの家が立ち、路傍には溝が造られ、家々の外壁から、その溝に向って斜めに幅数十センチの樋が造られ、それは更に人間の背の高さぐらいもある下水道に連結し、汚水は市街地の外へ流されたようです。
 この町の人びとは、たとえば市街地の横に並ぶ別の丘の上に造られた大きな公衆浴場で身体を浄めて何らかの宗教儀式を行っていたようでもあり、性器崇拝が行われていた形跡も遺物によって知られます。
 また造船、操船の技術にも秀で、インダス川を降り、アラビヤ海を航海して、西の方遙か2千数百キロ彼方のペルシャ湾の奥に栄えていた文明圏と貿易などをしていたようです。それは、これら東西両文明圏から類似した形式の印章が多数出土していることによって分ります。
 印章というのは、せいぜい数センチ四方ぐらいの石に文字や動物の姿などを彫刻したいわば印鑑です。
 インドでも極く近年、50年ぐらい前にはまだやっていましたが、大小の荷物を紐でしばり、その紐の結び目に朱色の蝋を垂らして封印、つまり蝋封するわけです。
 さてこのような高度な文明を享受していたインダス人は、久しい間、外敵から襲われることも無く、平和に暮らしていたようです。
 だから当然、武器の発達もありません。
 また、鉄の使用は知らず、せいぜいが青銅器を用いていたようです。

 ところが今から約3500年前、西北から皮膚の色が白く、鼻は高く、腕脚が長く、力が強く、荒々しい民族が侵入し、繰返し繰返しインダスの人びとを攻め、殺害し、遂にこの文明を破壊してしまいました。20世紀前半の発掘によって、インダスの人びとが頭蓋骨を傷つけられていたり、階段の中途で折り重なるように倒れていた例が判明しています。

 しかし、人びとは全滅したわけではない。その多くは町を捨てて、おそらくはインド半島の西海岸沿いに南に落ちのび、そこに定着した。それが現在の南インド、特にマドラス=チェンナイなど南方のタミル地方に住む人びとの源流ではないかと考えられています。これがドラヴィダ人です。
 そして、この人びとは、やがて次第に土着原住の人びとと混血しつつ、後の南インド文化を形成してゆきます。
 一方、インダス文明流域に侵入して、その原文明を亡ぼしたアーリヤ人たちは、更に肥汏な土地を求めて南東に進み、終にガンジス川流域に達して、原住民と混血を重ねつつそこに定着し、文化的にも変容を遂げながら、現在のインド文明の骨格をつくり上げるのです。これが今から3000年前、つまり紀元前1000年前後のことと考えられています。
 従って、この新しい侵入者はもともと中央アジア西部から到来し、西欧人と、言語的にも同根(インド・ヨーロッパ語族)と考えられますから、特にインド西北部、カシミール地方などでは、毛髪は黒いが驚くほど色が白く、いわゆる長頭型で、西欧人と見間違えるほどの人びとが多い。但しそれが、地域的に南に下るほど、皮膚の色が黒くなるようです。
 もう一つ付け加えますと、インドでは極端な男尊女卑の時代が続きました。また貞淑こそが女性の美徳の最たるものとされてきました。50年前、広大な大学のキャンパス内の教員住宅に住む教授夫妻が歩いている。しかし二人並んでではない。奥さんが数歩遅れて歩いている光景を何度か見ました。
 また仏教でも女性は五障(しよう)三從(しよう)といって、梵天、帝釈天、魔王、転輪聖王(王の中の王)、仏の五者にはなれない。また幼い時は親、嫁しては夫、老いては子に従はねばならないなどと説く経典(例『法華経』提婆達多品)もあります。
 このように女卑するのは何故か、その理由として、今から3000年以上昔の征服者(男性)本位の混血、つまりアーリヤ族から見れば被征服者(女)との混血だったことがその原因ではないかとの説があります。
 但し、家庭内での事情は、また別だったかも知れませんね。

インド紀行

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 築地本願寺主催『釈尊の足跡とネパール本願寺を訪ねて』1月18日出発、10日間の旅に参加しました。世話は「大陸旅遊」という東京の旅行会社。一行は添乗員2名(内1名は社長)を含めて総勢44名。現地では、流暢な日本語をしゃべるインド人ガイド3名が加わり、関西空港発組20名と成田発組24名が中型バス2台に分乗。連泊無し、毎朝5時または5時半起床、次の宿舎へは殆んど夕刻7時、8時に到着という、甚だ厳しい旅程でした。しかしバス車内で多少の仮眠が出来たせいもあったのでしょうか、微熱が出た方も2~3居られましたが、終始笑顔。私など、築地本願寺での顔と全然違うなどと言われ、旅の終りには直接私に、「次の機会も又」との声も聞かせていただきました。猶、中には元々、脚や膝の故障の方も居られたのですが、杖持参で、よく頑張って下さったと思います。
 以下、その旅行中に接したネパール、インドについて、簡略に御報告いたします。

                                              日本 インド 相対図                  

インド日本相対図.jpg ところで私は、昭和33年夏~5年春(1958~60)、インド政府奨学生ということで、月額200ルピーを支給され、ガンジス川畔の沐浴風景で名高いヒンズー教(インドの民俗宗教)の大聖地ベナレス(ヴァラナシー)の大学に留学していました。
 現在こそ1ルピーは日本円にして2円と少々ですが、当時のレートでは1ルピー=75円60銭、200ルピーは約1万5000円です。但しそのうち半分以上は授業料と、食費を含めた寮費に消えます。そして残りで図書を買い、休暇中の旅行費用に当てる。それでも、一般庶民に比べると「バラ・サーブ」(大旦那)でした。例えば遺跡発掘に当って土砂運搬のためなどに雇用する人夫の日当は、1ルピー程度だったと思います。
 因みに、上記のほか、休暇中の旅費として年間100ルピーぐらい、下痢や風邪ではなく、もっと深刻な病気を患った場合は、寮長などの証明によって、やはり100ルピーぐらいが支給されました。
 また当時、未だ日本からの海外旅行など、渡航先の国に会社など身元引受人が無い限り不可能で、送金なども出来ませんでした。米ドル500ドル以内を携帯して海外に自由に渡航出来るようになったのは、ようやく昭和39年4月以降のことです。
 だから私は、当時、商社マンとしてボンベイ(インド西海岸の最大の商都、今のムンバイ)の駐在していた大学の野球部の後輩─ 私が大学院生で、監督を勤めていた頃のキャプテンI君(故人)─ から1000ルピーを送金してもらい、お互いに帰国後、円で返済したことが一度だけあります。
 なお、渡印した昭和33年の秋、11月ごろから年末まで、幸いな(?)ことに、大学が学生のストライキーのために閉鎖になりました。
 そして丁度その11月下旬から翌34年3月まで、戦後初めてインド仏蹟を探査する「京都大学インド仏蹟踏査隊」6名(隊長は京都大学教授で恩師・長尾雅人博士)が来印され、学校閉鎖中でもあったので、前半の約1ヶ月半、お供をすることを許されました。踏査隊は、当時、一般の人々が到底訪問することが出来ないような地域をも、ジープを馳って探訪されましたので、このお供は私にとって、これは後々まで大きな宝物になりました。

 その後、昭和37年1月~2月、同38年11月~12月。昭和50年代以後も何度か、貴重な、想い出深い訪印の機会を得ました。前回は平成20年2月で、今回は多分20回目。従ってこの50年間の彼の地の変貌が一応概観できる立場に在り、御報告は、それらの折々の体験、見聞をも若干踏まえたものであることを御諒承ください。

 では何故、そんなに何度もインドへ行くのかということですが、インドへは一度行って、もうこりごりという人と、1回行くと嵌りこんでしまう人との二通りがあると、よく聞きます。
 私の場合、最初はいろいろ煩わしいことが多かった。しかしこれは留学生として様々な制約もあったからかと思います。しかし、もっと仏教の故郷のことを知っておきたいとの思いもあり、2度目からは、まあ幾分懐中の温かい旅行者でもありましたから、留学生時代の3等学生割引(鉄道)、夜は駅の待合室で仮眠といった旅行とは訳が違います。それに何と言ってもインドは広い。地域別に2週間程度の旅でも、少くとも7~8回は行く必要がある。かく申す私も同じ所に何度も行きながら、未だ全く足を踏み入れていない地方が2~3あります。
 それともう一つ。私は適温27~8度。暑さの方は35~6度まではいいのですが、寒いのが大の苦が手。それで一種の避寒と、勿論、勉強も兼ねて、冬の間、日程をやり繰りしてインドだけでなく、仏教に関係の深い東南アジア方面を探訪するのです。 しかし、もう齢。旧制中学のクラス会の世話役氏から、今春の傘寿の会の案内状をもらいました。だから「今回が最後でしょう」などとからかう人も居ますが、それならそれでよし。しかし沢山の知友から、次の計画立案を要望されていることも事実です。
 別にインド行きのためではありませんが、何か人々のお役に立つようなら、出来るだけ元気で長生きしたいとも思っています。
 皆さんもどうぞ。

縁起メルマガ

メルマガ登録・解除

*メールアドレスを入力


読者登録規約

ウェブページ

2010年4月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30