インド(貧)

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 世界の60数億の人口のうち、腹一杯食べているのは十億そこそこだと聞いたことがあります。僅か10年ほど前のことです。
 しかし、中国とインドなど、合せて20数億もの人口を抱える発展途上国の急速な経済発展で、今や貧困国は、アジアとアフリカ、および中南米のそれぞれ一部ぐらいだと言われるようになりました。
 インドは、今年など、自動車製産台数が1千万台超。南インド、ベンガル湾沿いの昔からの港都チェンナイ(旧名マドラス)は今やインドのデトロイトとまで言われているそうです。
 しかし格差はどこの国にもあります。
 人口が日本の十倍あるインドでは、IT産業や自動車産業で、仮にその2割が、日本などで言う中産階級以上に入ったとしても、それ以下が八億人以上居ることになります。日本の衣食住の平均レベルとは比べ物にならない。
 日本では普通の住宅には有って当り前のTVや冷蔵庫やエアコンは、無くて当り前ですし、衣服にしても、日替りのおしゃれは、余程のお金持ちだけ。食事のメニューにしても、とにかく食べられるならよい。朝、昼、晩、あるいは季節による変化など、あまり考えないはずです。
 物乞いも、人の集るところ、特に寺院では、依然として多い。これは、寺院などに参拝する人は、心の優しい人が多い。いや少くとも、その時だけは心が優しくなっている、またなろうとしている。だから貧困者を見ると自然、財布の紐がゆるみ易いこととも関係があるのでしょう。
 更に言えば、「施し」は一種の善根です。施しをすることは善根功徳を積むことになる。否、功徳を積ませてもらっているのです。
 だからこの"布施=善根積集→未来の幸福の約束"の思想の徹底している国や地域では、仏教、ヒンズー教など宗教の如何を問わず、出家修行者は在家の人びとから平然と布施=供養を受けるわけです。そもそも出家修行者は修行に専念するあまり、衣食住のための職業を持たない。だから、このような人に対する布施=供養こそは、通常の布施以上に価値がある、善根功徳の度合いが高いと考えられているのです。
 タイやビルマの坊さんは、托鉢に行って食物を供養(布施)してもらっても、"有難う"などと言いません。布施する側の主婦など家人は膝まづき合掌しているのに、黙って平然と立ち去ります。意味を知らないと、坊さんって何と横柄で憎らしい奴だと思うほどです。
 また、"サドゥー"(インドの場合、ヒンズー教の修行者を一般にこう呼んでいます)だけでなく、貧困家庭の子供も、金品をねだりに来ます。
 全然洗濯の気配の無いシャツやズボン姿で足もとも裸足。そして右手を、ちょっとお腹を押えてから前へ差し出し、口もとへ食べ物を運ぶ仕草をして、再び右手を差出します。空腹だが食べ物を買うお金が無い。金をくれという仕草なのです。
 そして、もらうと、さっと身をひるがえして走り去ろうとする。背後から「ナマス・テー・カロ」(有難うと言えよ)と声をかけると、ちょっとふり返って「ああ、そうだった」とでも言うかのように「ナマス・テー」(貴方を礼拝します=有難う)と言います。
 それにしても、お釈迦さまとの因縁の深い王舎城(今のラジギル)で、お釈迦さまが住んでおられ、そこで「大無量寿経」や「法華経」を説かれたとされる霊鷲山=耆闍崛山(地表約200メートル高)の坂道の途中にしゃがんでいた40才台かと思われる夫婦らしい二人は憐れでした。子供の頃からの慢性栄養不足で充分成長しなかったのでしょう。痩せて、身体も小さい。その上、二人とも眼球が無いのです。物乞いのためとは言え、どうやって此処までやって来たのか。
 なお、二人とも眼球が無いのは、もしかすると、幼少の頃、乞食にするために、いや、親の乞食の道具にするために、親がわざわざ我が子の眼球を潰したのかも知れません。
 眼球だけではない。子供の腕や脚の骨を折って、生涯物乞いの生活を送るように仕向ける親もあるとのことです。憐れとも悲しむべきとも言うべき無知さ加減です。
 しかも全体としては、インドよりも西隣りのパキスタン、北隣りのネパール、東隣りのバングラデーシュなどは更に貧しいようです。
 そのパキスタン、山野の美しいパキスタンで、銃声や自爆テロが絶えません。「だから日本に生れて、よかった」ではなく、せめてこの貧困を何とかしたい。しかし貧困者の数は余りに多い。結局、その国の政治に期待するほか無いのです。

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