世界の60数億の人口のうち、腹一杯食べているのは十億そこそこだと聞いたことがあります。僅か10年ほど前のことです。
しかし、中国とインドなど、合せて20数億もの人口を抱える発展途上国の急速な経済発展で、今や貧困国は、アジアとアフリカ、および中南米のそれぞれ一部ぐらいだと言われるようになりました。
インドは、今年など、自動車製産台数が1千万台超。南インド、ベンガル湾沿いの昔からの港都チェンナイ(旧名マドラス)は今やインドのデトロイトとまで言われているそうです。
しかし格差はどこの国にもあります。
人口が日本の十倍あるインドでは、IT産業や自動車産業で、仮にその2割が、日本などで言う中産階級以上に入ったとしても、それ以下が八億人以上居ることになります。日本の衣食住の平均レベルとは比べ物にならない。
日本では普通の住宅には有って当り前のTVや冷蔵庫やエアコンは、無くて当り前ですし、衣服にしても、日替りのおしゃれは、余程のお金持ちだけ。食事のメニューにしても、とにかく食べられるならよい。朝、昼、晩、あるいは季節による変化など、あまり考えないはずです。
物乞いも、人の集るところ、特に寺院では、依然として多い。これは、寺院などに参拝する人は、心の優しい人が多い。いや少くとも、その時だけは心が優しくなっている、またなろうとしている。だから貧困者を見ると自然、財布の紐がゆるみ易いこととも関係があるのでしょう。
更に言えば、「施し」は一種の善根です。施しをすることは善根功徳を積むことになる。否、功徳を積ませてもらっているのです。
だからこの"布施=善根積集→未来の幸福の約束"の思想の徹底している国や地域では、仏教、ヒンズー教など宗教の如何を問わず、出家修行者は在家の人びとから平然と布施=供養を受けるわけです。そもそも出家修行者は修行に専念するあまり、衣食住のための職業を持たない。だから、このような人に対する布施=供養こそは、通常の布施以上に価値がある、善根功徳の度合いが高いと考えられているのです。
タイやビルマの坊さんは、托鉢に行って食物を供養(布施)してもらっても、"有難う"などと言いません。布施する側の主婦など家人は膝まづき合掌しているのに、黙って平然と立ち去ります。意味を知らないと、坊さんって何と横柄で憎らしい奴だと思うほどです。
また、"サドゥー"(インドの場合、ヒンズー教の修行者を一般にこう呼んでいます)だけでなく、貧困家庭の子供も、金品をねだりに来ます。
全然洗濯の気配の無いシャツやズボン姿で足もとも裸足。そして右手を、ちょっとお腹を押えてから前へ差し出し、口もとへ食べ物を運ぶ仕草をして、再び右手を差出します。空腹だが食べ物を買うお金が無い。金をくれという仕草なのです。
そして、もらうと、さっと身をひるがえして走り去ろうとする。背後から「ナマス・テー・カロ」(有難うと言えよ)と声をかけると、ちょっとふり返って「ああ、そうだった」とでも言うかのように「ナマス・テー」(貴方を礼拝します=有難う)と言います。
それにしても、お釈迦さまとの因縁の深い王舎城(今のラジギル)で、お釈迦さまが住んでおられ、そこで「大無量寿経」や「法華経」を説かれたとされる霊鷲山=耆闍崛山(地表約200メートル高)の坂道の途中にしゃがんでいた40才台かと思われる夫婦らしい二人は憐れでした。子供の頃からの慢性栄養不足で充分成長しなかったのでしょう。痩せて、身体も小さい。その上、二人とも眼球が無いのです。物乞いのためとは言え、どうやって此処までやって来たのか。
なお、二人とも眼球が無いのは、もしかすると、幼少の頃、乞食にするために、いや、親の乞食の道具にするために、親がわざわざ我が子の眼球を潰したのかも知れません。
眼球だけではない。子供の腕や脚の骨を折って、生涯物乞いの生活を送るように仕向ける親もあるとのことです。憐れとも悲しむべきとも言うべき無知さ加減です。
しかも全体としては、インドよりも西隣りのパキスタン、北隣りのネパール、東隣りのバングラデーシュなどは更に貧しいようです。
そのパキスタン、山野の美しいパキスタンで、銃声や自爆テロが絶えません。「だから日本に生れて、よかった」ではなく、せめてこの貧困を何とかしたい。しかし貧困者の数は余りに多い。結局、その国の政治に期待するほか無いのです。
伝えておきたい事など。の最近のブログ記事
喜劇役者の藤田まことさんが亡くなった。同世代の一人として謹んで哀悼の意を表します。
TVブラウン管で初めて彼を見たのは、昭和30年代前半だったか。森光子さんの兄さん役として、漫才コンビの故ダイマル・ラケットさん兄弟らと共演した、昼食時の連続番組だったと思います。
その彼が、かれこれ30年も前のこと、ふと見たTVの対談番組に出演していました。相手は作詩家の藤田まさと氏。まさと氏は明治末期の生れ。昭和初年から同57年に亡くなるまでの間に70曲近い歌謡曲の作詩を手がけ、中でも昭和10年の「旅笠道中」以後、「大江戸出世小唄」「明治一代女」、12年の「妻恋道中」「流転」、 13年の「麦と兵隊」、14年の「大利根月夜」、28年の「岸壁の母」などは(他にもあるかも知れませんが)一世を風靡し、私なども識らぬ間に憶えてしまったほどです。優れた詩には、優れた作曲がつき、優れた歌手が歌うからでもあるでしょう。 さてその対談相手の「まさと氏」に「まこと氏」は尋ねました。
「先生と私とは、名前が一字しか違わないのに、どうして先生は、そんなに沢山大ヒット曲の詩を、お書きになられたんですか。その秘訣を教えてください」
「まさと氏」は答えました。
「万人に共通する抽象的な言葉は一人の心をも打ちません。逆に一人の具体的な体験や思いは、万人の心を打ちます。」(大意)
まさと氏は、たとえば旅から旅を続ける所謂「旅人」の、夜の冷たさ、心の寒さを、自分のものとして詠い、昨日も今日も、日本海に面した港の岸壁に来て、未だシベリヤ抑留から帰らぬ我が子を待つ一人の母になりきって、その心を詠いこむ。しかもその言葉は無駄を省き、練りに練ったものです。正に深網笠にマントをひらつかせ、肩をすぼめて真暗な夜道をただ一人行く若い衆や、もしやもしや、我が子が乗ってはいないかと引き揚げ船から降りてくる兵隊さん一人一人の顔をのぞきこんでは肩を落とす、その母の姿が目に浮かぶようです。この母の姿を通して、作者は母の限り無い慈愛を、聴く人一人一人に鮮かに想起させている、いや、極端な場合、その母の気持になりきらせるのです。
以来私は、その情景が目に見えるような表現を心がけて文章を書き、あるいは話すべきだと自らにも言い聞かせ、親しい人たちにも話してきました。
「目に見えることが大切」「百聞は一見に如かず」です。この事実を、インドの幾つかの仏教遺蹟巡拝でも教えられました。また、たとえばカルカッタのインド博物館に一部修復保存されている中印度のバールフト仏塔玉垣(BC2世紀)には、その表裏にわたって、数多くの仏伝(お釈迦さまの伝記)やジャータカ(お釈迦さまの前生の物語)が彫刻されていますし、あるいはサーンチーの丘に残る仏塔門の彫刻などにしても、参拝者は難しい仏教哲学は理解できなくても、それらについて僧侶から解説を受けながら、次第に深い信仰の境地に導かれて行ったのではないでしょうか。そんな事を思いつつ、しかし如何せん、近頃いよいよ己が筆や言葉の稚拙さをかこつこと頻りです。
「今日は」「初めまして」「おはようございます」など、挨拶は口でします。尤も、頭を下げたり、手を畳についたり握手などもしますが、一般に口でするものなのに、手偏(扌)を書きます。
手許の辞書を見ますと、「挨」は"押し開く" "強く進む" "互いに近づく"
"ひっつく"などの意味があり、「拶」も"せまる"など、挨とよく似た意味の字です。そして「挨拶」となると、やはり"押し進む" "前にあるものを押しのけて進み出る"などというのが本来の意味だそうです。(角川書店、昭和34年4月1日、初版発行、漢和中辞典、貝塚茂樹ほか編。因みに編者の一人、貝塚茂樹とは、理論物理学の分野で戦後、日本人初のノーベル賞を得られた湯川秀樹博士の実兄で、秀樹博士の弟、小川環樹博士も中国文学の権威、お三方とも京都大学の先生でした。)
ところで、"押し進む"などの意味のある"挨拶"が、何故、口で言う挨拶になったのかの理由ですが、これは、もともと禅僧たちが出会ったとき、お互いに肩を叩き合ったりして歓びを表現したことに由来すると、どこかで読んだことがあります。(多分、間違っていないと思いますが、詳しくは禅宗のお坊さんにでも...。)
禅宗は修行が厳しい。その厳しさが、武士の間で尊重されたのでしょうが、それだけに一般庶民からすると、びっくりするようなことがあります。例えば「玄関」という言葉、これも禅宗に由来する筈です。
但し、「玄」はもともと"くろ"(例:玄人=くろうと)、進んで"天""奥深い道理""清く静かなこと"などを意味し、「玄関」は禅寺の客殿などの入口に立った人に対して、"ここは玄妙の旨に入る関門、仏門に帰依する入口なんだぞ"と示した言葉でした。
尤も「玄」は、中国の老子や荘子(西紀前3-4世紀)の哲学用語で、人間の造作など表面的な事象を離れた、より根源的な"無為自然"などを説く道家の哲学で大切にされる言葉の一つであります。(註、道家と、後世に発達した"道教"とは似て非なるもの。道教は自分たちの教祖として老子などをかつぎ出していますが、実は西紀3~4世紀頃に発生した俗信で、不老長生や日時・方角の吉凶、更には六輝=六曜によって、大安、友引、仏滅などをも説く。)
親鸞聖人も非常に尊崇された曇鸞大師(5世紀後半-6世紀中葉、浄土真宗の方がたは「正信偈」の"本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩禮"で、よく御存知ですね)が住まわれた華北の玄中寺も、もともとは道家思想と関係があったと想像する学者も居られます(白馬社刊、村上鉄瑞著『道綽余聞』序、元京都大学人文科学研究所所長 福永光司先生)。曇鸞大師は元来、四論(=中観哲学、空の思想)を学ばれたと言われています。そう言えば空の思想は道家の"無為自然"とちょっと似ていますね。脱線はこの辺でやめておきましょう。
さて本題に戻って「挨拶」ですが、私は立場上、「今日は!」だけではなく、いわゆる御挨拶をすることが可成り多い。来客は勿論、築地本願寺への参拝団、何かの会合、入学式や卒業式、会議、結婚披露宴、その他の祝宴。一日に三度ぐらい、大勢の皆さんの前で、その場その場でのご挨拶をすることもあります。
しかし、本当にいい挨拶は、なかなか難しい。挨拶が無ければ、どんなに楽かと思います。上手なら挨拶をする方も聴く方も楽しいかも知れませんが、下手なだけに、本当に辛い。これは私の持論なのですが、TVやラジオのアナウンサーがニュースを読むスピードは、1分間に300字ぐらいだそうです。これに対して、私たちが原稿を書くスピードは、1分間で20字前後。つまり、しゃべる時の頭の回転の速さは書く時の15倍。だから書く方が遙かに楽、しゃべる方がずっと難しいという訳です。
おまけに原稿なら何度か読み返して添削する事も可能だが、しゃべる方はそうは行かぬ。一旦口外したら、その発言は、もう一度飲み込むことは出来ません。一応しゃべり終って下壇したら、再び登壇して補足することは不可能です。
さて、去る3月18日、飛鳥寛栗師といわれる方が、仏教伝道協会(=会長、沼田智秀師、伝道協会は世界の主要大学15校に仏教講座を開設したり、仏教経典の要所を世界の46ヶ国語に翻訳した「仏教聖典」をこれまでに780万冊、各国のホテルに配布するなどして仏教文化の弘流に努力されている。協会の母体というべき株式会社ミツトヨは、その製品マイクロメータなど、世界的な精密機械売上げの利益を仏教伝道に使うために、先代沼田恵範師によって設立された会社です。)の平成21年度の文化賞を受賞されました。東京・芝にある協会の仏教伝道センタービルでのその授賞式、懇親会に出席して祝辞を申し上げたのですが、祝辞を終って下段した途端に、ああ、あれもこれも言い忘れたと思って忸怩(じくじ)たる思いでした。
飛鳥師は富山県高岡市にある浄土真宗の大きなお寺の前住職さんです。大正4年生まれ、94歳。しかし矍鑠(かくしやく)たるもので、上記の祝辞の中で、昭和4年の間違いではないかと申し上げたほどなのですが、本願寺立の龍谷大学の学生時代からコーラス部などで活躍され、御卒業後も様々な音楽活動を行い、著作も多い。本願寺の仏教音楽研究所でもいろいろ御指導を下さっている。そして、何と言っても70年以上に亘る音楽活動ですから、まるで生き字引。そしてとうとう一昨平成20年に『日本仏教洋楽資料年表』という書籍を刊行された。安政6年(1859)から平成12年(2000)に及ぶ百数十年間の歴史年表(詳細な事項と固有名詞の索引つきB5またはA4変形版、207頁)です。
スピーチの時間を5分以内とお聞きしていたので、多分3~4分で様々なことを申し上げ、さてステージから降りて自席に戻るか否かに、200人前後の参会者に是非とも聴いていただきたいことを言わなかったことに気がつきました。
それは師が、単に住職や音楽関係のお仕事をされているだけではない。数多くの御門徒たちの懇念を集めて、これまで何度も、ベトナムやカンボジアなどの難民援助のカンパを送ってこられた、いわば国際親善人であること、宗門の長老として、時には宗会議員全員70数名に対して、宗門の歩み方に誤りがあってはならぬと、封書の宛名書きも一々自筆で警告・指導の書状を折々に送られていることなどです。
そしてつい先日も驚くようなことがありました。それは最近、御令息(住職)が御門徒のインド仏蹟巡拝旅行を引率し、その際に見聞されたこととも関係があるのですが、彼地での葬儀の一場面に関してのことです。
それは、私も50年余り前ですが、2年近く在住していた、ヒンズー教の大聖地ベナレス。人が死ぬと、ガンジス川に沿って展開するその町の河岸へ、近郷近在からも遺体を運んで来て荼毘に付するのですが、その遺体の運び方。長い2本の竹の棒の間に板を張り、そこに男性の遺体は白布、女性の遺体は赤布で包んで載せて縄で縛り、通常4人の男がかついでくる。その際、声高らかに「ラーム・ナーム・サッチャ・ハイ」と、むしろ叫び続けながら街中を通り、河岸にやってくるのです。 その言葉の意味、ラーム(=ラーマという、ヒンズー教の神様)の名(ナーム)はサッチャ(真理)でハイ(ある)ということなのですが、それを「神の名のみが真実」と訳した書物があり、「名のみ」という言い方の、いわば宗教哲学的な意味と、それが何時頃からのことなのかという御訊ねの御手紙を老師から頂戴したのです。
これは例えば、阿弥陀如来という仏は、智慧そのもの、慈悲そのもののこと、逆に、限り無い智慧と慈悲との仏を阿弥陀如来とお呼びする、と言ったらよいでしょうか。また、阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)という名前は、限り無い智慧と慈悲そのものである阿弥陀仏と別個にはあり得ないと言うべきでしょうか。要するに真宗学でいう、「名体不二」という考え方と似ています。
私はお手紙で、遺体運搬に際してのこのような趣旨を簡略にお答えしたのですが、インドの民俗信仰で唱えられている言葉に対する飛鳥師の、この敏感な反応ぶり。これは師の頭脳がまだまだ若い人顔負けの新鮮さをもっている何よりの証拠です。
しかしこれらのことは、約200人の参会者の中で、多分、私しか知らないことです。これをこそ私は皆様に御披露すべきだった。私はそれが出来なかった。飛鳥師に対してはもとより、御参会の皆様にも大変申し訳無いことをしたと思っています。
だから挨拶が苦手だと言うのです。
なお、上記のラーマですが、インドが世界に誇る古典的二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ(ラーマの行状記)」のうちの一つ。ラーマは後者の主人公として大活躍する英雄の名前です。他方、ヒンズー教の最大神格、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神のうちのヴィシュヌ神の第七番目の化身といわれ、御参考までに申しますと、釈尊は第九番目の化身だと考えられています。
ヒンズー教は、何でも彼でも、自分のテリトリーにかかえ込んで、その命脈を広げてきたのです。「寛容の宗教」とも言われる所以です。
M君とは昭和23年、京都の旧制高校で同じクラスの仲間として出会いました。だから以来、62年間もの親友です。但し、大学では彼は法学部、私は文学部と別れました。しかし昼食時や放課後など、よくキャンパス内の花谷会館という喫茶店で落ち合い、二人は店のおばさんや女子店員たちから"アボット・コステロ"さん(当時、アメリカ映画の喜劇俳優コンビ)と呼ばれていました。
彼はメンソレータムなどの薬品で有名なO社の御曹司、家は昭和初期の西洋住宅建築として、国の登録有形文化財になっています。父君はクリスチャンだったせいで彼も一応はクリスチャンですが、母君が浄土真宗の御門徒で、彼も仏教には普通の人以上に興味があるようです。
もう50年も前でしょうか、「色即是空」とはどういう意味かと尋ねられたので、"ルーパム=色 エヴァ=こそは シューニャム=空"(形あるものこそは空である=実体が無い)というサンスクリットを教えたところ、今もしっかり憶えているようです。
彼は、もう可成り前から故郷の市の文化サークルの会長さんを務めており、私も一度、講演に引っぱり出されたことがありますが、その他いろんな活動のために、故郷の町と東京とをも、年に何回か往来しています。
尤も、しょっちゅう東西を往還している私とは殆んどすれ違いで、なかなかゆっくり会食などの機会は回ってきません。
だからという訳でもないでしょうが、時々電話がかかってきて、時には30分40分間、クラスメートの消息をはじめ、いろんな事を話してくれます。
先日も晩景の一刻、電話がかかってきて、かれこれ4~50分も話したでしょうか。そのうちに話題は視力の減退、そして眼鏡の話になり、私が百円ショップで、度が
2.5から3.5度ぐらいの眼鏡を買ったり、もらったりして10個ほど(それでも合計1000円程度です)築地と自坊、更に事務所と居間などに分けて持っているよと話しましたが、彼も全く同じらしいのです。
ところが彼はボヤきます。「4.0がほしいんだが、無いね。」これに対して私が、「僕は一つ二つは持っているよ。但し、自分で買ったのではない。弟か誰かにもらったと思う。しかし4.0度でなくっても、以前から使っていた3とか2とか、度のゆるいのを2つかけたらいいじゃないか。」と言いますと、彼はビックリしたようです。
「一つかけてるだろう。その上に重ねてもう一つかけたらいいんだよ。」
「ふーん。」
私のように世間音痴に比べて何でも知っているように思っていたM君が、こんな簡単なことを知らなかったのに、こっちの方がビックリしました。
簡単なことと言えば、これは私だけのことですが、時々白菜キムチが食べたくなります。
しかし、(一般に販売されている)唐辛子で真赤なのは、些か苦が手。買う時に一々レッテルなど見ている訳ではないので、たまに、あまり辛くない品に当ると、やれやれと思います。
ところが、これも先日、ふと思いついて、真赤なのを少し水で洗って、赤味を減らしてみました。そして口に入れると、何と、丁度具合がいいのです。以来、キムチは、どんなに真赤でも恐れなくなりました。
世の独居男性諸氏よ、御参考までに。
P.S.一旦、上記を書いてから、念のため、M君に電話して眼鏡のことを確かめてみたところ、彼も実験していて、私の意見に賛成してくれました。
そして、ぽつんと言いました。"母も虫眼鏡など使っていたが、これを教えてやればよかった......"と。
インド亜大陸の原住民の信仰の件で、書き忘れていたことが一つあります。それは、"蛇"のことです。
コブラという名の蛇を御存知でしょう。長さが2メートル、太さは我々の手首ぐらい。腹を立てると頬(ほっ)ぺたをふくらませて、頭部全体が薄ぺらい三角形、扇のような恰好になる。そして少くとも2~3メートルはジャンプして、敵に噛みつくのです。噛まれたら、人間など、まず生命は無い。山地で土木作業をしていた男たちが、土の中で寝ていたコブラに触れて、あっという間に3~4人が噛み殺された事件を彼地の新聞で見たことがあります。コブラは猛毒をもつ、いわゆる毒蛇なのです。
蛇といえば錦蛇。胴の直径が10センチぐらい、長さは4~5メートルですが、これは毒をもっていない。しかし敵に巻きついて絞め殺します。
その他、蛇にはいろんな種類があり、それらを捕獲してきて、飼いならし、直径30~40センチぐらいの籠に入れて持ち歩き、道端にしゃがんで笛を吹くと(それを先祖代々専業にしているカーストがある)、特にコブラなど、籠の口から首を20~30センチ持ち上げて、くねくね芸をしたり、また獲物にとびかかる恰好をして、見物人から見物料をもらったりしています。
一度、わけのわからない蛇を見かけたことがります。長さが40~50センチで色は赤い。蛇使いの話では、半年毎に頭と尻尾が交替するというのですが、こわいのであまり近寄って見ることも、従って確かめることも出来ませんでした。インドには不思議なこともあるものです。
ところで蛇たちは、4、5、6月の夏季は土の中で夏眠しているが、7月初頭ごろ雨期に入ると、出てきます。夕方など、気持が好いのでしょうか、大学の広大なキャンパスの道路(アスファルト舗装など未だ無かった)に長く伸びて寝ている。薄暗がりで気付かなかったり、縄か何かだと思って蹴ったり踏んだりすると、大変です。我が国でも行者や巡礼(以前は田舎でのお葬式に山辺の葬場への行列の先導者でも)か、身丈ほどの長い杖、時には頭部にシャンシャンと音のする輪をつけた杖などついて歩いたのは、蛇への警戒、更には蛇に対して、人間が来たぞという警告の意味があったと思われます。
現代でもそうですが、古代、インド亜大陸は今よりも緑の多い時代があったと考えられていますから、草原などを歩くことの多かった当時の人びとは、蛇に対して、大きな怖れを懐いていたと思われ、これをナーガ(龍)といって畏敬したのです。そしてこの畏教がエスカレートして、ずっと後に仏教の経典にも、天龍八部衆といって半神半獣の扱いをされ、八大龍王として、ナンダ、ウパナンダ、マホーラガなどという名前さえつけられ、一種の守護神と考えられるようになりました。
親鸞聖人76才頃作(1248年)の「現世利益和讃」の中の一首にも
「南無阿弥陀仏を となふれば
難陀 跋難 大龍等
無量の龍神 尊敬し
よるひるつねに まもるなり」
とあります。
また龍は天に昇り、雲を喚び、雨を降らせると信じられていました。
中学2年生の頃の国語の教科書だったと思います。源実朝(1192-1219、頼朝の次男、鎌倉幕府第3代将軍、歌集「金槐和歌集」の作者)の歌として、
「時により 過ぐれば民の 歎きなり
八大龍王 雨やめたまへ」
というのがありました。
龍の中で有名なのはムチリンダ龍王のことです。お釈迦さまが悟りを開き、その喜びにひたっておられる間、近くのムチリンダ樹に住む龍王が、お釈迦さまの背後から首を伸ばし、お釈迦さまの頭上を覆うようにして、雨風からお護りしたという伝説があります。
この伝説は、インドシナ半島の仏教国、アンコールワットなどで名高いクメール王国の時代(11~14世紀)、ことにもてはやされたらしく、その姿を画いた仏像が多数現存しています。また、アンコールワットやアンコールトム、その他の幅数十メートル以上の周濠にかけてある石造の橋の欄干のデザインとして、頭が七つぐらいある巨大なナーガがあちこちに見られます。龍が外敵を守ると信じられていたのです。
インド半島の原住民たちは、生命の根源としての水にまつわる神々や樹神、生産のシンボルとしての性器、畏怖の対象としてのナーガなどに供物を捧げ、祈りを捧げながら日々を送っていたのです。
朝、光をもたらす太陽、夜の明りとしての月、雨、風、雷その他、自然現象のあれこれをも一種の神として尊崇していたことも、他の未開民族と同様だったと思われます。
このようにナーガ崇拝もあるのですが、蛇にもやはり天敵があります。例えばマングース。リスに似た動物ですが、歯が鋭い。蛇と戦うと、身体に蛇を巻きつかせておいて、その歯で蛇を噛み殺したりします。(その実演も本当に蛇を殺すわけではありませんが、街頭の蛇使いが見せてくれます。)
もう一つ、より強力な天敵、それは鷲あるいは鷹でしょう。しかし神話の世界では、これを怪鳥ガルダといって、ヴィシュヌという神さまの乗り物になっています。
ガルダは漢字では迦樓羅と書かれ、日本の烏天狗のモデルだそうです。
仏教は、紀元前3世紀のアショーカ王の頃から、インド以外の国ぐにへも伝道されるようになりました。
東南アジアの南端、インドネシア地方に仏教あるいはヒンズー教が伝わったのは、中国の法顕三蔵がインドのからの帰途、ここに立寄ったのは5世紀前半で、この頃には既に仏教は行われていた。これがどこまで遡れるか目下のところ私には不明ですが、彼地における仏教文化の大きなモニュメントとして、中部ジャワ島のボロブドゥール寺院(9世紀)その他が有名です。国土の大部分がイスラーム化してしまった現在でも、バリ島にだけはヒンズー教が残っており、他の地方でもヒンズー文化の名残としてワヤンクリット(紙製で、手足が動く人形を操り、背後から照明してスクリーンに投影し、反対側の見物人に見せる影絵芝居 ― 題材はインドの古典中の物語から取られています。)などがあります。そのインドネシアの国営航空の名前がガルダなのです。
その他、蛇はインドの神話に様々な姿であらわれています。
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