さて、その広大なインドに住むのは、どんな人たちでしょうか。
インドの人といえば、おしなべて肌色が黒いと思われがちですが、決してそうではありません。
ずっと古い時代のことはよく知りませんが、今から5000年ぐらい前、そこには色の浅黒い、鼻の低い、どちらかと言えば東南アジアや西太平洋諸島の人びとに似た人種が住んでいました。
ところで、彼等は何を考え、どんな生活をしていたのでしょうか。
インドは日本などにくらべると可成り暑い国ですし、そこで生きるために何よりも欲しい、必要なのは水です。沙漠や石ころだらけの土地には住めません。水は単に飲み水その他の生活用水としてだけでなく、水のある所に樹が生えます。
樹があると、その下に木蔭ができる。暑い国は、木蔭が無くては暮らせるものではありません。
家も大樹の下に建てます。その辺を掘ると水が出ます。
尤も掘るといっても、戦前の日本のように2~3メートルも掘れば水脈に達するのではありません。10メートル、あるいはそれ以上掘らなければならない。
だから日本の井戸枠のように、直径1メートルほどでは、どうにもならない。直径2メートル、3メートルの深い大きな井戸を掘ります。井戸の壁面は多くは煉瓦造りです。
田舎の村では今でもよく見かけるのですが、地上に材木で門構えのような構造物を作り、そこに活車をかけ、水牛の皮などで作った大きな釣瓶で水を汲み上げます。
釣瓶は人力(何人か)で引上げることもありますが、大抵は牛がお尻を叩かれてロープを引張ります。
上って来た釣瓶を手繰り寄せて水を汲み出すのですが、農耕地などでは、手繰り寄せた釣瓶を下に置くと形がポシャッてしまい、水が流れる。しかしそこに、ちょっとした溝が煉瓦などで作ってあって、その溝をつたって、せいぜい数メートルですが、水が流れて、そのあたりの土地を潤すという仕組みです。
しかし井戸は簡単に掘れるものではありません。水は川から汲んでくることも多いのです。だが、それがまた大変。
雨期にはそこらじゅう水びたしになるとしても、干期、ことに5月6月は、少々大きな川でも干上がってしまう。だから、水は可成り遠くへ行かぬと手に入らない場合が多い。
その点、ガンジス川やその最大の支流(=デリーの東側を南下して、やがて東南へ約700㎞降り、アラハーバードと言う大都市の東側でガンジス川に合流する=)ヤムナー川は、年中水が絶えません。但し数年前、そのヤムナー川沿いの古代からの都市、マトゥラーを訪れた時、以前は川岸のお寺のすぐ下に甲羅の長さ70~80センチの大きな亀がうようよ泳いでいたのに、水流の幅が数十メートル狭まり、岸辺からは亀の姿を見ることが出来ませんでした。
だが、何れにしても、水の流れは絶えない。だからガンガー(ガンジス)とヤムナーの両川は、共に女神なのです。特にガンジスは、マー・ガンガー(母なるガンジス)とさえ呼ばれている。人びとにとっては生命の綱なのです。
それは兎もあれ、その川あるいは井戸での水汲みは、ほとんど女性の仕事です。一番ふくれた部分の直径が40センチぐらいある素焼の瓶に水を満たし、頭には布製の茶瓶敷きのような恰好に作られたクッションを置き、そこに水瓶を載せて運びます。可成りの重量がある筈ですが、背筋をピンと伸ばして細い首で支え、片手は水瓶に添えて、上手に腰をくねらせながら、長い川岸の斜面を上り、何百メートルも先の家まで運ぶのです。
時には、空いている方の手に、何かをもっていることもあります。
それほどにしなければ水は得られない。だから水の尊さは測り知れないのですが、その水を吸い上げて繁茂している大樹も、神さまの棲家として尊敬し、畏敬されています。樹に住む神さま、それがヤクシャ(薬叉、夜叉、女性形はヤクシー、またはヤクシニー)で、これを尊崇し供物を供えることによって人びとは豊饒を願ったのです。
なお、水面に咲く蓮の花も、その大きさ、美しさの故だけでなく、生命のシンボルとして愛されるようになります。
また、この人たちは、豊饒のもとになる生産、ものを産み出す力が、水と共に大切だと考えました。そしてその生産のシンボルとして、男女の性器をも崇拝していました。
ところが今から3500年前ほど前、インド亜大陸に大きな事件が起りました。
もともと中央アジアの西の方、世界最大の湖といわれるカスピ海の附近に住んでいた人びとが、より暖かい、より豊かな土地を求めて南へ、そして一部は南東に進みました。
南に進んだ人びとは現在のイラン方面に入って定着し、南東に進んだ一行は、インドの西側を流れるインダス川の上流域パンジャブ地方(パンチ=五 アプ=水、五河地方と訳される。)に入ってきました。これがアーリヤ人です。
しかしインダス川の流域には、すでにそれより千年も前から高度な文明を築いていた人びとが居ました。この文明をインダス文明と呼んでいます。
インダスの人びとは、アーリヤ人に比べると、色が黒く鼻も低い。しかし、日乾し煉瓦だけでなく、焼煉瓦を造ることも知っていました。
そしてその煉瓦で町全体を造りました。最も典型的な例は、アラビヤ海に注ぐインダス川の河口から5~600キロ遡ったところに作られた都市モヘンジョダロです。
これは数百メートル四方の都市を、全部煉瓦で造ったのです。市街の中央部を南北に貫く幅9メートルほどの大通りも、全部煉瓦で敷き詰めました。町はやや細い道路によって縦横に仕切られ、道路に沿って煉瓦造りの家が立ち、路傍には溝が造られ、家々の外壁から、その溝に向って斜めに幅数十センチの樋が造られ、それは更に人間の背の高さぐらいもある下水道に連結し、汚水は市街地の外へ流されたようです。
この町の人びとは、たとえば市街地の横に並ぶ別の丘の上に造られた大きな公衆浴場で身体を浄めて何らかの宗教儀式を行っていたようでもあり、性器崇拝が行われていた形跡も遺物によって知られます。
また造船、操船の技術にも秀で、インダス川を降り、アラビヤ海を航海して、西の方遙か2千数百キロ彼方のペルシャ湾の奥に栄えていた文明圏と貿易などをしていたようです。それは、これら東西両文明圏から類似した形式の印章が多数出土していることによって分ります。
印章というのは、せいぜい数センチ四方ぐらいの石に文字や動物の姿などを彫刻したいわば印鑑です。
インドでも極く近年、50年ぐらい前にはまだやっていましたが、大小の荷物を紐でしばり、その紐の結び目に朱色の蝋を垂らして封印、つまり蝋封するわけです。
さてこのような高度な文明を享受していたインダス人は、久しい間、外敵から襲われることも無く、平和に暮らしていたようです。
だから当然、武器の発達もありません。
また、鉄の使用は知らず、せいぜいが青銅器を用いていたようです。
ところが今から約3500年前、西北から皮膚の色が白く、鼻は高く、腕脚が長く、力が強く、荒々しい民族が侵入し、繰返し繰返しインダスの人びとを攻め、殺害し、遂にこの文明を破壊してしまいました。20世紀前半の発掘によって、インダスの人びとが頭蓋骨を傷つけられていたり、階段の中途で折り重なるように倒れていた例が判明しています。
しかし、人びとは全滅したわけではない。その多くは町を捨てて、おそらくはインド半島の西海岸沿いに南に落ちのび、そこに定着した。それが現在の南インド、特にマドラス=チェンナイなど南方のタミル地方に住む人びとの源流ではないかと考えられています。これがドラヴィダ人です。
そして、この人びとは、やがて次第に土着原住の人びとと混血しつつ、後の南インド文化を形成してゆきます。
一方、インダス文明流域に侵入して、その原文明を亡ぼしたアーリヤ人たちは、更に肥汏な土地を求めて南東に進み、終にガンジス川流域に達して、原住民と混血を重ねつつそこに定着し、文化的にも変容を遂げながら、現在のインド文明の骨格をつくり上げるのです。これが今から3000年前、つまり紀元前1000年前後のことと考えられています。
従って、この新しい侵入者はもともと中央アジア西部から到来し、西欧人と、言語的にも同根(インド・ヨーロッパ語族)と考えられますから、特にインド西北部、カシミール地方などでは、毛髪は黒いが驚くほど色が白く、いわゆる長頭型で、西欧人と見間違えるほどの人びとが多い。但しそれが、地域的に南に下るほど、皮膚の色が黒くなるようです。
もう一つ付け加えますと、インドでは極端な男尊女卑の時代が続きました。また貞淑こそが女性の美徳の最たるものとされてきました。50年前、広大な大学のキャンパス内の教員住宅に住む教授夫妻が歩いている。しかし二人並んでではない。奥さんが数歩遅れて歩いている光景を何度か見ました。
また仏教でも女性は五障(しよう)三從(しよう)といって、梵天、帝釈天、魔王、転輪聖王(王の中の王)、仏の五者にはなれない。また幼い時は親、嫁しては夫、老いては子に従はねばならないなどと説く経典(例『法華経』提婆達多品)もあります。
このように女卑するのは何故か、その理由として、今から3000年以上昔の征服者(男性)本位の混血、つまりアーリヤ族から見れば被征服者(女)との混血だったことがその原因ではないかとの説があります。
但し、家庭内での事情は、また別だったかも知れませんね。
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