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インド紀行

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 築地本願寺主催『釈尊の足跡とネパール本願寺を訪ねて』1月18日出発、10日間の旅に参加しました。世話は「大陸旅遊」という東京の旅行会社。一行は添乗員2名(内1名は社長)を含めて総勢44名。現地では、流暢な日本語をしゃべるインド人ガイド3名が加わり、関西空港発組20名と成田発組24名が中型バス2台に分乗。連泊無し、毎朝5時または5時半起床、次の宿舎へは殆んど夕刻7時、8時に到着という、甚だ厳しい旅程でした。しかしバス車内で多少の仮眠が出来たせいもあったのでしょうか、微熱が出た方も2~3居られましたが、終始笑顔。私など、築地本願寺での顔と全然違うなどと言われ、旅の終りには直接私に、「次の機会も又」との声も聞かせていただきました。猶、中には元々、脚や膝の故障の方も居られたのですが、杖持参で、よく頑張って下さったと思います。
 以下、その旅行中に接したネパール、インドについて、簡略に御報告いたします。

 ところで私は、昭和33年夏~5年春(1958~60)、インド政府奨学生ということで、月額200ルピーを支給され、ガンジス川畔の沐浴風景で名高いヒンズー教(インドの民俗宗教)の大聖地ベナレス(ヴァラナシー)の大学に留学していました。
 現在こそ1ルピーは日本円にして2円と少々ですが、当時のレートでは1ルピー=75円60銭、200ルピーは約1万5000円です。但しそのうち半分以上は授業料と、食費を含めた寮費に消えます。そして残りで図書を買い、休暇中の旅行費用に当てる。それでも、一般庶民に比べると「バラ・サーブ」(大旦那)でした。例えば遺跡発掘に当って土砂運搬のためなどに雇用する人夫の日当は、1ルピー程度だったと思います。
 因みに、上記のほか、休暇中の旅費として年間100ルピーぐらい、下痢や風邪ではなく、もっと深刻な病気を患った場合は、寮長などの証明によって、やはり100ルピーぐらいが支給されました。
 また当時、未だ日本からの海外旅行など、渡航先の国に会社など身元引受人が無い限り不可能で、送金なども出来ませんでした。米ドル500ドル以内を携帯して海外に自由に渡航出来るようになったのは、ようやく昭和39年4月以降のことです。
 だから私は、当時、商社マンとしてボンベイ(インド西海岸の最大の商都、今のムンバイ)の駐在していた大学の野球部の後輩─ 私が大学院生で、監督を勤めていた頃のキャプテンI君(故人)─ から1000ルピーを送金してもらい、お互いに帰国後、円で返済したことが一度だけあります。
 なお、渡印した昭和33年の秋、11月ごろから年末まで、幸いな(?)ことに、大学が学生のストライキーのために閉鎖になりました。
 そして丁度その11月下旬から翌34年3月まで、戦後初めてインド仏蹟を探査する「京都大学インド仏蹟踏査隊」6名(隊長は京都大学教授で恩師・長尾雅人博士)が来印され、学校閉鎖中でもあったので、前半の約1ヶ月半、お供をすることを許されました。踏査隊は、当時、一般の人々が到底訪問することが出来ないような地域をも、ジープを馳って探訪されましたので、このお供は私にとって、これは後々まで大きな宝物になりました。

 その後、昭和37年1月~2月、同38年11月~12月。昭和50年代以後も何度か、貴重な、想い出深い訪印の機会を得ました。前回は平成20年2月で、今回は多分20回目。従ってこの50年間の彼の地の変貌が一応概観できる立場に在り、御報告は、それらの折々の体験、見聞をも若干踏まえたものであることを御諒承ください。

 では何故、そんなに何度もインドへ行くのかということですが、インドへは一度行って、もうこりごりという人と、1回行くと嵌りこんでしまう人との二通りがあると、よく聞きます。
 私の場合、最初はいろいろ煩わしいことが多かった。しかしこれは留学生として様々な制約もあったからかと思います。しかし、もっと仏教の故郷のことを知っておきたいとの思いもあり、2度目からは、まあ幾分懐中の温かい旅行者でもありましたから、留学生時代の3等学生割引(鉄道)、夜は駅の待合室で仮眠といった旅行とは訳が違います。それに何と言ってもインドは広い。地域別に2週間程度の旅でも、少くとも7~8回は行く必要がある。かく申す私も同じ所に何度も行きながら、未だ全く足を踏み入れていない地方が2~3あります。
 それともう一つ。私は適温27~8度。暑さの方は35~6度まではいいのですが、寒いのが大の苦が手。それで一種の避寒と、勿論、勉強も兼ねて、冬の間、日程をやり繰りしてインドだけでなく、仏教に関係の深い東南アジア方面を探訪するのです。 しかし、もう齢。旧制中学のクラス会の世話役氏から、今春の傘寿の会の案内状をもらいました。だから「今回が最後でしょう」などとからかう人も居ますが、それならそれでよし。しかし沢山の知友から、次の計画立案を要望されていることも事実です。
 別にインド行きのためではありませんが、何か人々のお役に立つようなら、出来るだけ元気で長生きしたいとも思っています。
 皆さんもどうぞ。

横綱

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  子供の頃、強い強い雷電為右ヱ門(1767-1825)というお相撲さんのことを読みました。
 両脇に差しこまれた相手力士を外から貫拔きで締めつけて二の腕を折ったのと、張手で相手力士の頬を骨折させたのとで、共に封じ手になったほどでした。16年間も大関の地位を守り、その間、32場所中、負けたのは10回だけだったそうですが、遂に横綱は贈られませんでした。
 雷電関の師が初代横綱、谷風(梶之助1750-1795)です。生涯で44場所中、258勝14敗(勝率約9割5分)、つまり当時春秋2場所、1場所10日間として、黒星は2場所(1年)で一つなのです。
 また、63連勝の記録をつくり、これは昭和の名横綱双葉山の67連勝に次ぐものではないでしょうか。流石、雷電関の先生だけあります。
 しかし谷風は、強いだけではありませんでした。人柄が素晴しく、人びとから尊敬されていました。彼が江戸の街を行くと、大勢が子供をつれてやってきたそうです。横綱に跨いでもらったら、子供たちが丈夫で賢こく育つとの噂が広まっていたからです。
 横綱は、その形からも容易に解るように、注連縄、聖域(神様)のしるしだったのです。
 昔は良き時代でした。

返信用葉書

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 手紙や葉書のついでに、特に返信用の葉書について思うことを書いておきましょう。 返信用の葉書は屡々次のような形式になっています。

  
   御出席
   御欠席
   (上の何れかに○印をおつけ下さい)
        貴名(御芳名)
        御住所

 

 このとき、ただ○印を入れるだけ、あるいは住所、氏名の下に記入するだけでは、ちっと如何かと思います。
 「御」を斜線ででも消し、出(欠)席の上に「謹んで」、下には「します」「致しますなどの文字を入れる。また、貴名の「貴」や御芳名の「御芳」、御住所の「御」も斜線抹削しておけば...と考えます。"そこまでしなくても"とお考えの向きもあるかも知れせんが、念のため。なお、出席の場合、おめでたい行事であれば「御結婚おめでとうごいます。喜んで(謹んで)出席させていただきます」欠席の場合は、簡単に欠席の理由記述し、併し乍ら「御盛会を心から念じ上げます」などと書いておけば、返信を受けと側としても、何かほのぼのとしたものを感じられるのではないでしょうか。
 また、表に宛名が「××宛」などと印刷してある場合、寺院や会社などの単位、団体対しては、××の下、あるいは脇に"御中"と、個人宛の返信の場合は「××様」と、"様"の字を記入します。以上、老爺心から。

手紙

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 前回、手紙文の法則などと大層なことを書きましたが、近頃はその法則が、昔と比べて随分、自由化されているように思えます。
 尤も、この自由化は、いわゆる法則を知った上での破調ではなく、自己流と言った方がよいかも知れませんね。
 ものを書くのはなかなか苦心、工夫が要るもので、悩みも大きいものです。
 特に日頃、原稿用紙に向うことのない人が、用務に駆られて手紙を書かざるを得ない場合もあります。それでなくても、手紙の字や文面にも人柄が現れるとか言われ、気を使うことも少なくありません。また手紙は一種の芸術でもあります。その手紙を誤り無く、上手に書くために『手紙の書き方』などというタイトルの書物も何種類か出ているようですし、書でも文章でも「書く」ことは恥を掻くことだと言えないこともないのですが、「書き方」の詳細はそちらに譲るとして、極く基本的なことを中学生の時に教わりました。

 あれは確か2年生の春の頃だったと思います。国語や漢文担当のH先生が一日、授業時間に"今日は手紙や電(報)文の書き方を勉強する"と言って、お話がありました。
 まず普通の手紙は、最初「拝啓」とか「謹啓」とかいう挨拶語で始める。「啓」は口を開く、つまり「申し上げる」という意味だ。
 次に時候の挨拶や、御不沙汰のお詫び、相手の安否などを問う文章を書く。例えば「今年も早や花の季節になりました。長らく御不沙汰いたしておりますが皆様お変りございませんか。私もお陰様で日々恙無く過しております。御休心下さいませ」など。これが礼儀じゃ。
 そしてその次に用件の本文を書く。
 それが終ったら、再び挨拶。例えば「やがて梅雨、高温多湿の候となりますが、くれぐれも御身体御自愛のほど念じ上げます」など。そして末尾に「敬具」(敬いをもって)などと書き、行を換えて私信の場合は月日を書く(公文書の場合は年月日)。そして次の行に自分(差出人)の名前を下の方に。更に行を換えて相手(受取人)の名前を上の方に、自分の名前よりも大き目の字で書く......。
 また、手紙文は通常の話し言葉より、一段だけ丁寧な語法で書く。つまり対等の相手(友人など)に対しては一段丁寧な語法。弟妹や後輩などへは、一応対等な身分の相手と考えて書く。上の人には上々の人相手のつもりで書く。

 次に、簡略に用件だけを書く手紙の場合。これは相手によっては葉書でもよろしい。
 この場合は冒頭の「拝啓」、「謹啓」などの挨拶語、および、時候の挨拶文などは不用。いきなり「冠省」とか「前略」と書く。これは、冒頭の挨拶語、挨拶文(冠、前)を省略(省、略)します、という意味。そして次に用件を書く。例えば、
 「先日は旅行にお誘いいただき有難うございました。日程の都合がつきましたので、参加させていただきます。その節はいろいろ御世話に相成ることと存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。何れ当日拝眉を楽しみに」など。
 そして末尾の挨拶語としては「敬具」の代りに「頓首」「不備」「不一」「草々」「怱々」など、充分に意を尽していない略式の書面であることの詫びを述べる。月日、自名、宛名は同じ。
 但し葉書の場合、裏面には月日までで、相手や自分の住所氏名は表に書く。
 また、突然、急な用件の書状の場合は、冒頭の挨拶語として「急啓」などと書いてもよい。なお、返信の場合は拝啓などの代りに「拝復」と書く。また目上の人、たとえば先生に対してなどは、「前略」「冠省」ではなく、出来るだけ丁寧に「謹啓」などから始める...。
(註:私たち僧侶あるいは仏教徒は、末尾の挨拶語「敬具」などの代りに「合掌」などを用いるのもよいのではないでしょうか。時に「和南」など書いておられる僧侶もありますね。これはvandana(ヴァンダナ)というサンスクリットの音写で、礼拝、稽首、敬礼などを意味する言葉です。)
 それから、封筒の表書きは、相手の名前が出来るだけ中央にくるように、上から大きく書く。裏の自分の住所氏名は、まあ封筒の下半分に......。
 先生の講義は、まだまだ続いたと思います。
 そして次に電報の打ち方です。
 電報は現在では電話で申し込めますが、戦後暫くまでは郵便局へ行って「賴信紙」という用紙に書いて申込むものでした。
  賴信紙には、受取人の住所、氏名などは欄外に書き、本文と差出人の名前(略名でもよい)のみを枡目の部分に片仮名で書く。但し、濁音や半濁音の場合、「゛」とか「゜」は一字に数えられ、例えば「江戸」は「エ ト゛○」と書くから3字分になる。また句読点も一字分に数えられ、枡目一字で幾何の費用がかかる。だから電文は成るべく簡単に、しかし趣旨が間違いなく、正確に伝わるのでなければならない。「よいか、わかったか。ではみな、それぞれ例文を作ってみなさい!」
 そして私たちは、めいめいで電文案を作成して、教壇まで持参し、それを先生がまとめて1枚づつ朗読されます。
 ところが、その電文が、みな殆んど一緒なのです。曰く、
 「フ ゛ タ ト ン シ ス  、 ス ク ゛ カ ヘ レ 、 ○○」
  つまり「豚、頓死す、直ぐ帰れ」なのです。
 「なんじゃ、これは。"豚、頓死す"ばかりじゃないか」
 それもその筈、先生は太っていて渾名は「ブタ」。後には頬ぺたの膨らみ具合から「河豚」が定着しました。
 私たち、まさに悪戯盛りだったのですね。
 昭和19年頃のことでした。

N子の手紙

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 N子は、芳紀今や30才? とても純粋な心の持主です。
 何年か前「お客さんです」との声で玄関に出てみると、何と頭をくりくりに剃った法衣姿の女の子が立っています。N子でした。
 「どうしたの?」とたずねると、「お坊さんをやめようかと思う」と。「何故?」ときくと、「教修所の先生の言っていることと、していることが違うから」と。確か、「お経本はその都度頂くなど丁寧に扱いなさい」と教えておきながら、講義が済んで控室に帰った途端に、「やれやれ」と思って、懐中にしていた経本を、ぽんと机の上に置くのを、彼女が見ていて、腹を立てたのだったと思います。彼女は、それを言うために、法衣姿のまま、京都の教修所を飛び出し、一時間余りもかけて、私の寺まで来たのでした。
 「そんなことをしてはいけない。」「あなたのような若い、可愛い坊さん姿で、檀家のおばあさんたちのお家にお参りしたら、あばあさんたち、どんなに喜ぶことか。そうやって門徒の皆さんに喜んでもらうのが、あなたの任務なのですよ。」
 私は繰り返し繰り返し、話しました。
 彼女はどうやら、解ってくれたようでした。
 ところが、その後、しばらくして、南米のボリビヤとかへ行ってしまったのです。海外協力の団体に属し、日本の家庭の(台所の)簡単な技術を現地の人々に伝えるためだったのです。
 周囲に全く日本人の居ない所で、彼女は2年間、頑張り、やがて帰国しました。
 現在は、生まれたお寺に住み、バイトをしながら、折々に築地本願寺へもお参りに来ます。相変わらず元気で活発、まるで男の子のようです。
 そんな彼女に、ちょっといい事があるらしいので、極くささやかな贈り物をしました。
 しばらくして、大きな封筒が届きました。念のため測ってみると縦35.5センチ、横巾17.5センチ、勿論、既製品ではなく、どうやらドーサ(礬砂)引きのやや堅目の画仙紙でのお手製のようです。表書きも裏も、筆ペン書きらしく、〒マークは、縦画の左右に目、下はロにルージュが塗ってあります。裏の発信者住所の〒マークを中心に画かれた顔は、ほっぺたが赤丸でした
 さて中味ですが、やはり同じ画仙紙に本文はライトブルーの筆ペン書き、紙幅は102センチで、先日のプレゼントに対する礼状。約30行でした。
 紙幅の下縁近くに黒い水鳥が大小6羽。黄色い目、黄色い脚。黄色い嘴には、花喰いのようにピンク色のハートを咥えています。

 それにしても私自身、これまでのあちこちから何百通、何千通のお手紙を戴いたかわかりません。年賀状も毎年千数百通ですが、N子の今回のような来信は初めてです。
 恐らくは彼女の創意なのでしょう。手紙の書き方の規則や法則も大切ですが、こんな型破り(?)も面白い。いや、型破りを作れるその才能が、また素晴らしいと思いました。
 但し型破りとは言っても、それは封筒や便箋や、インクの色や挿絵のことであって、文章そのものは、きちんと、手紙文の法則に合ったものでした。

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