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        <title>輪番独語</title>
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        <description>築地本願寺輪番豊原大成によるブログ</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2010</copyright>
        <lastBuildDate>Fri, 23 Apr 2010 16:45:41 +0900</lastBuildDate>
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            <title>輪番退任の挨拶</title>
            <description><![CDATA[　「輪番独語」御愛顧の皆様、小生、去る４月１９日付をもって、本願寺築地別院（通称・築地本願寺）輪番の職を退任いたしました。<br />　思えば丁度２年前、「説法獅子吼」の標題で、生れて初めてブログを公開して以来、沢山の方々から種々御指導御助言を賜りながら楽しく今日に至りました。<br />　その間、昨年６月、まる１年を経た所で、それ迄の繰言をまとめた小著『輪番独語』－築地本願寺輪番ブログより－を出版して、思わぬ御好評を頂戴するなど、彼此、本当に有難うございました。<br />　扨、今後ですが、袈裟の話やインド旅行の御報告など未完の部分も残っていることですし、多分５月初旬ごろから、「老僧独語」<a href="http://dhtoyohara.blog.ocn.ne.jp/blog/">http://dhtoyohara.blog.ocn.ne.jp/blog/</a>の名で再度お目にかかりたいと存じます。なお、御質問大歓迎です。<br />　読者皆様の益々の御健勝を念じつつ。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　合　掌<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　豊　原　大　成]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/04/post-251.html</link>
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            <pubDate>Fri, 23 Apr 2010 16:45:41 +0900</pubDate>
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            <title>インド（貧）</title>
            <description><![CDATA[<p>　世界の６０数億の人口のうち、腹一杯食べているのは十億そこそこだと聞いたことがあります。僅か１０年ほど前のことです。<br />　しかし、中国とインドなど、合せて２０数億もの人口を抱える発展途上国の急速な経済発展で、今や貧困国は、アジアとアフリカ、および中南米のそれぞれ一部ぐらいだと言われるようになりました。<br />　インドは、今年など、自動車製産台数が１千万台超。南インド、ベンガル湾沿いの昔からの港都チェンナイ（旧名マドラス）は今やインドのデトロイトとまで言われているそうです。<br />　しかし格差はどこの国にもあります。<br />　人口が日本の十倍あるインドでは、ＩＴ産業や自動車産業で、仮にその２割が、日本などで言う中産階級以上に入ったとしても、それ以下が八億人以上居ることになります。日本の衣食住の平均レベルとは比べ物にならない。<br />　日本では普通の住宅には有って当り前のＴＶや冷蔵庫やエアコンは、無くて当り前ですし、衣服にしても、日替りのおしゃれは、余程のお金持ちだけ。食事のメニューにしても、とにかく食べられるならよい。朝、昼、晩、あるいは季節による変化など、あまり考えないはずです。<br />　物乞いも、人の集るところ、特に寺院では、依然として多い。これは、寺院などに参拝する人は、心の優しい人が多い。いや少くとも、その時だけは心が優しくなっている、またなろうとしている。だから貧困者を見ると自然、財布の紐がゆるみ易いこととも関係があるのでしょう。<br />　更に言えば、「施し」は一種の善根です。施しをすることは善根功徳を積むことになる。否、功徳を積ませてもらっているのです。<br />　だからこの"布施＝善根積集→未来の幸福の約束"の思想の徹底している国や地域では、仏教、ヒンズー教など宗教の如何を問わず、出家修行者は在家の人びとから平然と布施＝供養を受けるわけです。そもそも出家修行者は修行に専念するあまり、衣食住のための職業を持たない。だから、このような人に対する布施＝供養こそは、通常の布施以上に価値がある、善根功徳の度合いが高いと考えられているのです。<br />　タイやビルマの坊さんは、托鉢に行って食物を供養（布施）してもらっても、"有難う"などと言いません。布施する側の主婦など家人は膝まづき合掌しているのに、黙って平然と立ち去ります。意味を知らないと、坊さんって何と横柄で憎らしい奴だと思うほどです。<br />　また、"サドゥー"（インドの場合、ヒンズー教の修行者を一般にこう呼んでいます）だけでなく、貧困家庭の子供も、金品をねだりに来ます。<br />　全然洗濯の気配の無いシャツやズボン姿で足もとも裸足。そして右手を、ちょっとお腹を押えてから前へ差し出し、口もとへ食べ物を運ぶ仕草をして、再び右手を差出します。空腹だが食べ物を買うお金が無い。金をくれという仕草なのです。<br />　そして、もらうと、さっと身をひるがえして走り去ろうとする。背後から「ナマス・テー・カロ」（有難うと言えよ）と声をかけると、ちょっとふり返って「ああ、そうだった」とでも言うかのように「ナマス・テー」（貴方を礼拝します＝有難う）と言います。<br />　それにしても、お釈迦さまとの因縁の深い王舎城（今のラジギル）で、お釈迦さまが住んでおられ、そこで「大無量寿経」や「法華経」を説かれたとされる霊鷲山＝耆闍崛山（地表約２００メートル高）の坂道の途中にしゃがんでいた４０才台かと思われる夫婦らしい二人は憐れでした。子供の頃からの慢性栄養不足で充分成長しなかったのでしょう。痩せて、身体も小さい。その上、二人とも眼球が無いのです。物乞いのためとは言え、どうやって此処までやって来たのか。<br />　なお、二人とも眼球が無いのは、もしかすると、幼少の頃、乞食にするために、いや、親の乞食の道具にするために、親がわざわざ我が子の眼球を潰したのかも知れません。<br />　眼球だけではない。子供の腕や脚の骨を折って、生涯物乞いの生活を送るように仕向ける親もあるとのことです。憐れとも悲しむべきとも言うべき無知さ加減です。<br />　しかも全体としては、インドよりも西隣りのパキスタン、北隣りのネパール、東隣りのバングラデーシュなどは更に貧しいようです。<br />　そのパキスタン、山野の美しいパキスタンで、銃声や自爆テロが絶えません。「だから日本に生れて、よかった」ではなく、せめてこの貧困を何とかしたい。しかし貧困者の数は余りに多い。結局、その国の政治に期待するほか無いのです。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/04/post-250.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">伝えておきたい事など。</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 19 Apr 2010 11:56:05 +0900</pubDate>
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            <title>あるＴＶ対談</title>
            <description><![CDATA[<p>　喜劇役者の藤田まことさんが亡くなった。同世代の一人として謹んで哀悼の意を表します。<br />　ＴＶブラウン管で初めて彼を見たのは、昭和３０年代前半だったか。森光子さんの兄さん役として、漫才コンビの故ダイマル・ラケットさん兄弟らと共演した、昼食時の連続番組だったと思います。<br />　その彼が、かれこれ３０年も前のこと、ふと見たＴＶの対談番組に出演していました。相手は作詩家の藤田まさと氏。まさと氏は明治末期の生れ。昭和初年から同５７年に亡くなるまでの間に７０曲近い歌謡曲の作詩を手がけ、中でも昭和１０年の「旅笠道中」以後、「大江戸出世小唄」「明治一代女」、１２年の「妻恋道中」「流転」、　１３年の「麦と兵隊」、１４年の「大利根月夜」、２８年の「岸壁の母」などは（他にもあるかも知れませんが）一世を風靡し、私なども識らぬ間に憶えてしまったほどです。優れた詩には、優れた作曲がつき、優れた歌手が歌うからでもあるでしょう。　さてその対談相手の「まさと氏」に「まこと氏」は尋ねました。<br />　「先生と私とは、名前が一字しか違わないのに、どうして先生は、そんなに沢山大ヒット曲の詩を、お書きになられたんですか。その秘訣を教えてください」<br />　「まさと氏」は答えました。<br />　「万人に共通する抽象的な言葉は一人の心をも打ちません。逆に一人の具体的な体験や思いは、万人の心を打ちます。」（大意）<br />　まさと氏は、たとえば旅から旅を続ける所謂「旅人」の、夜の冷たさ、心の寒さを、自分のものとして詠い、昨日も今日も、日本海に面した港の岸壁に来て、未だシベリヤ抑留から帰らぬ我が子を待つ一人の母になりきって、その心を詠いこむ。しかもその言葉は無駄を省き、練りに練ったものです。正に深網笠にマントをひらつかせ、肩をすぼめて真暗な夜道をただ一人行く若い衆や、もしやもしや、我が子が乗ってはいないかと引き揚げ船から降りてくる兵隊さん一人一人の顔をのぞきこんでは肩を落とす、その母の姿が目に浮かぶようです。この母の姿を通して、作者は母の限り無い慈愛を、聴く人一人一人に鮮かに想起させている、いや、極端な場合、その母の気持になりきらせるのです。<br />　以来私は、その情景が目に見えるような表現を心がけて文章を書き、あるいは話すべきだと自らにも言い聞かせ、親しい人たちにも話してきました。<br />　「目に見えることが大切」「百聞は一見に如かず」です。この事実を、インドの幾つかの仏教遺蹟巡拝でも教えられました。また、たとえばカルカッタのインド博物館に一部修復保存されている中印度のバールフト仏塔玉垣（BC２世紀）には、その表裏にわたって、数多くの仏伝（お釈迦さまの伝記）やジャータカ（お釈迦さまの前生の物語）が彫刻されていますし、あるいはサーンチーの丘に残る仏塔門の彫刻などにしても、参拝者は難しい仏教哲学は理解できなくても、それらについて僧侶から解説を受けながら、次第に深い信仰の境地に導かれて行ったのではないでしょうか。そんな事を思いつつ、しかし如何せん、近頃いよいよ己が筆や言葉の稚拙さをかこつこと頻りです。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/04/post-249.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">伝えておきたい事など。</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 19 Apr 2010 08:43:59 +0900</pubDate>
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            <title>函館旅行</title>
            <description><![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;３月１３日（土）から１４日（日）にかけて、函館に行ってまいりました。<br />　用件は、阿弥陀如来尊像のお迎えです。<br />　築地本願寺には本堂などを含む本館の他、その左右に第一、第二と二つの伝道会館があります。ともに昭和６０年の竣工ですが、本館は、シルクロード・大谷探検隊で名高い大谷光瑞師（西本願寺第２２代宗主）と東大の先生・伊東忠太工学博士の合作というべきもので、昭和６年起工、９年夏竣工。以来丁度４分の３世紀を閲(けみ)しています。従って一度、特に本堂内陣を中心に、大修復の必要がある。それを京都の御本山西本願寺で宗祖・親鸞聖人の７５０回大遠忌法要が勤まる年、平成２３年度を中心に、１８ヶ月間かけて行う。そしてその後、築地での大遠忌法要を勤修する。<br />　しかし、本堂大修復の間には、仮本堂が必要で、その仮本堂を第二伝道会館内のホール、蓮華殿に設置する。そこでの御本尊をお迎えに、本願寺函館別院をお訪ねしたのです。<br />&nbsp; 函館別院は、それ自体、なかなか立派な、全国で７０ほどある西本願寺直属寺院の中でも屈指の規模をもっていますが、広汎な地域に在住する御門徒たちのために、かつて４つの出張所が設けられていました。<br />　ところが十数年前、一つを残してそれらが次々と閉鎖されました。バブルの崩壊に伴う（？）人口減少のためです。<br />　その閉鎖した出張所の一つに御安置してあった御本尊、その後、函館別院でお預りしており、それをこの度、お譲りいただいたのです。<br />　本堂での譲渡式の前に、雅楽を依用した厳かな御法要。その間に、余間（内陣の次の間）に安置されたその御本尊の前で焼香させていただいたのですが、驚きました。<br />　閉鎖された出張所の御本尊なのだから、京都や奈良の古寺の尊像などと同じように、御身体を覆う金箔なども剥落しているだろう、御台座も光背も、同様ではないかとの漠然とした想像は全く間違っていたことが判ったからです。<br />　御本体だけでなく、光背も台座も含めて、総高四尺一寸（１２４センチ）ほどが、まるでまっさらのように美しく輝いていたのです。<br />　譲渡式も終り、夕刻の懇親会の席上、そのことを話しましたところ、函館別院は、御本尊をお預りするに当って、綺麗に御修復申し上げたのだとのことでした。<br />　お預りしているのだから、古損したままでよい、というのでなはく、お預りしているのだからこそ損欠の無いようにしておきたいとの、函館別院の皆さんの篤い心に、私どもの心も熱くなりました。</p>
<p><br />　ところで、折角のチャンスだから函館湾の先端に聳える函館山や、有名な五稜郭を始め、美しい街の各所を見物したいと思いましたが、月曜日（１５日）以後の日程が詰っていて断念、翌１４日、羽田へのフライトが午後の便だったので、午前中、ほんの１０分間かそこら、市街の東はずれの海鮮市場を見物し、足を延ばして東本願寺別院にお参りしました。<br />　それにしても、１００メートル四方ほどの海鮮市場は、蟹、蟹、蟹、蟹。無論、紅鮭、帆立貝、いか、うに、その他、様々な魚介類も並んでいますが、内部も外側の通りに面した一帯でも、まず眼に飛びこんでくるのが毛蟹その他の蟹類です。呼込みの声も殆んど"蟹"。<br />　折からの急襲来の寒気のせいか、客足もまばらですし、一体、これだけの蟹を誰が食べるのかなと不思議でした。<br />　不思議といえば、東本願寺別院でもありました。<br />　一万坪はあるかと思われる広大な境域の奥正面は、名古屋地方では、その筋で知らぬ人の無い代々の名工、伊藤平左衛門（９代目）の設計により、明治４４年から大正４年までかかって建立された、本堂としては日本最初の鉄筋建築（鐘楼、正門と共に国の重要文化財）とか。但し、ここも寒さのせいか、参詣の人影も無く、外陣周縁の扉も閉っています。<br />　寺務所の許可を得て、廊下づたいに外陣に入り、お参りさせていただきましたが、不思議だったのは、間口１７間（３３メートル。奥行も？）の大本堂の内陣と外陣を仕切る線の中央に柱が立っていたことです。そしてその奥の内陣の向って右寄りに本尊・阿弥陀如来を御安置する須弥壇、その左側には親鸞聖人像を安置する須弥壇と、内陣中央に両壇が並んでいる。<br />通常は内陣、外陣を仕切る線の中央には柱は無く、内陣の中央には阿弥陀如来（御本山御影堂の場合は親鸞聖人)の尊像のための須弥壇が安置されているのですが、両壇設置が先か、中央の柱が先なのか、失礼ながら、寺務所の若い女子職員は御存知無いだろうと考えて、お訊ねもしませんでした。お訊ねすれば、よかったのかな？<br />　それにしても、このような大建築を実現した信仰の力、御門徒の御熱意に対しては、あらためて敬意を表した次第です。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br />　次に、往路もそうでしたが帰路の機内でも感じたこと、それは女子客室乗務員たちの精励です。<br />　何れも美人揃い。そして乗客一人一人に対して、にこやかにサービスする。<br />　一体、私たちは毎日、いろんな方々と接しながら暮しています。しかし、その接する相手は、ほぼ同じ顔見知りの人たちである場合が多い。<br />　家族、同僚、上司、先生、級友......。商売でも顧客はいわゆる「おなじみさん」が多い場合もあるでしょう。だから自然、相手との接し方も、ある程度わかっている。<br />　しかし、フライトの場合、「おなじみさん」は極めて稀ではないでしょうか。<br />　中には難しい客......も居るかも知れない。先に座席に着いて、あとから乗り込んで来る人たちの風体を見ていても、大男あり、小婦あり、老あり若あり、三つ揃を着ている人あり、ジャンパー姿あり、"世界は二人のために"と言わんばかりのカップルあり。それらの人に対して、機内持込みの手荷物の世話、おしぼり、飲み物、読み物、機内食その他、一々丁重に、にこやかにサービスする。相手は殆んど一見さんなのです。若い女性の身で、さぞ大変だろうなと思うと同時に、全国から京都の御本山に参拝される方々のための受付、案内係のこと、いや、彼等だけではない、全ての接客業は大変だ。いやいやどんな部署でも仕事でも、プロは大変だな、などと思っているうちに１時間２０分、機は羽田に着きました。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/04/post-248.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世俗に思う</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 14 Apr 2010 11:05:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>挨拶</title>
            <description><![CDATA[<p>&nbsp; 「今日は」「初めまして」「おはようございます」など、挨拶は口でします。尤も、頭を下げたり、手を畳についたり握手などもしますが、一般に口でするものなのに、手偏（扌）を書きます。<br />　手許の辞書を見ますと、「挨」は"押し開く" "強く進む" "互いに近づく"<br />"ひっつく"などの意味があり、「拶」も"せまる"など、挨とよく似た意味の字です。そして「挨拶」となると、やはり"押し進む" "前にあるものを押しのけて進み出る"などというのが本来の意味だそうです。（角川書店、昭和３４年４月１日、初版発行、漢和中辞典、貝塚茂樹ほか編。因みに編者の一人、貝塚茂樹とは、理論物理学の分野で戦後、日本人初のノーベル賞を得られた湯川秀樹博士の実兄で、秀樹博士の弟、小川環樹博士も中国文学の権威、お三方とも京都大学の先生でした。）</p>
<p>　ところで、"押し進む"などの意味のある"挨拶"が、何故、口で言う挨拶になったのかの理由ですが、これは、もともと禅僧たちが出会ったとき、お互いに肩を叩き合ったりして歓びを表現したことに由来すると、どこかで読んだことがあります。（多分、間違っていないと思いますが、詳しくは禅宗のお坊さんにでも...。）<br />　禅宗は修行が厳しい。その厳しさが、武士の間で尊重されたのでしょうが、それだけに一般庶民からすると、びっくりするようなことがあります。例えば「玄関」という言葉、これも禅宗に由来する筈です。<br />　但し、「玄」はもともと"くろ"（例：玄人＝くろうと）、進んで"天""奥深い道理""清く静かなこと"などを意味し、「玄関」は禅寺の客殿などの入口に立った人に対して、"ここは玄妙の旨に入る関門、仏門に帰依する入口なんだぞ"と示した言葉でした。<br />　尤も「玄」は、中国の老子や荘子（西紀前３－４世紀）の哲学用語で、人間の造作など表面的な事象を離れた、より根源的な"無為自然"などを説く道家の哲学で大切にされる言葉の一つであります。（註、道家と、後世に発達した"道教"とは似て非なるもの。道教は自分たちの教祖として老子などをかつぎ出していますが、実は西紀３～４世紀頃に発生した俗信で、不老長生や日時・方角の吉凶、更には六輝＝六曜によって、大安、友引、仏滅などをも説く。）<br />　親鸞聖人も非常に尊崇された曇鸞大師（５世紀後半－６世紀中葉、浄土真宗の方がたは「正信偈」の"本師曇鸞梁天子　常向鸞処菩薩禮"で、よく御存知ですね）が住まわれた華北の玄中寺も、もともとは道家思想と関係があったと想像する学者も居られます（白馬社刊、村上鉄瑞著『道綽余聞』序、元京都大学人文科学研究所所長　福永光司先生）。曇鸞大師は元来、四論（＝中観哲学、空の思想）を学ばれたと言われています。そう言えば空の思想は道家の"無為自然"とちょっと似ていますね。脱線はこの辺でやめておきましょう。</p>
<p>　さて本題に戻って「挨拶」ですが、私は立場上、「今日は！」だけではなく、いわゆる御挨拶をすることが可成り多い。来客は勿論、築地本願寺への参拝団、何かの会合、入学式や卒業式、会議、結婚披露宴、その他の祝宴。一日に三度ぐらい、大勢の皆さんの前で、その場その場でのご挨拶をすることもあります。<br />　しかし、本当にいい挨拶は、なかなか難しい。挨拶が無ければ、どんなに楽かと思います。上手なら挨拶をする方も聴く方も楽しいかも知れませんが、下手なだけに、本当に辛い。これは私の持論なのですが、ＴＶやラジオのアナウンサーがニュースを読むスピードは、１分間に３００字ぐらいだそうです。これに対して、私たちが原稿を書くスピードは、１分間で２０字前後。つまり、しゃべる時の頭の回転の速さは書く時の１５倍。だから書く方が遙かに楽、しゃべる方がずっと難しいという訳です。<br />　おまけに原稿なら何度か読み返して添削する事も可能だが、しゃべる方はそうは行かぬ。一旦口外したら、その発言は、もう一度飲み込むことは出来ません。一応しゃべり終って下壇したら、再び登壇して補足することは不可能です。<br />　さて、去る３月１８日、飛鳥寛栗師といわれる方が、仏教伝道協会（＝会長、沼田智秀師、伝道協会は世界の主要大学１５校に仏教講座を開設したり、仏教経典の要所を世界の４６ヶ国語に翻訳した「仏教聖典」をこれまでに７８０万冊、各国のホテルに配布するなどして仏教文化の弘流に努力されている。協会の母体というべき株式会社ミツトヨは、その製品マイクロメータなど、世界的な精密機械売上げの利益を仏教伝道に使うために、先代沼田恵範師によって設立された会社です。）の平成２１年度の文化賞を受賞されました。東京・芝にある協会の仏教伝道センタービルでのその授賞式、懇親会に出席して祝辞を申し上げたのですが、祝辞を終って下段した途端に、ああ、あれもこれも言い忘れたと思って忸怩(じくじ)たる思いでした。<br />　飛鳥師は富山県高岡市にある浄土真宗の大きなお寺の前住職さんです。大正４年生まれ、９４歳。しかし矍鑠(かくしやく)たるもので、上記の祝辞の中で、昭和４年の間違いではないかと申し上げたほどなのですが、本願寺立の龍谷大学の学生時代からコーラス部などで活躍され、御卒業後も様々な音楽活動を行い、著作も多い。本願寺の仏教音楽研究所でもいろいろ御指導を下さっている。そして、何と言っても７０年以上に亘る音楽活動ですから、まるで生き字引。そしてとうとう一昨平成２０年に『日本仏教洋楽資料年表』という書籍を刊行された。安政６年(１８５９)から平成１２年（２０００）に及ぶ百数十年間の歴史年表（詳細な事項と固有名詞の索引つきＢ５またはＡ４変形版、２０７頁）です。<br />　スピーチの時間を５分以内とお聞きしていたので、多分３～４分で様々なことを申し上げ、さてステージから降りて自席に戻るか否かに、２００人前後の参会者に是非とも聴いていただきたいことを言わなかったことに気がつきました。<br />　それは師が、単に住職や音楽関係のお仕事をされているだけではない。数多くの御門徒たちの懇念を集めて、これまで何度も、ベトナムやカンボジアなどの難民援助のカンパを送ってこられた、いわば国際親善人であること、宗門の長老として、時には宗会議員全員７０数名に対して、宗門の歩み方に誤りがあってはならぬと、封書の宛名書きも一々自筆で警告・指導の書状を折々に送られていることなどです。<br />　そしてつい先日も驚くようなことがありました。それは最近、御令息（住職）が御門徒のインド仏蹟巡拝旅行を引率し、その際に見聞されたこととも関係があるのですが、彼地での葬儀の一場面に関してのことです。<br />　それは、私も５０年余り前ですが、２年近く在住していた、ヒンズー教の大聖地ベナレス。人が死ぬと、ガンジス川に沿って展開するその町の河岸へ、近郷近在からも遺体を運んで来て荼毘に付するのですが、その遺体の運び方。長い２本の竹の棒の間に板を張り、そこに男性の遺体は白布、女性の遺体は赤布で包んで載せて縄で縛り、通常４人の男がかついでくる。その際、声高らかに「ラーム・ナーム・サッチャ・ハイ」と、むしろ叫び続けながら街中を通り、河岸にやってくるのです。 その言葉の意味、ラーム（＝ラーマという、ヒンズー教の神様）の名（ナーム）はサッチャ（真理）でハイ（ある）ということなのですが、それを「神の名のみが真実」と訳した書物があり、「名のみ」という言い方の、いわば宗教哲学的な意味と、それが何時頃からのことなのかという御訊ねの御手紙を老師から頂戴したのです。<br />　これは例えば、阿弥陀如来という仏は、智慧そのもの、慈悲そのもののこと、逆に、限り無い智慧と慈悲との仏を阿弥陀如来とお呼びする、と言ったらよいでしょうか。また、阿弥陀仏（南無阿弥陀仏）という名前は、限り無い智慧と慈悲そのものである阿弥陀仏と別個にはあり得ないと言うべきでしょうか。要するに真宗学でいう、「名体不二」という考え方と似ています。<br />　私はお手紙で、遺体運搬に際してのこのような趣旨を簡略にお答えしたのですが、インドの民俗信仰で唱えられている言葉に対する飛鳥師の、この敏感な反応ぶり。これは師の頭脳がまだまだ若い人顔負けの新鮮さをもっている何よりの証拠です。<br />　しかしこれらのことは、約２００人の参会者の中で、多分、私しか知らないことです。これをこそ私は皆様に御披露すべきだった。私はそれが出来なかった。飛鳥師に対してはもとより、御参会の皆様にも大変申し訳無いことをしたと思っています。<br />　だから挨拶が苦手だと言うのです。<br />　なお、上記のラーマですが、インドが世界に誇る古典的二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ（ラーマの行状記）」のうちの一つ。ラーマは後者の主人公として大活躍する英雄の名前です。他方、ヒンズー教の最大神格、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神のうちのヴィシュヌ神の第七番目の化身といわれ、御参考までに申しますと、釈尊は第九番目の化身だと考えられています。<br />　ヒンズー教は、何でも彼でも、自分のテリトリーにかかえ込んで、その命脈を広げてきたのです。「寛容の宗教」とも言われる所以です。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/04/post-247.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">伝えておきたい事など。</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 13 Apr 2010 08:42:12 +0900</pubDate>
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            <title>眼鏡とキムチ</title>
            <description><![CDATA[<p>　Ｍ君とは昭和２３年、京都の旧制高校で同じクラスの仲間として出会いました。だから以来、６２年間もの親友です。但し、大学では彼は法学部、私は文学部と別れました。しかし昼食時や放課後など、よくキャンパス内の花谷会館という喫茶店で落ち合い、二人は店のおばさんや女子店員たちから"アボット・コステロ"さん（当時、アメリカ映画の喜劇俳優コンビ）と呼ばれていました。<br />　彼はメンソレータムなどの薬品で有名なＯ社の御曹司、家は昭和初期の西洋住宅建築として、国の登録有形文化財になっています。父君はクリスチャンだったせいで彼も一応はクリスチャンですが、母君が浄土真宗の御門徒で、彼も仏教には普通の人以上に興味があるようです。<br />　もう５０年も前でしょうか、「色即是空」とはどういう意味かと尋ねられたので、"ルーパム＝色&nbsp;&nbsp; エヴァ＝こそは&nbsp;&nbsp; シューニャム＝空"（形あるものこそは空である＝実体が無い）というサンスクリットを教えたところ、今もしっかり憶えているようです。<br />　彼は、もう可成り前から故郷の市の文化サークルの会長さんを務めており、私も一度、講演に引っぱり出されたことがありますが、その他いろんな活動のために、故郷の町と東京とをも、年に何回か往来しています。<br />　尤も、しょっちゅう東西を往還している私とは殆んどすれ違いで、なかなかゆっくり会食などの機会は回ってきません。<br />　だからという訳でもないでしょうが、時々電話がかかってきて、時には３０分４０分間、クラスメートの消息をはじめ、いろんな事を話してくれます。<br />　先日も晩景の一刻、電話がかかってきて、かれこれ４～５０分も話したでしょうか。そのうちに話題は視力の減退、そして眼鏡の話になり、私が百円ショップで、度が<br />２．５から３．５度ぐらいの眼鏡を買ったり、もらったりして１０個ほど（それでも合計1000円程度です）築地と自坊、更に事務所と居間などに分けて持っているよと話しましたが、彼も全く同じらしいのです。<br />　ところが彼はボヤきます。「４．０がほしいんだが、無いね。」これに対して私が、「僕は一つ二つは持っているよ。但し、自分で買ったのではない。弟か誰かにもらったと思う。しかし４．０度でなくっても、以前から使っていた３とか２とか、度のゆるいのを２つかけたらいいじゃないか。」と言いますと、彼はビックリしたようです。<br />　「一つかけてるだろう。その上に重ねてもう一つかけたらいいんだよ。」<br />　「ふーん。」<br />　私のように世間音痴に比べて何でも知っているように思っていたＭ君が、こんな簡単なことを知らなかったのに、こっちの方がビックリしました。<br />　簡単なことと言えば、これは私だけのことですが、時々白菜キムチが食べたくなります。<br />　しかし、（一般に販売されている）唐辛子で真赤なのは、些か苦が手。買う時に一々レッテルなど見ている訳ではないので、たまに、あまり辛くない品に当ると、やれやれと思います。<br />　ところが、これも先日、ふと思いついて、真赤なのを少し水で洗って、赤味を減らしてみました。そして口に入れると、何と、丁度具合がいいのです。以来、キムチは、どんなに真赤でも恐れなくなりました。<br />　世の独居男性諸氏よ、御参考までに。</p>
<p>&nbsp; Ｐ．Ｓ．一旦、上記を書いてから、念のため、Ｍ君に電話して眼鏡のことを確かめてみたところ、彼も実験していて、私の意見に賛成してくれました。<br />　そして、ぽつんと言いました。"母も虫眼鏡など使っていたが、これを教えてやればよかった......"と。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/03/post-246.html</link>
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            <pubDate>Tue, 23 Mar 2010 09:11:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>人－その２</title>
            <description><![CDATA[<p>　インド亜大陸の原住民の信仰の件で、書き忘れていたことが一つあります。それは、"蛇"のことです。<br />　コブラという名の蛇を御存知でしょう。長さが２メートル、太さは我々の手首ぐらい。腹を立てると頬(ほっ)ぺたをふくらませて、頭部全体が薄ぺらい三角形、扇のような恰好になる。そして少くとも２～３メートルはジャンプして、敵に噛みつくのです。噛まれたら、人間など、まず生命は無い。山地で土木作業をしていた男たちが、土の中で寝ていたコブラに触れて、あっという間に３～４人が噛み殺された事件を彼地の新聞で見たことがあります。コブラは猛毒をもつ、いわゆる毒蛇なのです。<br />　蛇といえば錦蛇。胴の直径が１０センチぐらい、長さは４～５メートルですが、これは毒をもっていない。しかし敵に巻きついて絞め殺します。<br />　その他、蛇にはいろんな種類があり、それらを捕獲してきて、飼いならし、直径３０～４０センチぐらいの籠に入れて持ち歩き、道端にしゃがんで笛を吹くと（それを先祖代々専業にしているカーストがある）、特にコブラなど、籠の口から首を２０～３０センチ持ち上げて、くねくね芸をしたり、また獲物にとびかかる恰好をして、見物人から見物料をもらったりしています。<br />　一度、わけのわからない蛇を見かけたことがります。長さが４０～５０センチで色は赤い。蛇使いの話では、半年毎に頭と尻尾が交替するというのですが、こわいのであまり近寄って見ることも、従って確かめることも出来ませんでした。インドには不思議なこともあるものです。<br />　ところで蛇たちは、４、５、６月の夏季は土の中で夏眠しているが、７月初頭ごろ雨期に入ると、出てきます。夕方など、気持が好いのでしょうか、大学の広大なキャンパスの道路（アスファルト舗装など未だ無かった）に長く伸びて寝ている。薄暗がりで気付かなかったり、縄か何かだと思って蹴ったり踏んだりすると、大変です。我が国でも行者や巡礼（以前は田舎でのお葬式に山辺の葬場への行列の先導者でも）か、身丈ほどの長い杖、時には頭部にシャンシャンと音のする輪をつけた杖などついて歩いたのは、蛇への警戒、更には蛇に対して、人間が来たぞという警告の意味があったと思われます。</p>
<p>　現代でもそうですが、古代、インド亜大陸は今よりも緑の多い時代があったと考えられていますから、草原などを歩くことの多かった当時の人びとは、蛇に対して、大きな怖れを懐いていたと思われ、これをナーガ（龍）といって畏敬したのです。そしてこの畏教がエスカレートして、ずっと後に仏教の経典にも、天龍八部衆といって半神半獣の扱いをされ、八大龍王として、ナンダ、ウパナンダ、マホーラガなどという名前さえつけられ、一種の守護神と考えられるようになりました。<br />　親鸞聖人７６才頃作（１２４８年）の「現世利益和讃」の中の一首にも<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 「南無阿弥陀仏を　となふれば<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　難陀　跋難　大龍等<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　無量の龍神　尊敬し<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　よるひるつねに　まもるなり」<br />とあります。<br />　また龍は天に昇り、雲を喚び、雨を降らせると信じられていました。<br />　中学２年生の頃の国語の教科書だったと思います。源実朝（１１９２－１２１９、頼朝の次男、鎌倉幕府第３代将軍、歌集「金槐和歌集」の作者）の歌として、<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 「時により　過ぐれば民の　歎きなり<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　八大龍王　雨やめたまへ」<br />というのがありました。</p>
<p>　龍の中で有名なのはムチリンダ龍王のことです。お釈迦さまが悟りを開き、その喜びにひたっておられる間、近くのムチリンダ樹に住む龍王が、お釈迦さまの背後から首を伸ばし、お釈迦さまの頭上を覆うようにして、雨風からお護りしたという伝説があります。<br />　この伝説は、インドシナ半島の仏教国、アンコールワットなどで名高いクメール王国の時代（１１～１４世紀）、ことにもてはやされたらしく、その姿を画いた仏像が多数現存しています。また、アンコールワットやアンコールトム、その他の幅数十メートル以上の周濠にかけてある石造の橋の欄干のデザインとして、頭が七つぐらいある巨大なナーガがあちこちに見られます。龍が外敵を守ると信じられていたのです。<br />　インド半島の原住民たちは、生命の根源としての水にまつわる神々や樹神、生産のシンボルとしての性器、畏怖の対象としてのナーガなどに供物を捧げ、祈りを捧げながら日々を送っていたのです。<br />　朝、光をもたらす太陽、夜の明りとしての月、雨、風、雷その他、自然現象のあれこれをも一種の神として尊崇していたことも、他の未開民族と同様だったと思われます。<br />　このようにナーガ崇拝もあるのですが、蛇にもやはり天敵があります。例えばマングース。リスに似た動物ですが、歯が鋭い。蛇と戦うと、身体に蛇を巻きつかせておいて、その歯で蛇を噛み殺したりします。（その実演も本当に蛇を殺すわけではありませんが、街頭の蛇使いが見せてくれます。）<br />　もう一つ、より強力な天敵、それは鷲あるいは鷹でしょう。しかし神話の世界では、これを怪鳥ガルダといって、ヴィシュヌという神さまの乗り物になっています。<br />　ガルダは漢字では迦樓羅と書かれ、日本の烏天狗のモデルだそうです。</p>
<p>　仏教は、紀元前３世紀のアショーカ王の頃から、インド以外の国ぐにへも伝道されるようになりました。<br />　東南アジアの南端、インドネシア地方に仏教あるいはヒンズー教が伝わったのは、中国の法顕三蔵がインドのからの帰途、ここに立寄ったのは５世紀前半で、この頃には既に仏教は行われていた。これがどこまで遡れるか目下のところ私には不明ですが、彼地における仏教文化の大きなモニュメントとして、中部ジャワ島のボロブドゥール寺院（９世紀）その他が有名です。国土の大部分がイスラーム化してしまった現在でも、バリ島にだけはヒンズー教が残っており、他の地方でもヒンズー文化の名残としてワヤンクリット（紙製で、手足が動く人形を操り、背後から照明してスクリーンに投影し、反対側の見物人に見せる影絵芝居 ― 題材はインドの古典中の物語から取られています。）などがあります。そのインドネシアの国営航空の名前がガルダなのです。<br />　その他、蛇はインドの神話に様々な姿であらわれています。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/03/post-245.html</link>
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            <pubDate>Sun, 21 Mar 2010 08:43:22 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>人</title>
            <description><![CDATA[<p>　さて、その広大なインドに住むのは、どんな人たちでしょうか。<br />　インドの人といえば、おしなべて肌色が黒いと思われがちですが、決してそうではありません。<br />　ずっと古い時代のことはよく知りませんが、今から５０００年ぐらい前、そこには色の浅黒い、鼻の低い、どちらかと言えば東南アジアや西太平洋諸島の人びとに似た人種が住んでいました。<br />　ところで、彼等は何を考え、どんな生活をしていたのでしょうか。<br />　インドは日本などにくらべると可成り暑い国ですし、そこで生きるために何よりも欲しい、必要なのは水です。沙漠や石ころだらけの土地には住めません。水は単に飲み水その他の生活用水としてだけでなく、水のある所に樹が生えます。<br />　樹があると、その下に木蔭ができる。暑い国は、木蔭が無くては暮らせるものではありません。<br />　家も大樹の下に建てます。その辺を掘ると水が出ます。<br />　尤も掘るといっても、戦前の日本のように２～３メートルも掘れば水脈に達するのではありません。１０メートル、あるいはそれ以上掘らなければならない。<br />　だから日本の井戸枠のように、直径１メートルほどでは、どうにもならない。直径２メートル、３メートルの深い大きな井戸を掘ります。井戸の壁面は多くは煉瓦造りです。<br />　田舎の村では今でもよく見かけるのですが、地上に材木で門構えのような構造物を作り、そこに活車をかけ、水牛の皮などで作った大きな釣瓶で水を汲み上げます。<br />　釣瓶は人力（何人か）で引上げることもありますが、大抵は牛がお尻を叩かれてロープを引張ります。<br />　上って来た釣瓶を手繰り寄せて水を汲み出すのですが、農耕地などでは、手繰り寄せた釣瓶を下に置くと形がポシャッてしまい、水が流れる。しかしそこに、ちょっとした溝が煉瓦などで作ってあって、その溝をつたって、せいぜい数メートルですが、水が流れて、そのあたりの土地を潤すという仕組みです。<br />　しかし井戸は簡単に掘れるものではありません。水は川から汲んでくることも多いのです。だが、それがまた大変。<br />　雨期にはそこらじゅう水びたしになるとしても、干期、ことに５月６月は、少々大きな川でも干上がってしまう。だから、水は可成り遠くへ行かぬと手に入らない場合が多い。<br />　その点、ガンジス川やその最大の支流（＝デリーの東側を南下して、やがて東南へ約７００㎞降り、アラハーバードと言う大都市の東側でガンジス川に合流する＝）ヤムナー川は、年中水が絶えません。但し数年前、そのヤムナー川沿いの古代からの都市、マトゥラーを訪れた時、以前は川岸のお寺のすぐ下に甲羅の長さ７０～８０センチの大きな亀がうようよ泳いでいたのに、水流の幅が数十メートル狭まり、岸辺からは亀の姿を見ることが出来ませんでした。<br />　だが、何れにしても、水の流れは絶えない。だからガンガー（ガンジス）とヤムナーの両川は、共に女神なのです。特にガンジスは、マー・ガンガー（母なるガンジス）とさえ呼ばれている。人びとにとっては生命の綱なのです。<br />　それは兎もあれ、その川あるいは井戸での水汲みは、ほとんど女性の仕事です。一番ふくれた部分の直径が４０センチぐらいある素焼の瓶に水を満たし、頭には布製の茶瓶敷きのような恰好に作られたクッションを置き、そこに水瓶を載せて運びます。可成りの重量がある筈ですが、背筋をピンと伸ばして細い首で支え、片手は水瓶に添えて、上手に腰をくねらせながら、長い川岸の斜面を上り、何百メートルも先の家まで運ぶのです。<br />　時には、空いている方の手に、何かをもっていることもあります。<br />　それほどにしなければ水は得られない。だから水の尊さは測り知れないのですが、その水を吸い上げて繁茂している大樹も、神さまの棲家として尊敬し、畏敬されています。樹に住む神さま、それがヤクシャ（薬叉、夜叉、女性形はヤクシー、またはヤクシニー）で、これを尊崇し供物を供えることによって人びとは豊饒を願ったのです。<br />　なお、水面に咲く蓮の花も、その大きさ、美しさの故だけでなく、生命のシンボルとして愛されるようになります。</p>
<p>　また、この人たちは、豊饒のもとになる生産、ものを産み出す力が、水と共に大切だと考えました。そしてその生産のシンボルとして、男女の性器をも崇拝していました。</p>
<p>　ところが今から３５００年前ほど前、インド亜大陸に大きな事件が起りました。<br />　もともと中央アジアの西の方、世界最大の湖といわれるカスピ海の附近に住んでいた人びとが、より暖かい、より豊かな土地を求めて南へ、そして一部は南東に進みました。<br />　南に進んだ人びとは現在のイラン方面に入って定着し、南東に進んだ一行は、インドの西側を流れるインダス川の上流域パンジャブ地方（パンチ＝五　アプ＝水、五河地方と訳される。）に入ってきました。これがアーリヤ人です。<br />　しかしインダス川の流域には、すでにそれより千年も前から高度な文明を築いていた人びとが居ました。この文明をインダス文明と呼んでいます。</p>
<p>　インダスの人びとは、アーリヤ人に比べると、色が黒く鼻も低い。しかし、日乾し煉瓦だけでなく、焼煉瓦を造ることも知っていました。<br />　そしてその煉瓦で町全体を造りました。最も典型的な例は、アラビヤ海に注ぐインダス川の河口から５～６００キロ遡ったところに作られた都市モヘンジョダロです。<br />　これは数百メートル四方の都市を、全部煉瓦で造ったのです。市街の中央部を南北に貫く幅９メートルほどの大通りも、全部煉瓦で敷き詰めました。町はやや細い道路によって縦横に仕切られ、道路に沿って煉瓦造りの家が立ち、路傍には溝が造られ、家々の外壁から、その溝に向って斜めに幅数十センチの樋が造られ、それは更に人間の背の高さぐらいもある下水道に連結し、汚水は市街地の外へ流されたようです。<br />　この町の人びとは、たとえば市街地の横に並ぶ別の丘の上に造られた大きな公衆浴場で身体を浄めて何らかの宗教儀式を行っていたようでもあり、性器崇拝が行われていた形跡も遺物によって知られます。<br />　また造船、操船の技術にも秀で、インダス川を降り、アラビヤ海を航海して、西の方遙か２千数百キロ彼方のペルシャ湾の奥に栄えていた文明圏と貿易などをしていたようです。それは、これら東西両文明圏から類似した形式の印章が多数出土していることによって分ります。<br />　印章というのは、せいぜい数センチ四方ぐらいの石に文字や動物の姿などを彫刻したいわば印鑑です。<br />　インドでも極く近年、５０年ぐらい前にはまだやっていましたが、大小の荷物を紐でしばり、その紐の結び目に朱色の蝋を垂らして封印、つまり蝋封するわけです。<br />　さてこのような高度な文明を享受していたインダス人は、久しい間、外敵から襲われることも無く、平和に暮らしていたようです。<br />　だから当然、武器の発達もありません。<br />　また、鉄の使用は知らず、せいぜいが青銅器を用いていたようです。</p>
<p>　ところが今から約３５００年前、西北から皮膚の色が白く、鼻は高く、腕脚が長く、力が強く、荒々しい民族が侵入し、繰返し繰返しインダスの人びとを攻め、殺害し、遂にこの文明を破壊してしまいました。２０世紀前半の発掘によって、インダスの人びとが頭蓋骨を傷つけられていたり、階段の中途で折り重なるように倒れていた例が判明しています。</p>
<p>　しかし、人びとは全滅したわけではない。その多くは町を捨てて、おそらくはインド半島の西海岸沿いに南に落ちのび、そこに定着した。それが現在の南インド、特にマドラス＝チェンナイなど南方のタミル地方に住む人びとの源流ではないかと考えられています。これがドラヴィダ人です。<br />　そして、この人びとは、やがて次第に土着原住の人びとと混血しつつ、後の南インド文化を形成してゆきます。<br />　一方、インダス文明流域に侵入して、その原文明を亡ぼしたアーリヤ人たちは、更に肥汏な土地を求めて南東に進み、終にガンジス川流域に達して、原住民と混血を重ねつつそこに定着し、文化的にも変容を遂げながら、現在のインド文明の骨格をつくり上げるのです。これが今から３０００年前、つまり紀元前１０００年前後のことと考えられています。<br />　従って、この新しい侵入者はもともと中央アジア西部から到来し、西欧人と、言語的にも同根（インド・ヨーロッパ語族）と考えられますから、特にインド西北部、カシミール地方などでは、毛髪は黒いが驚くほど色が白く、いわゆる長頭型で、西欧人と見間違えるほどの人びとが多い。但しそれが、地域的に南に下るほど、皮膚の色が黒くなるようです。<br />　もう一つ付け加えますと、インドでは極端な男尊女卑の時代が続きました。また貞淑こそが女性の美徳の最たるものとされてきました。５０年前、広大な大学のキャンパス内の教員住宅に住む教授夫妻が歩いている。しかし二人並んでではない。奥さんが数歩遅れて歩いている光景を何度か見ました。<br />　また仏教でも女性は五障(しよう)三從(しよう)といって、梵天、帝釈天、魔王、転輪聖王（王の中の王）、仏の五者にはなれない。また幼い時は親、嫁しては夫、老いては子に従はねばならないなどと説く経典（例『法華経』提婆達多品）もあります。<br />　このように女卑するのは何故か、その理由として、今から３０００年以上昔の征服者（男性）本位の混血、つまりアーリヤ族から見れば被征服者（女）との混血だったことがその原因ではないかとの説があります。<br />　但し、家庭内での事情は、また別だったかも知れませんね。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/03/post-244.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">伝えておきたい事など。</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 15 Mar 2010 10:43:51 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>インド紀行</title>
            <description><![CDATA[<p>　築地本願寺主催『釈尊の足跡とネパール本願寺を訪ねて』１月１８日出発、１０日間の旅に参加しました。世話は「大陸旅遊」という東京の旅行会社。一行は添乗員２名（内１名は社長）を含めて総勢４４名。現地では、流暢な日本語をしゃべるインド人ガイド３名が加わり、関西空港発組２０名と成田発組２４名が中型バス２台に分乗。連泊無し、毎朝５時または５時半起床、次の宿舎へは殆んど夕刻７時、８時に到着という、甚だ厳しい旅程でした。しかしバス車内で多少の仮眠が出来たせいもあったのでしょうか、微熱が出た方も２～３居られましたが、終始笑顔。私など、築地本願寺での顔と全然違うなどと言われ、旅の終りには直接私に、「次の機会も又」との声も聞かせていただきました。猶、中には元々、脚や膝の故障の方も居られたのですが、杖持参で、よく頑張って下さったと思います。<br />　以下、その旅行中に接したネパール、インドについて、簡略に御報告いたします。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;　　日本 インド 相対図&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </p>
<p>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="TEXT-ALIGN: center; MARGIN: 0px auto 20px; WIDTH: 327px; DISPLAY: block; HEIGHT: 213px" class="mt-image-center" alt="インド日本相対図.jpg" src="http://blog.engi-project.net/rinban/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E5%9B%B3.jpg" width="1654" height="1170" /></span>　ところで私は、昭和３３年夏～５年春（１９５８～６０）、インド政府奨学生ということで、月額２００ルピーを支給され、ガンジス川畔の沐浴風景で名高いヒンズー教（インドの民俗宗教）の大聖地ベナレス（ヴァラナシー）の大学に留学していました。<br />　現在こそ１ルピーは日本円にして２円と少々ですが、当時のレートでは１ルピー＝７５円６０銭、２００ルピーは約１万５０００円です。但しそのうち半分以上は授業料と、食費を含めた寮費に消えます。そして残りで図書を買い、休暇中の旅行費用に当てる。それでも、一般庶民に比べると「バラ・サーブ」（大旦那）でした。例えば遺跡発掘に当って土砂運搬のためなどに雇用する人夫の日当は、１ルピー程度だったと思います。<br />　因みに、上記のほか、休暇中の旅費として年間１００ルピーぐらい、下痢や風邪ではなく、もっと深刻な病気を患った場合は、寮長などの証明によって、やはり１００ルピーぐらいが支給されました。<br />　また当時、未だ日本からの海外旅行など、渡航先の国に会社など身元引受人が無い限り不可能で、送金なども出来ませんでした。米ドル５００ドル以内を携帯して海外に自由に渡航出来るようになったのは、ようやく昭和３９年４月以降のことです。<br />　だから私は、当時、商社マンとしてボンベイ（インド西海岸の最大の商都、今のムンバイ）の駐在していた大学の野球部の後輩─ 私が大学院生で、監督を勤めていた頃のキャプテンI君（故人）─ から１０００ルピーを送金してもらい、お互いに帰国後、円で返済したことが一度だけあります。<br />　なお、渡印した昭和３３年の秋、１１月ごろから年末まで、幸いな（？）ことに、大学が学生のストライキーのために閉鎖になりました。<br />　そして丁度その１１月下旬から翌３４年３月まで、戦後初めてインド仏蹟を探査する「京都大学インド仏蹟踏査隊」６名（隊長は京都大学教授で恩師・長尾雅人博士）が来印され、学校閉鎖中でもあったので、前半の約１ヶ月半、お供をすることを許されました。踏査隊は、当時、一般の人々が到底訪問することが出来ないような地域をも、ジープを馳って探訪されましたので、このお供は私にとって、これは後々まで大きな宝物になりました。</p>
<p>　その後、昭和３７年１月～２月、同３８年１１月～１２月。昭和５０年代以後も何度か、貴重な、想い出深い訪印の機会を得ました。前回は平成２０年２月で、今回は多分２０回目。従ってこの５０年間の彼の地の変貌が一応概観できる立場に在り、御報告は、それらの折々の体験、見聞をも若干踏まえたものであることを御諒承ください。</p>
<p>　では何故、そんなに何度もインドへ行くのかということですが、インドへは一度行って、もうこりごりという人と、１回行くと嵌りこんでしまう人との二通りがあると、よく聞きます。<br />　私の場合、最初はいろいろ煩わしいことが多かった。しかしこれは留学生として様々な制約もあったからかと思います。しかし、もっと仏教の故郷のことを知っておきたいとの思いもあり、２度目からは、まあ幾分懐中の温かい旅行者でもありましたから、留学生時代の３等学生割引（鉄道）、夜は駅の待合室で仮眠といった旅行とは訳が違います。それに何と言ってもインドは広い。地域別に２週間程度の旅でも、少くとも７～８回は行く必要がある。かく申す私も同じ所に何度も行きながら、未だ全く足を踏み入れていない地方が２～３あります。<br />　それともう一つ。私は適温２７～８度。暑さの方は３５～６度まではいいのですが、寒いのが大の苦が手。それで一種の避寒と、勿論、勉強も兼ねて、冬の間、日程をやり繰りしてインドだけでなく、仏教に関係の深い東南アジア方面を探訪するのです。　しかし、もう齢。旧制中学のクラス会の世話役氏から、今春の傘寿の会の案内状をもらいました。だから「今回が最後でしょう」などとからかう人も居ますが、それならそれでよし。しかし沢山の知友から、次の計画立案を要望されていることも事実です。<br />　別にインド行きのためではありませんが、何か人々のお役に立つようなら、出来るだけ元気で長生きしたいとも思っています。<br />　皆さんもどうぞ。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/03/post-243.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">伝えておきたい事など。</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 02 Mar 2010 09:55:44 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>白椿？</title>
            <description><![CDATA[<p>　都心に在る別院から車で約３０分。<br />　御生前に諸役をお務め下さった御住職が逝去されたのですが、当方の日程の都合上、密葬にも本葬にも参上できないので、寸暇を見出して、お焼香に参上しました。<br />　帰路、高速道路に入るまでの一般道路の左側に、見事に刈り込まれた生垣が暫く続きます。<br />　手入れが大変だろうなと思っていたら、椿だろうか、ぽつんぽつんと白い花が見える。<br />　緑一色もいいが、これも──と、その点在の度合いにも感心しました。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/02/post-242.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世俗に思う</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 16 Feb 2010 11:10:22 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>賞味期限</title>
            <description><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p>　さる１月３１日（２０１０年）とあるコンビニで、プラスティック容器入りの漬物を買いました。食べるため蓋を開けようとして何気無く賞味期限を記載したレッテルを見たら、何と、２００８・０５・２８と印刷してあります。<br />　中味は別に何でも無さそうなので食べてみたら、異常はありませんでした。<br />　しかし賞味期限が切れて１年８ヶ月も経った商品が店頭に置かれていた事実に、びっくりしました。<br />　世の独居男性諸氏よ、食品購入の際にはくれぐれも御用心下さい。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　賞味期限の切れた独居男性より。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/02/post-241.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世俗に思う</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 10 Feb 2010 16:48:02 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>滴</title>
            <description><![CDATA[<p>　ホテルで会食の時です。<br />　ボーイさんが、大きな鍋に入れたコンソメスープ（日本料理ならお澄し）を掬って、私の皿に入れました。<br />　見るともなしに見ていると、スプーンのお尻から滴が一つ二つ、足もとの絨毯の上に落ちました。<br />　次いで隣の方へのサービスを見ていると、やはり床に。そしてその次も。<br />　これじゃあ絨毯もたまらないな、と思ったり、色やデザインも一層工夫をせねばと考えたり、いや、ポタージュ（日本料理だと味噌汁）なら滴は落ちないかなと思い返してみたりしていました。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/02/post-240.html</link>
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            <pubDate>Mon, 08 Feb 2010 10:39:45 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>横綱</title>
            <description><![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;子供の頃、強い強い雷電為右ヱ門（１７６７－１８２５）というお相撲さんのことを読みました。<br />　両脇に差しこまれた相手力士を外から貫拔きで締めつけて二の腕を折ったのと、張手で相手力士の頬を骨折させたのとで、共に封じ手になったほどでした。１６年間も大関の地位を守り、その間、３２場所中、負けたのは１０回だけだったそうですが、遂に横綱は贈られませんでした。<br />　雷電関の師が初代横綱、谷風（梶之助１７５０－１７９５）です。生涯で４４場所中、２５８勝１４敗（勝率約９割５分）、つまり当時春秋２場所、１場所１０日間として、黒星は２場所（１年）で一つなのです。<br />　また、６３連勝の記録をつくり、これは昭和の名横綱双葉山の６７連勝に次ぐものではないでしょうか。流石、雷電関の先生だけあります。<br />　しかし谷風は、強いだけではありませんでした。人柄が素晴しく、人びとから尊敬されていました。彼が江戸の街を行くと、大勢が子供をつれてやってきたそうです。横綱に跨いでもらったら、子供たちが丈夫で賢こく育つとの噂が広まっていたからです。<br />　横綱は、その形からも容易に解るように、注連縄、聖域（神様）のしるしだったのです。<br />　昔は良き時代でした。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/02/post-239.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">伝えておきたい事など。</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 04 Feb 2010 09:20:46 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>返信用葉書</title>
            <description><![CDATA[<p>　手紙や葉書のついでに、特に返信用の葉書について思うことを書いておきましょう。　返信用の葉書は屡々次のような形式になっています。</p>
<p>&nbsp;　<br />　 　御出席<br />&nbsp;　　御欠席<br />&nbsp;　　（上の何れかに○印をおつけ下さい）<br />&nbsp;　　　　　　　貴名（御芳名）<br />&nbsp;　　　　　　　御住所</p>
<p>　</p>
<p>　このとき、ただ○印を入れるだけ、あるいは住所、氏名の下に記入するだけでは、ちっと如何かと思います。<br />　「御」を斜線ででも消し、出（欠）席の上に「謹んで」、下には「します」「致しますなどの文字を入れる。また、貴名の「貴」や御芳名の「御芳」、御住所の「御」も斜線抹削しておけば...と考えます。"そこまでしなくても"とお考えの向きもあるかも知れせんが、念のため。なお、出席の場合、おめでたい行事であれば「御結婚おめでとうごいます。喜んで（謹んで）出席させていただきます」欠席の場合は、簡単に欠席の理由記述し、併し乍ら「御盛会を心から念じ上げます」などと書いておけば、返信を受けと側としても、何かほのぼのとしたものを感じられるのではないでしょうか。<br />　また、表に宛名が「××宛」などと印刷してある場合、寺院や会社などの単位、団体対しては、××の下、あるいは脇に"御中"と、個人宛の返信の場合は「××様」と、"様"の字を記入します。以上、老爺心から。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/02/post-238.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">伝えておきたい事など。</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 02 Feb 2010 11:19:30 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>手紙</title>
            <description><![CDATA[<p>　前回、手紙文の法則などと大層なことを書きましたが、近頃はその法則が、昔と比べて随分、自由化されているように思えます。<br />　尤も、この自由化は、いわゆる法則を知った上での破調ではなく、自己流と言った方がよいかも知れませんね。<br />　ものを書くのはなかなか苦心、工夫が要るもので、悩みも大きいものです。<br />　特に日頃、原稿用紙に向うことのない人が、用務に駆られて手紙を書かざるを得ない場合もあります。それでなくても、手紙の字や文面にも人柄が現れるとか言われ、気を使うことも少なくありません。また手紙は一種の芸術でもあります。その手紙を誤り無く、上手に書くために『手紙の書き方』などというタイトルの書物も何種類か出ているようですし、書でも文章でも「書く」ことは恥を掻くことだと言えないこともないのですが、「書き方」の詳細はそちらに譲るとして、極く基本的なことを中学生の時に教わりました。</p>
<p>　あれは確か２年生の春の頃だったと思います。国語や漢文担当のH先生が一日、授業時間に"今日は手紙や電（報）文の書き方を勉強する"と言って、お話がありました。<br />　まず普通の手紙は、最初「拝啓」とか「謹啓」とかいう挨拶語で始める。「啓」は口を開く、つまり「申し上げる」という意味だ。<br />　次に時候の挨拶や、御不沙汰のお詫び、相手の安否などを問う文章を書く。例えば「今年も早や花の季節になりました。長らく御不沙汰いたしておりますが皆様お変りございませんか。私もお陰様で日々恙無く過しております。御休心下さいませ」など。これが礼儀じゃ。<br />　そしてその次に用件の本文を書く。<br />　それが終ったら、再び挨拶。例えば「やがて梅雨、高温多湿の候となりますが、くれぐれも御身体御自愛のほど念じ上げます」など。そして末尾に「敬具」（敬いをもって）などと書き、行を換えて私信の場合は月日を書く(公文書の場合は年月日）。そして次の行に自分（差出人）の名前を下の方に。更に行を換えて相手（受取人）の名前を上の方に、自分の名前よりも大き目の字で書く......。<br />　また、手紙文は通常の話し言葉より、一段だけ丁寧な語法で書く。つまり対等の相手（友人など）に対しては一段丁寧な語法。弟妹や後輩などへは、一応対等な身分の相手と考えて書く。上の人には上々の人相手のつもりで書く。</p>
<p>　次に、簡略に用件だけを書く手紙の場合。これは相手によっては葉書でもよろしい。<br />　この場合は冒頭の「拝啓」、「謹啓」などの挨拶語、および、時候の挨拶文などは不用。いきなり「冠省」とか「前略」と書く。これは、冒頭の挨拶語、挨拶文（冠、前）を省略（省、略）します、という意味。そして次に用件を書く。例えば、<br />　「先日は旅行にお誘いいただき有難うございました。日程の都合がつきましたので、参加させていただきます。その節はいろいろ御世話に相成ることと存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。何れ当日拝眉を楽しみに」など。<br />　そして末尾の挨拶語としては「敬具」の代りに「頓首」「不備」「不一」「草々」「怱々」など、充分に意を尽していない略式の書面であることの詫びを述べる。月日、自名、宛名は同じ。<br />　但し葉書の場合、裏面には月日までで、相手や自分の住所氏名は表に書く。<br />　また、突然、急な用件の書状の場合は、冒頭の挨拶語として「急啓」などと書いてもよい。なお、返信の場合は拝啓などの代りに「拝復」と書く。また目上の人、たとえば先生に対してなどは、「前略」「冠省」ではなく、出来るだけ丁寧に「謹啓」などから始める...。<br />（註：私たち僧侶あるいは仏教徒は、末尾の挨拶語「敬具」などの代りに「合掌」などを用いるのもよいのではないでしょうか。時に「和南」など書いておられる僧侶もありますね。これはvandana（ヴァンダナ）というサンスクリットの音写で、礼拝、稽首、敬礼などを意味する言葉です。）<br />　それから、封筒の表書きは、相手の名前が出来るだけ中央にくるように、上から大きく書く。裏の自分の住所氏名は、まあ封筒の下半分に......。<br />　先生の講義は、まだまだ続いたと思います。<br />　そして次に電報の打ち方です。<br />　電報は現在では電話で申し込めますが、戦後暫くまでは郵便局へ行って「賴信紙」という用紙に書いて申込むものでした。<br />&nbsp; 賴信紙には、受取人の住所、氏名などは欄外に書き、本文と差出人の名前（略名でもよい）のみを枡目の部分に片仮名で書く。但し、濁音や半濁音の場合、「゛」とか「゜」は一字に数えられ、例えば「江戸」は「エ ト゛○」と書くから３字分になる。また句読点も一字分に数えられ、枡目一字で幾何の費用がかかる。だから電文は成るべく簡単に、しかし趣旨が間違いなく、正確に伝わるのでなければならない。「よいか、わかったか。ではみな、それぞれ例文を作ってみなさい！」<br />　そして私たちは、めいめいで電文案を作成して、教壇まで持参し、それを先生がまとめて１枚づつ朗読されます。<br />　ところが、その電文が、みな殆んど一緒なのです。曰く、<br />　「フ ゛ タ ト ン シ ス&nbsp; 、 ス ク ゛ カ ヘ レ 、 ○○」<br />&nbsp; つまり「豚、頓死す、直ぐ帰れ」なのです。<br />　「なんじゃ、これは。"豚、頓死す"ばかりじゃないか」<br />　それもその筈、先生は太っていて渾名は「ブタ」。後には頬ぺたの膨らみ具合から「河豚」が定着しました。<br />　私たち、まさに悪戯盛りだったのですね。<br />　昭和１９年頃のことでした。</p>]]></description>
            <link>http://blog.engi-project.net/rinban/archives/2010/02/post-237.html</link>
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            <pubDate>Mon, 01 Feb 2010 10:50:44 +0900</pubDate>
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