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    <title>輪番独語</title>
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    <updated>2010-03-02T01:08:42Z</updated>
    <subtitle>築地本願寺輪番豊原大成によるブログ</subtitle>
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    <title>インド紀行</title>
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    <published>2010-03-02T00:55:44Z</published>
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    <summary>　築地本願寺主催『釈尊の足跡とネパール本願寺を訪ねて』１月１８日出発、１０日間の...</summary>
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        <![CDATA[<p>　築地本願寺主催『釈尊の足跡とネパール本願寺を訪ねて』１月１８日出発、１０日間の旅に参加しました。世話は「大陸旅遊」という東京の旅行会社。一行は添乗員２名（内１名は社長）を含めて総勢４４名。現地では、流暢な日本語をしゃべるインド人ガイド３名が加わり、関西空港発組２０名と成田発組２４名が中型バス２台に分乗。連泊無し、毎朝５時または５時半起床、次の宿舎へは殆んど夕刻７時、８時に到着という、甚だ厳しい旅程でした。しかしバス車内で多少の仮眠が出来たせいもあったのでしょうか、微熱が出た方も２～３居られましたが、終始笑顔。私など、築地本願寺での顔と全然違うなどと言われ、旅の終りには直接私に、「次の機会も又」との声も聞かせていただきました。猶、中には元々、脚や膝の故障の方も居られたのですが、杖持参で、よく頑張って下さったと思います。<br />　以下、その旅行中に接したネパール、インドについて、簡略に御報告いたします。</p>
<p>　ところで私は、昭和３３年夏～５年春（１９５８～６０）、インド政府奨学生ということで、月額２００ルピーを支給され、ガンジス川畔の沐浴風景で名高いヒンズー教（インドの民俗宗教）の大聖地ベナレス（ヴァラナシー）の大学に留学していました。<br />　現在こそ１ルピーは日本円にして２円と少々ですが、当時のレートでは１ルピー＝７５円６０銭、２００ルピーは約１万５０００円です。但しそのうち半分以上は授業料と、食費を含めた寮費に消えます。そして残りで図書を買い、休暇中の旅行費用に当てる。それでも、一般庶民に比べると「バラ・サーブ」（大旦那）でした。例えば遺跡発掘に当って土砂運搬のためなどに雇用する人夫の日当は、１ルピー程度だったと思います。<br />　因みに、上記のほか、休暇中の旅費として年間１００ルピーぐらい、下痢や風邪ではなく、もっと深刻な病気を患った場合は、寮長などの証明によって、やはり１００ルピーぐらいが支給されました。<br />　また当時、未だ日本からの海外旅行など、渡航先の国に会社など身元引受人が無い限り不可能で、送金なども出来ませんでした。米ドル５００ドル以内を携帯して海外に自由に渡航出来るようになったのは、ようやく昭和３９年４月以降のことです。<br />　だから私は、当時、商社マンとしてボンベイ（インド西海岸の最大の商都、今のムンバイ）の駐在していた大学の野球部の後輩─ 私が大学院生で、監督を勤めていた頃のキャプテンI君（故人）─ から１０００ルピーを送金してもらい、お互いに帰国後、円で返済したことが一度だけあります。<br />　なお、渡印した昭和３３年の秋、１１月ごろから年末まで、幸いな（？）ことに、大学が学生のストライキーのために閉鎖になりました。<br />　そして丁度その１１月下旬から翌３４年３月まで、戦後初めてインド仏蹟を探査する「京都大学インド仏蹟踏査隊」６名（隊長は京都大学教授で恩師・長尾雅人博士）が来印され、学校閉鎖中でもあったので、前半の約１ヶ月半、お供をすることを許されました。踏査隊は、当時、一般の人々が到底訪問することが出来ないような地域をも、ジープを馳って探訪されましたので、このお供は私にとって、これは後々まで大きな宝物になりました。</p>
<p>　その後、昭和３７年１月～２月、同３８年１１月～１２月。昭和５０年代以後も何度か、貴重な、想い出深い訪印の機会を得ました。前回は平成２０年２月で、今回は多分２０回目。従ってこの５０年間の彼の地の変貌が一応概観できる立場に在り、御報告は、それらの折々の体験、見聞をも若干踏まえたものであることを御諒承ください。</p>
<p>　では何故、そんなに何度もインドへ行くのかということですが、インドへは一度行って、もうこりごりという人と、１回行くと嵌りこんでしまう人との二通りがあると、よく聞きます。<br />　私の場合、最初はいろいろ煩わしいことが多かった。しかしこれは留学生として様々な制約もあったからかと思います。しかし、もっと仏教の故郷のことを知っておきたいとの思いもあり、２度目からは、まあ幾分懐中の温かい旅行者でもありましたから、留学生時代の３等学生割引（鉄道）、夜は駅の待合室で仮眠といった旅行とは訳が違います。それに何と言ってもインドは広い。地域別に２週間程度の旅でも、少くとも７～８回は行く必要がある。かく申す私も同じ所に何度も行きながら、未だ全く足を踏み入れていない地方が２～３あります。<br />　それともう一つ。私は適温２７～８度。暑さの方は３５～６度まではいいのですが、寒いのが大の苦が手。それで一種の避寒と、勿論、勉強も兼ねて、冬の間、日程をやり繰りしてインドだけでなく、仏教に関係の深い東南アジア方面を探訪するのです。　しかし、もう齢。旧制中学のクラス会の世話役氏から、今春の傘寿の会の案内状をもらいました。だから「今回が最後でしょう」などとからかう人も居ますが、それならそれでよし。しかし沢山の知友から、次の計画立案を要望されていることも事実です。<br />　別にインド行きのためではありませんが、何か人々のお役に立つようなら、出来るだけ元気で長生きしたいとも思っています。<br />　皆さんもどうぞ。</p>]]>
        
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    <title>白椿？</title>
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    <published>2010-02-16T02:10:22Z</published>
    <updated>2010-02-16T02:11:18Z</updated>

    <summary>　都心に在る別院から車で約３０分。　御生前に諸役をお務め下さった御住職が逝去され...</summary>
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        <![CDATA[<p>　都心に在る別院から車で約３０分。<br />　御生前に諸役をお務め下さった御住職が逝去されたのですが、当方の日程の都合上、密葬にも本葬にも参上できないので、寸暇を見出して、お焼香に参上しました。<br />　帰路、高速道路に入るまでの一般道路の左側に、見事に刈り込まれた生垣が暫く続きます。<br />　手入れが大変だろうなと思っていたら、椿だろうか、ぽつんぽつんと白い花が見える。<br />　緑一色もいいが、これも──と、その点在の度合いにも感心しました。</p>]]>
        
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    <title>賞味期限</title>
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    <published>2010-02-10T07:48:02Z</published>
    <updated>2010-02-10T07:48:32Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp; 　さる１月３１日（２０１０年）とあるコンビニで、プラスティック容器...]]></summary>
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        <![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p>　さる１月３１日（２０１０年）とあるコンビニで、プラスティック容器入りの漬物を買いました。食べるため蓋を開けようとして何気無く賞味期限を記載したレッテルを見たら、何と、２００８・０５・２８と印刷してあります。<br />　中味は別に何でも無さそうなので食べてみたら、異常はありませんでした。<br />　しかし賞味期限が切れて１年８ヶ月も経った商品が店頭に置かれていた事実に、びっくりしました。<br />　世の独居男性諸氏よ、食品購入の際にはくれぐれも御用心下さい。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　賞味期限の切れた独居男性より。</p>]]>
        
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    <title>滴</title>
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    <published>2010-02-08T01:39:45Z</published>
    <updated>2010-02-08T01:41:04Z</updated>

    <summary>　ホテルで会食の時です。　ボーイさんが、大きな鍋に入れたコンソメスープ（日本料理...</summary>
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        <![CDATA[<p>　ホテルで会食の時です。<br />　ボーイさんが、大きな鍋に入れたコンソメスープ（日本料理ならお澄し）を掬って、私の皿に入れました。<br />　見るともなしに見ていると、スプーンのお尻から滴が一つ二つ、足もとの絨毯の上に落ちました。<br />　次いで隣の方へのサービスを見ていると、やはり床に。そしてその次も。<br />　これじゃあ絨毯もたまらないな、と思ったり、色やデザインも一層工夫をせねばと考えたり、いや、ポタージュ（日本料理だと味噌汁）なら滴は落ちないかなと思い返してみたりしていました。</p>]]>
        
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    <title>横綱</title>
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    <published>2010-02-04T00:20:46Z</published>
    <updated>2010-02-04T00:22:24Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;子供の頃、強い強い雷電為右ヱ門（１７６７－１８２５）とい...]]></summary>
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        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;子供の頃、強い強い雷電為右ヱ門（１７６７－１８２５）というお相撲さんのことを読みました。<br />　両脇に差しこまれた相手力士を外から貫拔きで締めつけて二の腕を折ったのと、張手で相手力士の頬を骨折させたのとで、共に封じ手になったほどでした。１６年間も大関の地位を守り、その間、３２場所中、負けたのは１０回だけだったそうですが、遂に横綱は贈られませんでした。<br />　雷電関の師が初代横綱、谷風（梶之助１７５０－１７９５）です。生涯で４４場所中、２５８勝１４敗（勝率約９割５分）、つまり当時春秋２場所、１場所１０日間として、黒星は２場所（１年）で一つなのです。<br />　また、６３連勝の記録をつくり、これは昭和の名横綱双葉山の６７連勝に次ぐものではないでしょうか。流石、雷電関の先生だけあります。<br />　しかし谷風は、強いだけではありませんでした。人柄が素晴しく、人びとから尊敬されていました。彼が江戸の街を行くと、大勢が子供をつれてやってきたそうです。横綱に跨いでもらったら、子供たちが丈夫で賢こく育つとの噂が広まっていたからです。<br />　横綱は、その形からも容易に解るように、注連縄、聖域（神様）のしるしだったのです。<br />　昔は良き時代でした。</p>]]>
        
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    <title>返信用葉書</title>
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    <published>2010-02-02T02:19:30Z</published>
    <updated>2010-02-02T02:21:32Z</updated>

    <summary>　手紙や葉書のついでに、特に返信用の葉書について思うことを書いておきましょう。　...</summary>
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        <![CDATA[<p>　手紙や葉書のついでに、特に返信用の葉書について思うことを書いておきましょう。　返信用の葉書は屡々次のような形式になっています。</p>
<p>&nbsp;　<br />　 　御出席<br />&nbsp;　　御欠席<br />&nbsp;　　（上の何れかに○印をおつけ下さい）<br />&nbsp;　　　　　　　貴名（御芳名）<br />&nbsp;　　　　　　　御住所</p>
<p>　</p>
<p>　このとき、ただ○印を入れるだけ、あるいは住所、氏名の下に記入するだけでは、ちっと如何かと思います。<br />　「御」を斜線ででも消し、出（欠）席の上に「謹んで」、下には「します」「致しますなどの文字を入れる。また、貴名の「貴」や御芳名の「御芳」、御住所の「御」も斜線抹削しておけば...と考えます。"そこまでしなくても"とお考えの向きもあるかも知れせんが、念のため。なお、出席の場合、おめでたい行事であれば「御結婚おめでとうごいます。喜んで（謹んで）出席させていただきます」欠席の場合は、簡単に欠席の理由記述し、併し乍ら「御盛会を心から念じ上げます」などと書いておけば、返信を受けと側としても、何かほのぼのとしたものを感じられるのではないでしょうか。<br />　また、表に宛名が「××宛」などと印刷してある場合、寺院や会社などの単位、団体対しては、××の下、あるいは脇に"御中"と、個人宛の返信の場合は「××様」と、"様"の字を記入します。以上、老爺心から。</p>]]>
        
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    <title>手紙</title>
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    <published>2010-02-01T01:50:44Z</published>
    <updated>2010-02-01T01:52:30Z</updated>

    <summary>　前回、手紙文の法則などと大層なことを書きましたが、近頃はその法則が、昔と比べて...</summary>
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        <![CDATA[<p>　前回、手紙文の法則などと大層なことを書きましたが、近頃はその法則が、昔と比べて随分、自由化されているように思えます。<br />　尤も、この自由化は、いわゆる法則を知った上での破調ではなく、自己流と言った方がよいかも知れませんね。<br />　ものを書くのはなかなか苦心、工夫が要るもので、悩みも大きいものです。<br />　特に日頃、原稿用紙に向うことのない人が、用務に駆られて手紙を書かざるを得ない場合もあります。それでなくても、手紙の字や文面にも人柄が現れるとか言われ、気を使うことも少なくありません。また手紙は一種の芸術でもあります。その手紙を誤り無く、上手に書くために『手紙の書き方』などというタイトルの書物も何種類か出ているようですし、書でも文章でも「書く」ことは恥を掻くことだと言えないこともないのですが、「書き方」の詳細はそちらに譲るとして、極く基本的なことを中学生の時に教わりました。</p>
<p>　あれは確か２年生の春の頃だったと思います。国語や漢文担当のH先生が一日、授業時間に"今日は手紙や電（報）文の書き方を勉強する"と言って、お話がありました。<br />　まず普通の手紙は、最初「拝啓」とか「謹啓」とかいう挨拶語で始める。「啓」は口を開く、つまり「申し上げる」という意味だ。<br />　次に時候の挨拶や、御不沙汰のお詫び、相手の安否などを問う文章を書く。例えば「今年も早や花の季節になりました。長らく御不沙汰いたしておりますが皆様お変りございませんか。私もお陰様で日々恙無く過しております。御休心下さいませ」など。これが礼儀じゃ。<br />　そしてその次に用件の本文を書く。<br />　それが終ったら、再び挨拶。例えば「やがて梅雨、高温多湿の候となりますが、くれぐれも御身体御自愛のほど念じ上げます」など。そして末尾に「敬具」（敬いをもって）などと書き、行を換えて私信の場合は月日を書く(公文書の場合は年月日）。そして次の行に自分（差出人）の名前を下の方に。更に行を換えて相手（受取人）の名前を上の方に、自分の名前よりも大き目の字で書く......。<br />　また、手紙文は通常の話し言葉より、一段だけ丁寧な語法で書く。つまり対等の相手（友人など）に対しては一段丁寧な語法。弟妹や後輩などへは、一応対等な身分の相手と考えて書く。上の人には上々の人相手のつもりで書く。</p>
<p>　次に、簡略に用件だけを書く手紙の場合。これは相手によっては葉書でもよろしい。<br />　この場合は冒頭の「拝啓」、「謹啓」などの挨拶語、および、時候の挨拶文などは不用。いきなり「冠省」とか「前略」と書く。これは、冒頭の挨拶語、挨拶文（冠、前）を省略（省、略）します、という意味。そして次に用件を書く。例えば、<br />　「先日は旅行にお誘いいただき有難うございました。日程の都合がつきましたので、参加させていただきます。その節はいろいろ御世話に相成ることと存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。何れ当日拝眉を楽しみに」など。<br />　そして末尾の挨拶語としては「敬具」の代りに「頓首」「不備」「不一」「草々」「怱々」など、充分に意を尽していない略式の書面であることの詫びを述べる。月日、自名、宛名は同じ。<br />　但し葉書の場合、裏面には月日までで、相手や自分の住所氏名は表に書く。<br />　また、突然、急な用件の書状の場合は、冒頭の挨拶語として「急啓」などと書いてもよい。なお、返信の場合は拝啓などの代りに「拝復」と書く。また目上の人、たとえば先生に対してなどは、「前略」「冠省」ではなく、出来るだけ丁寧に「謹啓」などから始める...。<br />（註：私たち僧侶あるいは仏教徒は、末尾の挨拶語「敬具」などの代りに「合掌」などを用いるのもよいのではないでしょうか。時に「和南」など書いておられる僧侶もありますね。これはvandana（ヴァンダナ）というサンスクリットの音写で、礼拝、稽首、敬礼などを意味する言葉です。）<br />　それから、封筒の表書きは、相手の名前が出来るだけ中央にくるように、上から大きく書く。裏の自分の住所氏名は、まあ封筒の下半分に......。<br />　先生の講義は、まだまだ続いたと思います。<br />　そして次に電報の打ち方です。<br />　電報は現在では電話で申し込めますが、戦後暫くまでは郵便局へ行って「賴信紙」という用紙に書いて申込むものでした。<br />&nbsp; 賴信紙には、受取人の住所、氏名などは欄外に書き、本文と差出人の名前（略名でもよい）のみを枡目の部分に片仮名で書く。但し、濁音や半濁音の場合、「゛」とか「゜」は一字に数えられ、例えば「江戸」は「エ ト゛○」と書くから３字分になる。また句読点も一字分に数えられ、枡目一字で幾何の費用がかかる。だから電文は成るべく簡単に、しかし趣旨が間違いなく、正確に伝わるのでなければならない。「よいか、わかったか。ではみな、それぞれ例文を作ってみなさい！」<br />　そして私たちは、めいめいで電文案を作成して、教壇まで持参し、それを先生がまとめて１枚づつ朗読されます。<br />　ところが、その電文が、みな殆んど一緒なのです。曰く、<br />　「フ ゛ タ ト ン シ ス&nbsp; 、 ス ク ゛ カ ヘ レ 、 ○○」<br />&nbsp; つまり「豚、頓死す、直ぐ帰れ」なのです。<br />　「なんじゃ、これは。"豚、頓死す"ばかりじゃないか」<br />　それもその筈、先生は太っていて渾名は「ブタ」。後には頬ぺたの膨らみ具合から「河豚」が定着しました。<br />　私たち、まさに悪戯盛りだったのですね。<br />　昭和１９年頃のことでした。</p>]]>
        
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    <title>N子の手紙</title>
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    <published>2010-01-28T04:58:48Z</published>
    <updated>2010-02-12T03:47:44Z</updated>

    <summary>　N子は、芳紀今や３０才？　とても純粋な心の持主です。　何年か前「お客さんです」...</summary>
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        <![CDATA[<p>　N子は、芳紀今や３０才？　とても純粋な心の持主です。<br />　何年か前「お客さんです」との声で玄関に出てみると、何と頭をくりくりに剃った法衣姿の女の子が立っています。N子でした。<br />&nbsp;「どうしたの？」とたずねると、「お坊さんをやめようかと思う」と。「何故？」ときくと、「教修所の先生の言っていることと、していることが違うから」と。確か、「お経本はその都度頂くなど丁寧に扱いなさい」と教えておきながら、講義が済んで控室に帰った途端に、「やれやれ」と思って、懐中にしていた経本を、ぽんと机の上に置くのを、彼女が見ていて、腹を立てたのだったと思います。彼女は、それを言うために、法衣姿のまま、京都の教修所を飛び出し、一時間余りもかけて、私の寺まで来たのでした。<br />　「そんなことをしてはいけない。」「あなたのような若い、可愛い坊さん姿で、檀家のおばあさんたちのお家にお参りしたら、あばあさんたち、どんなに喜ぶことか。そうやって門徒の皆さんに喜んでもらうのが、あなたの任務なのですよ。」<br />　私は繰り返し繰り返し、話しました。<br />　彼女はどうやら、解ってくれたようでした。<br />　ところが、その後、しばらくして、南米のボリビヤとかへ行ってしまったのです。海外協力の団体に属し、日本の家庭の（台所の）簡単な技術を現地の人々に伝えるためだったのです。<br />　周囲に全く日本人の居ない所で、彼女は２年間、頑張り、やがて帰国しました。<br />　現在は、生まれたお寺に住み、バイトをしながら、折々に築地本願寺へもお参りに来ます。相変わらず元気で活発、まるで男の子のようです。<br />　そんな彼女に、ちょっといい事があるらしいので、極くささやかな贈り物をしました。<br />　しばらくして、大きな封筒が届きました。念のため測ってみると縦３５.５センチ、横巾１７.５センチ、勿論、既製品ではなく、どうやらドーサ（礬砂）引きのやや堅目の画仙紙でのお手製のようです。表書きも裏も、筆ペン書きらしく、〒マークは、縦画の左右に目、下はロにルージュが塗ってあります。裏の発信者住所の〒マークを中心に画かれた顔は、ほっぺたが赤丸でした<br />　さて中味ですが、やはり同じ画仙紙に本文はライトブルーの筆ペン書き、紙幅は１０２センチで、先日のプレゼントに対する礼状。約３０行でした。<br />　紙幅の下縁近くに黒い水鳥が大小６羽。黄色い目、黄色い脚。黄色い嘴には、花喰いのようにピンク色のハートを咥えています。</p>
<p>　それにしても私自身、これまでのあちこちから何百通、何千通のお手紙を戴いたかわかりません。年賀状も毎年千数百通ですが、N子の今回のような来信は初めてです。<br />　恐らくは彼女の創意なのでしょう。手紙の書き方の規則や法則も大切ですが、こんな型破り（？）も面白い。いや、型破りを作れるその才能が、また素晴らしいと思いました。<br />　但し型破りとは言っても、それは封筒や便箋や、インクの色や挿絵のことであって、文章そのものは、きちんと、手紙文の法則に合ったものでした。</p>]]>
        
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    <title>池の鯉</title>
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    <published>2010-01-17T04:41:37Z</published>
    <updated>2010-01-17T04:43:36Z</updated>

    <summary>　いつもは横の廊下を素通りするのですが、先日、自坊の中庭の池の方をチラリと見ると...</summary>
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        <![CDATA[<p>　いつもは横の廊下を素通りするのですが、先日、自坊の中庭の池の方をチラリと見ると、鯉たちが、手前の方に群がっています。丁度、朝で、腹が減っているのでしょう。<br />　｢寒いんだけどなあ｣<br />と思いながら、ガラス戸を開けて、餌をやりました。<br />　大小数十尾が、口をありったけ大きく開けて、チュウチュウ、プチュプチュ、音をたてながら食べています。<br />　それを見ていて、ふと思いました、｢彼等には、これしか喜びが無いんだ｣と。<br />　それに比べて人間はどうでしょう。<br />　悲しみも悩みも沢山あるが、喜びもまた一杯ある。人に生まれさせてもらったことに感謝すると共に、魚たちにも何かもっと他に、喜びを与えることが出来ないものかと思いました。しかし、まあ、せめて長生きして、子孫を殖やすことぐらいでしょうね。<br />　さてその翌朝、やはり廊下から、ガラス戸越しに庭を見ると、大きな鷺が鯉を狙っています。パンパンと戸を叩いたら、フワッと飛び上り、向うの屋根にとまって、こっちを見ています。まるで、"ここまでおいで"と言わんばかりです。<br />　折角、卵から孵化して、やっと身長５センチから１０センチぐらいになった稚魚が、可哀そうに、これまで何十尾、いや何百尾、餌食になったことか。<br />　｢畜生め、空気銃でもあったら、絶対、仇討ちしてやるのに｣</p>]]>
        
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    <title>ハンドバッグ</title>
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    <published>2010-01-16T01:13:59Z</published>
    <updated>2010-01-16T01:16:59Z</updated>

    <summary>　ちょっと用事があって、久しぶりに百貨店に行きました。ドアーを入った直ぐ目の前に...</summary>
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        <![CDATA[<p>　ちょっと用事があって、久しぶりに百貨店に行きました。ドアーを入った直ぐ目の前に、外国の有名ブランドの店が並んでおり、その一店のショーケースに、大小三つばかり、婦人用のハンドバッグが展示してあります。<br />　｢高価(た か)いんだろうな｣と思いながら、ガラス越しに、ふと見ると、小さな、値札らしいものが、珍らしく、遠慮がちに（？）ついています。　<br />　別に買う宛もありませんが、興味に誘われて見てみると、一つは３０万円、一つは５０万円、一つは６０万円也。<br />　紙袋なら当然無料(ただ)でしょうし、小さく折り畳みの出来る布製袋も、一つ数百円で、流用っているそうです。<br />　紙袋や布製袋とは使用目的が違うのかも知れませんし、女心は分りませんが、一体、どんな人が買うのでしょう。"不景気"と、どんな関係？。<br />　いささかけちな例ですが、"１個２００円也"のインスタント・ヌードルなら、最高３０００食分ですものね。</p>]]>
        
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    <title>紙ヒコーキ</title>
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    <published>2010-01-15T00:55:47Z</published>
    <updated>2010-01-15T01:00:53Z</updated>

    <summary>　夕刻、勤務を終えて役宅（宿舎）に帰って来たら、例によって職員の坊やや嬢ちゃんた...</summary>
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        <![CDATA[<p>　夕刻、勤務を終えて役宅（宿舎）に帰って来たら、例によって職員の坊やや嬢ちゃんたちが、階段の近くで遊んでいます。<br />　｢やあ、こんにちは｣<br />と、手を挙げたところ、中の一人、W君の次男坊が、大きな声で言いました。<br />　｢ごりんばん（輪番）しゃま。いつも紙ヒコーキを作ってくれて、ありがとう！｣<br />　私は答えました。<br />　｢ああ、また作ってあげようね｣<br />　彼は、すかさず言いました。<br />　｢○○ちゃんの分も、△△ちゃんの分も、□□ちゃんの分も、.........｣<br />　私―｢はいはい。一度には作れないが、沢山ためておいて、パパにでも渡すか｣</p>
<p>　どうも、坊やの無作意の作戦、成功したようです。<br />　いや、実は私も、子供たちの可愛い笑顔が見たいのです。</p>]]>
        
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    <title> 年末年始</title>
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    <published>2010-01-14T05:04:20Z</published>
    <updated>2010-01-14T05:06:58Z</updated>

    <summary>　些か遅蒔きながら新年の御挨拶を申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いします。...</summary>
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        <![CDATA[<p>　些か遅蒔きながら新年の御挨拶を申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いします。殊に御質問大歓迎です。未熟ですが、お尋ねにお答えする方が、自分勝手なテーマで書くよりも遙かに楽ですので。但し回答稚拙に就ては予じめ御寛恕をお願い致します。</p>
<p>　暮れの２８日に西下、３０日に東上、大晦日と元日との築地本願寺の諸行事も無事終了、まずはやれやれでした。参拝者の除夜の鐘撞き整理券は３６５枚だったとか。"丁度いい数字だな"などと話し合っていました。係の職員の話では鐘撞きは、午前２時頃までかかったとか。しかしその人たちとは別に、鐘の間中、正門から本堂まで、３～４列縦隊で参拝・焼香される方が続き、流石は築地、流石は東京だと思いました。</p>
<p>　元日の夕刻に自坊（大阪と神戸の中間、西宮市）に帰り、２日、３日と元日につづく三ヶ日の新春法要に出勤して御門徒たちに挨拶。引続き５日まで来客の応接に忙殺されました。殊に３日午後はここ２０年、恒例になっている本願寺職員たち飲兵衛集団の来訪で、午後１時半から９時半まで。いやこれは、いつものように大変楽しかったが、くたびれました。<br />　４日、５日、６日と例の通り、２０人前後、参詣の御門徒たちと共に朝の勤行と法話、６日朝インド旅行出発までに校了しておかなければならない月刊伝道紙「慈眼」の原稿を印刷所に回移し、午後から上京、翌日７日は築地本願寺の朝の勤行（午前７時）から出勤したのですが、自分の声に多少違和感がありました。<br />　御存知のように、親鸞聖人が御製作になった「正信念仏偈」（帰命無量寿如来...）は最初、雅楽の壱越調(いちこつちよう)（ハ調レ）で出音（発声）します。これは右膝斜前の板敷に置いてある壱越鏧(きん)を打ち、その音に合せるのですが、読誦が進み、善導独明仏正意（中国の唐時代の善導大師がただ独り、み仏の本当の御意を明かにされた）というところから、音階を双調（ハ調ソ）に上げるのです。<br />　さていつものように「善導...」と出音したところ、今朝に限って"ゼー"がやや苦しい。まるで高音部の"レ"か"ミ"ぐらいを出しているような感じです。<br />　"おかしいな"と思っていたら、勤行が終って控室に帰った途端、水っ鼻がしゅっと出た。やはり風邪だったのです。</p>
<p>　私はここ数年、いや十数年ぐらいでしょうか、風邪らしい風邪を引いたことが無い。引きそうな時は大腿の付け根あたりが冷たくなる。それで薬を飲み、室温を上げ、夜など蒲団の中で汗をかくほどに温めますと、風邪は未然に防げたのです。<br />　そんなことで今回も保温に気をつけながら７月８日と勤務したのですが、８日、西下の車中では読書しようと思っても眠くて仕方が無い。「のぞみ」が新横浜に着いたのを知らず、目が醒めたら豊橋駅を通過中でした。<br />　さて、そんな風邪気味の中で、９日１０日の自坊での日程を何とか消化していたのですが、１０日夕刻、事務連絡のため電話をして来たＷ君に、"電話の声がとても悪い。１１日上京をやめて、都合によっては１３日１４日の京都での日程もキャンセルしてはどうか"と言われました。<br />　「まあ、体調次第で」と思ったのですが、やはり今日１１日は上京を取止め。日中、ベッドで身体を休めながら読書しようとしたのですが、これが２～３分と保たない。直ぐ眠りに落ちてしまうのです。<br />　そんなことを繰返しながら、それでも夕刻には、もう寝ている気がしなくなって起床。<br />　そこへ電話......。続いて夕食、そして書斎です。<br />　幼い時から頑強とか頑健とかの部類に入らなかったと思いますが、長年の間に自分なりにどうにか健康を保つ工夫が出来るようになったこと、本当に有難いことだと思っています。</p>]]>
        
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    <title>改札口で</title>
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    <published>2010-01-12T02:45:19Z</published>
    <updated>2010-01-12T02:47:59Z</updated>

    <summary>　八重洲側の東海道新幹線改札口前で、切符を買いに行ってくれている秘書のT君を待っ...</summary>
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        <![CDATA[<p>　八重洲側の東海道新幹線改札口前で、切符を買いに行ってくれている秘書のT君を待っている間のことです。</p>
<p>　丁度、作業員２人が、３～４台並んだ自動検札機の点検を行っているところでした。長さ（奥行き）２メートル、上下３０センチほどの横蓋を次々と開けて調べているのですが、見るとも無しに目をやって、驚きました。何と細かい器具、無数の部分品が、ぎっしり詰っているのです。<br />　これでなくちゃあいけないのかなと思いながら、ふと気がついたのですが、ここは東海道新幹線専用で、それ以外の切符は機械が受けつけません。しかし在来各線の乗車券や、関東ならばSUICA（スイカ）関西圏ならばICOCA（イコカ）という、ワンタッチの乗車券や通常の切符も点検する機能をも備えるとなると、機械の仕事は、更にずっと複雑多岐に亘る。<br />　私たちはただ利用、使用するだけですが、それら数えきれない機器を作り出した人間の頭脳や生産技術の高さに、あらためて敬意を表すると共に、知らぬ間にどれほどの力が働いて私たちが生かされているかということを考えさせられました。</p>
<p>　そうこうしながら、ふと見ると、小柄で黒っぽい服装の、多分、学校を出て間も無い年頃のお嬢さんが、検札機を通り抜けて行った彼氏らしい男性に向って、懸命に手を振っています。<br />　｢そんなに別れが惜しいのなら、入場券を買って、せめてプラットホームまで行けばよいのに｣などと思っていたら、今度は、そのすぐ横を通りかかった、おばさん４人とおじさん１人。<br />　そして、そのうちおばさん３人は検札機を通り抜けて改札口の内側に入った。ところがもう１人のおばさんが検札機の入口から、向こうに向って何か大声でしゃべっている。<br />　｢多分、これも見送りなんだろう。それにしても、何もあんな場所に立たなくても｣と思っている間、他の乗客たちは、おばさんの巨体で塞がれた検札機を避け、他の検札機を通り抜けて行く。<br />　その時、おばさんの後に居たおじさん、たまりかねたように、おばさんの両脇に、後から両手をあてて、その巨体を移動した。やっと他の乗客も、その検札機を通過できるようになりました。<br />　しかし、その時、おばさんも、おじさんも、検札機を通って中へ入って行ったのです。<br />　｢なーんだ｣。件のおばさんも、おじさんも、見送りではなかったのです。｢やれやれ｣。</p>
<p>　そんな一連の流れを横目で眺めながら、｢T君まだかな｣と思って、出礼所の方を振り返っていると、横から軽くトンと、私の身体に何かが当った。何と、さっきの彼氏見送りの彼女です。別れを惜しみ、きっと手を振り合っていたのでしょう。しかしいよいよその場を離れようとして、後退りしながら、なおも手を振っていて、私に当ったのです。<br />　彼女は、恥かしそうに、ちょっと会釈して立ち去りました。こんな優しい彼女で、彼氏も幸せでしょう。<br />　ほど無くT君がやって来て、切符を受けとりました。次の上京は３日後かな。<br />　それにしても、この駅の中では、私の知らない無数のことが、時を同じくして進行している。駅は、世の中は、宇宙は、物凄く広大、深遠なのですね。</p>]]>
        
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    <title>独居②</title>
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    <published>2010-01-07T00:47:27Z</published>
    <updated>2010-01-07T00:49:18Z</updated>

    <summary>　独居あるいは孤独ということに関して、もう少し申し上げますと、私が妻をも子をも失...</summary>
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        <![CDATA[<p>　独居あるいは孤独ということに関して、もう少し申し上げますと、私が妻をも子をも失ったということで｢淋しくはありませんか｣とお尋ねいただくことがあります。<br />　しかし私の場合、孤独なんて、とてもじゃないが言えたものでは無い。<br />　第一、私たちは常にみ仏に護られて生きていると教えられています。その通りだと思います。み仏の光に照らされ、教えに導かれて生きているのです。亡くなった多くの人々との想い出も、いつも私をなぐさめ、励ましてくれます。<br />　また現に甥の家族と同居している訳ですし、弟妹たちも、義姉、義妹も居る。それどころか私を大切に思っていて下さる門徒の皆さんそのほか、他寺院の方々など、血はつながっていないかも知れませんが、私のことを心配して下さっている方が数えきれぬほど居られ勿体ないほどです。だから妻や娘が居なくても、淋しいなんて言うのは贅沢です。</p>
<p>　そして何かの折に思いが及ぶのは、お釈迦さまのことです。お釈迦さまは２９歳の時、王城を出て以来、修行中の６年間、多くは森や林に住まれたことでしょう。<br />　そこは、蚊、蝿、蟻その他、いやな虫が沢山います。もしも不殺生を実践しておられたとすると、それらを殺すわけには参りません。<br />　まあ蚊や蝿が、マラリヤなど伝染病の媒介以外に人の生死に関与することはありませんが、インドの殆んど何処にでも居た筈のコブラ（長さ２メートルほど、猛毒蛇）は、噛まれることは、そのまま死を意味すると言います。他に虎も居れば、ジャッカル（狼の類？）も居る。森林は、極端に言えば、死と向き合う場所なのです。<br />　昼も大変ですが、ましてや漆黒の闇夜の孤独感、いや恐怖は大変なものだったでしょう。<br />　その孤独感、恐怖を超克されたのがお釈迦さまなのですから、仏弟子の端くれである私たちも、内心は兎も角、口に淋しいとか恐しいとかは言えないのではないでしょうか。</p>
<p>　丁度５０年前の夏、私はほんの暫くですが、独りで西ヒマラヤ地方を旅しました。この辺(あたり)はヒンズー教よりもチベット仏教＝ラマ教圏なのですが、チャンドラ川、ブハガ川など、インダス川の水源近く、麓の村から、付近の岩山の頂へ登って行く途中に大きな岩があり、そこに真上からの雨や雪なら防げる程度の窪みがあって、ラマ（仏教の僧侶）が、ただ一人住んでいるのです。<br />　私は彼に、持っていた飴を２～３粒供養して、尋ねてみました。<br />　｢ここで何をしているの？｣<br />　答えは無論｢修行｣です。どうやら彼は一種の神通力の修行をしていたようです。<br />　｢私が念ずると、私の身体が地表１フィートほど浮き上るように修行している｣と。<br />　浮き上るかどうかは確認しませんでしたが、海抜４～５千メートル級の禿げ山の岩陰に独り暮すということは、それだけでも大変な修行です。<br />　尤も食べ物は、谷底の河に沿って走る山道の中途、何キロ目かに数軒ある人家に托鉢していたようですが、兎に角、修行とは己との戦いであり、孤独との戦いだと、その時に思いました。<br />　要するに釈尊の弟子として出家した者は、この二つの戦いに負けてはならないのです。</p>]]>
        
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    <title>独居①</title>
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    <id>tag:blog.engi-project.net,2009:/rinban//13.746</id>

    <published>2009-12-31T12:25:37Z</published>
    <updated>2009-12-31T12:27:30Z</updated>

    <summary>　孤独居といえば私の旧制中学時代の学友で、K君というのが居ます。２年生ぐらいの時...</summary>
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        <![CDATA[<p>　孤独居といえば私の旧制中学時代の学友で、K君というのが居ます。２年生ぐらいの時、御父君の仕事の関係で東京の中学から転校してきたので、江戸っ児→ドッコまたはドッコイという仇名でした。<br />　英語や国語など、文系の勉強ばかりしていて、終戦になってからは、神戸に駐留していた米軍のキャンプにしょっちゅう遊びに行って英語の実力をつけ、そのうちに渡米して彼地の大学を卒業。引続き在米して、テキサス州のいくつかの小都市の名誉市民になりました。１９６０年代に久方ぶりの帰国に際しては、僕も仏教徒だからと、インド経由で仏跡を巡跡して来たよと手紙に書いてきていました。<br />　その後、経歴と力量を買われて、様々な分野で活躍。著書も６～７０冊になるようです。<br />　その彼と、在京同級生３～４０人が折々に開催している昼食会に、私が上京して間も無く呼ばれてスピーカー（話し手）になった時、久しぶりに出会い、その後、西下の際、たまたま大阪へ講演に行く途中の彼と、新幹線で同じ車両になり、実に何十年ぶりかで２時間半、しゃべりました。<br />　然るに今年の春頃かな、そのK君がスピーカーを務めるというので、私も繰り合せて上記の会に出席したのですが、開会時刻の少し前になって幹事が電話で確認したところ、｢忘れていた｣という返事で、結局、来なかった。彼はいわゆる独居老人。身辺で日程に関して注意してくれる人が居なかったのです。<br />　その後、都下の某御住職の話では、どうやら弟さんの所に寄寓するようになったとか、まあそれで一応良かったと、胸を撫で降しました。</p>]]>
        
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